ハイドランジア・ノクターン

tanaka azusa

第1話

紫陽花が枯れたまま咲いている。

あの頃は今みたいな酷暑ではなかった。

いや、夜しか外へ出なかったからかな。

何年前の話だろう、

もう8年、9年近く前なんじゃないか。

今より青白い皮膚をして、

今より骨が浮きでた体ひっさげて、

なんだか色んな事を盲信して、過信して、

何が悲しいのか泣いてばかりいた頃。

まだ少女と呼べるような自由を持っていた頃。

羽根があるような気がしてビルを飛んだ、

君へ。


どちらかと言えば明るい性格の美しい男と同時に恋に落ち、酷い事をしてしまった事を今でも申し訳ないと思っている。贖罪とまではいかないが、償う術はもう無い。


そのビルは渋谷の再開発でなくなってしまった。飛んだといっても、本当に飛んだわけじゃない。高層階の非常階段に立って、

夜風を浴びただけのはずだった。

あの夜、私は笑ったり戯けたりした。

君も少しだけ酔ってただろうな。

ぬるい風が吹いていておそろいの金髪を揺らしていた。


東京の夜は、こんなに高い所だと

海のように静かに沈むのだ。

ビルの隙間からは、腹の薄い月が浮かんだ。

私たちは手すりに背中を預け、

下を見下ろすこともなく、

あてもない話をした後、沈黙した。


「もう帰らない」と、

たしか確か君が言ったんだっけ。

いや私が言ったのかもしれない。

どちらだったか今更確かめようもないな。

君の姿を見たのも、声を聞いたのも。

あれが最後と知っていれば、

あんな言葉もあんな酷いこともしなかったのに。

誰も予感していなかった、なんて嘘で、

私だけが知らないふりをしていた。


そもそも罠をしかけたのは私の方だった。

運命なんて馬鹿げた嘘である。

趣味、仕事、美的感覚そういったもの全てにわざと共感し、運命だと思わせた。

それ以前に偶然を装って君の友人に近づいて、

君の好きな容姿をして通りがかった。

そうしてリサーチした江國香織の小説を手に取り、あまりにもわざとらしく運命を意図的に作り出したんだから。


今よりもっと景気が良い都会はより一層まだ若い私を裕福に思わせた。恋なんて簡単に手に入った。ハイブランドのジュエリーや時計、今もまだクローゼットに残るバックなんかと同じだった。

今思えば若い無邪気さの残る美の前借りで、資産や実績なんかではなかったのだ。だから君も簡単に手に入るものだと思っていたし、狭い高級マンションにあるインテリアと並べた。それらを手入れをするほど何かを大切に扱うことも出来ないのに。


じりじりと照り付けるアスファルトは今となればきっと可愛いものだった。待ち合わせの時間まで代官山の駅近くのこじんまりしたカフェで小説を読んでいた。私は君との唯一の共通点である甘党であることを忘れて、ガムシロップをたっぷりいれたミルクティーを注文した。薄く透けるようなページを長く伸ばした爪で捲り半分まできた。氷の踏み外す音を聞く、なかなか来ない。なんて非常識なんだ。もう何時間か待った気がする。華奢な腕時計のある手首に視線を移し、いい加減帰ろうかと思った時だ。優雅に髪を揺らして華奢で背の高い王子様のような美しい顔立ちの金髪の髪を結んだ色白の男が顔を赤らめながら私に駆け寄った。笑った。綺麗だった。私は欲しい、と思った。「あの、待ちましたよね…」「少し」「ごめんなさい…」子犬のような顔で泣きそうになっている彼を許さない女はいるのかしらとすら思っていた。「いえ、どこに行きましょうか?」「あなたを連れていきたい場所があって。」手招きをして近くのタクシーに乗せてくれた。それから近くのビルに到着し、中へ入るとそこは本棚がずらりと天井まであるバーラウンジだった。こんな所あったんだ。スイートワインを頼むと、君は確かチンザノのロックを飲んでいた。何やら難しそうな植物の本をペラペラと読みながら私の顔をじっと見ながら「…美しい、顔ですね」と色白の皮膚を耳まで真っ赤にしながら言った。「あなたも、綺麗だね」と言ってワインを飲み干した。この時の私の髪は透けるような栗色で彼と同じにしたいなと思った。恋に落ちたんだと思う。手に入れなくちゃ、私が欲しいと思ったものは。全て。


