第8話 禍津守の秘密_4

麻衣はホテルの最上階のスイートルームの窓際のソファーに座っていた。彼女は白いワンピースを着て、静かに外の景色を眺めていた。彼女の長い黒髪は肩に掛かり、顔色は前日よりも良くなっていたが、まだ疲労の色が残っていた。

部屋に入ってきた拓真を見て、麻衣はゆっくりと顔を向けた。


「あ……」


その目には、昨日の虚ろさはなく、優しい光が宿っていた。しかし同時に、どこか決意のようなものも浮かんでいるようにも見えた。


「麻衣……。あ、俺拓真っていうんだ。名前名乗ってなかったよな」


拓真は彼女に近づいた。


「大丈夫?」


麻衣は小さく頷いた。


「うん……ありがとう。昨日は、助けてくれて……」

「俺は危ない!って声を上げただけだったけどな。そんなことより、すごいんだな。あんな魔を祓っているなんて」

「それが……私の役目だから」


麻衣は恥ずかしそうに目を伏せた。

拓真はソファーの彼女の隣に座ろうとしたが、麻衣は僅かに体を遠ざけた。その仕草は小さかったが、確かに拒絶の意思