夏生まれの私は、その年1人で誕生日を過ごすことになった。バッドエンドの少女の映画を観た。それから古びたシアターを出て近くの銀座のバーで一杯グラスシャンパンを飲んだ。あまり口に合わなかった記憶がある。マスターは何も発さず、薄暗い店内には疎に人が居たがあまりに静かで一層惨めに、淋しくさせた。ああ、あの子が居たら。あれは一目惚れだったのか。思いを巡らせながら帰路につき、タクシーを呼ぶために大通りに出て会いたいと連絡をした。しかし来なかった。


幾許か日にちが経つと向こうの方から連絡が来た。フラワーアーティストの友人が開催するパーティーを開くというのでシルクのブラウスにウエストの締まったスリットスカートを履き、シルバーのミュールを履いた。粧し込みすぎたかなと思い、ピアスを控えめにした。

会場は表参道の古い洋館を改装した建物らしく、部屋ごとに花がしつらえてあると聞いた。

君はわざわざ私の最寄りまで迎えに来て、相変わらずタクシーで向かうことにしたが週末はやはり混んでいてなかなか捕まらない。

「そういえば、今何の仕事をしてるの。」

私が空車を探しながら不意に聞いた。

「美容師、かな。もう辞めるんだけどね。」

君は俯きながら、束ねた髪をおろす。

「また偶然、私も学校に通っていたから」

勿論嘘である。手に入れば良いのだから。

そこからまた話に花が咲き、鮮やかに造花と生花が入り混じってやっと車内に乗る。


会場はサイケデリックな花々が散らされてドライフラワーが逆さ吊りになっていた。友人が多いようでDJブースやカウンターで挨拶回りをしている間会場奥、白い壁に沿って進むと、

一角に季節外れの紫陽花が飾られていた。


それはとても異様な雰囲気を漂わせてパーティーのムードとはまるで違った。場違いな私に似ている。半分は枯れ、半分は色をとどめたまま、

花弁をわずかに開いていた。キメラだ。


その紫陽花の前に暫く立ち尽くすとけたたましいテクノミュージックが私の目を震わせた。

いつの間にか君がそこから顔を出し、無邪気に「あなたに似合うね」と言われた。妙だった。


パーティーの喧騒は遠くなり、

私たちはその花の前でしばらく立ち尽くした。

全部この沈黙に溶け込んでいくようだった。

色褪せながら唇だけ艶めくようなキメラ。

その唇はまた戯言を吐くだろう。


結局、その夜お酒のせいもあってか君は私の家に泊まっていく事になった。何やら大荷物かと思っていたら誕生日プレゼントらしい。シルバーの筒状の箱に包まれていたのは赤や黄色、紫などが入り混じる鮮やかなフラワリウムであった。ドライフラワーは仄かな香りを残しながら閉じ込められていた。そこにキメラの花もある。私は妙な気持ちになりながら「ありがとう、美しいね。大切にする。」そう、また嘘を吐いた。それから眠る前「ねえ、仕事辞めるなら私の家にいればいいのに」と言った。君といれば私はお姫様になれる。いえ、お姫様というか、飼い主。


紫陽花は、梅雨の水気を吸いすぎると

恋をも吸い取り、未婚女性が家に根付くとされる事から縁起が悪いと今になって聞かされた。

もう遅い。

吸いつくすのか、水も、熱も、何もかも。

あのマンションを避けるようにして街を歩けば、年開発が終わった渋谷が見えてきて、君が飛んだのビルの輪郭に飛行機雲が横切っている。

夢のような恋だったし、君と過ごした証拠が跡形もなく本当に夢なんじゃないかと思ってしまう。


あの夜から君は私の最も美しいインテリアになった。そしてその持ち主はインテリアに相応しい美しさと華奢で繊細な作りをしなければいけないと思い、強迫的になっていた。何も食べずに痩せていく体と共に満月は少しづつ削れていった。月光は高層階を眩い光で照らし硝子ケースに覆われた花の死骸は艶めいた。私達は美しかった。それはお互いが美しいと言ったからだ。それだけを信じていける程、無垢だったからだ。



それから、私たちは夜の散歩がてらあの非常階段へ通うようになった。私は、何の日でも無いけれど鎖のデザインの指輪を渡し、君はそれを嬉しそうに薬指にはめて手を広げ眺める。


あの頃の私は、まだ君の全てを欲しいと思いながらも、手に入れることが叶ってしまう前の、不確かな距離を楽しんでいた。

都会の夏は湿気を帯びながらも、夜になれば冷えた空気がアスファルトをゆっくりと撫で、信号待ちの間に頬をかすめるバニラの香水と排気ガスとを混ぜ合わせて鼻腔に残した。

君と並んで歩く渋谷の坂道は、ほんのわずかな傾斜なのに、隣にいるだけで息が弾んだ。


初めてその非常階段に立った夜のことを、私は今でも鮮明に覚えている。

高層階のドアを押し開けた瞬間、夜気がぶわっと流れみ私の髪を後ろに撫でつけた。君の金髪もふわりと持ち上がり、月明かりがその隙間をすり抜けて私たちは銀の獅子になる。星なんか見なかった。階段の金属手すりは昼間の熱を失って冷たく、指先で触れるとしっとりと水気を含んでいた。


「高いね」

君はそう言いながら、柵越しに街を見下ろした。けれど、私は高所恐怖症であるから視線を下に落とすのが怖くて、君の横顔ばかりを見ていた。笑うとき、口角がほんの少しだけ右の方が高く上がる癖。酔っているせいか、目尻がいつもより柔らかく緩んでいて、夜景よりもその光景の方がずっと眩しかった。


都会の灯りは、ここから見るとまるで海の底の光の粒のようだった。遠くで救急車のサイレンが響いても、この高さでは届く前に小さな音に変わってしまう。二人の間に沈黙が落ちたとき、その静けさがあまりに心地よくて、呼吸まで揃っているように錯覚した。私の吐いた嘘に私が騙されていくのを自覚しながら陶酔する。愚かだったと思う。


「もう帰らない」

誰が言ったのかはわからない。

運命も永遠も嘘っぱちだ。


その後も、私たちは夜になると街を抜け出し、あの階段や屋上で、君はコーヒーに必ず砂糖を二つ入れて飲む。私はバニラの煙草を吸いながら舌の奥でじんわり広がる甘さが苦さに変わるのを拒んでいた。


ある晩、渋谷の裏通りにある古いバーに入ったとき、店内には低く流れるジャズと、ミントの葉を潰す乾いた音が漂っていた。カウンターの照明は琥珀色で、君の色素の薄い瞳が宝石のように煌めく。ワイングラスの縁を指でなぞりながら、私は「こういう場所、落ち着くね」と言った。

君は笑って、「あなたがいるなら、どこでも落ち着く」とやはり飼われた犬のように従順に答えた。


君はよく、本を読むふりをして私を見ていた。ページをめくる指が止まっていても、私は気づかないふりをした。その視線が、私をひとつの物語の主人公にしてくれる気がして、少し酔ってしまうのだ。


夜になると散歩をするのが習慣になった。小夜風はどこまでも柔らかく日焼けのしない頬を撫でる。街灯に照らされてそよぐ木々の影でさえ美しいと思えた。信号待ちの間、君がふと私の手を握った。その手は少し汗ばんでいて、でも離すのが惜しくなるほど心地よい温度を持っていた。


徐々に、私は支配的になっていった。それでも君は優しかった。鎖の指輪は複雑に絡み合っている。永遠など嘘でその嘘がいつか襲ってくるんだと不安で仕方なかったからだ。


私は罵声を吐き、君の居場所を少しずつ削った。それでも君は眉毛を下げて謝った。そんな日がずっと続いて夜はもう帰ってこない事の方が多くなっていた。ああ、やはり。終わらせてしまった。

鎖で繋いで、部屋に閉じ込めて、花瓶と化した狭いこの空間に水なんてなかった。

最後の日、明らかに痩せ細り落ちぶれた私を見て、目を見開き、君は「ごめんね、ごめんね、強がらせてしまって。こんなにか弱かったなんて、こんな風になるなんて。」と言った。その声を背に、泣き顔を見せないように家を出た。痩せすぎた体では、長く歩けなかった。道を行くの人々の目が私を同情の目で見る。もう、美しくなかったのだ。


家に戻ると、君はいなかった。もしかするとあの非常階段にいるかもしれないという期待からタクシーで追い上げる。しかしそこにあったのは、私があげた鎖だった。君は飛んだのか、生きているのか、それともどこかで別の人生を歩いているのかはわからない。でももう居なくなってしまった。


部屋に立ち尽くし、痩せて青ざめた手を握り締めフラワリウムの硝子を割った。散らばった花殻を抱きしめると、乾いた花びらと私の血が皮膚にひやりと張りついた。


紫陽花は、枯れてなどいなかった。

ただ、君を吸い尽くして、生き延びていただけなのかもしれない。私はここに根を張りすぎてしまった。

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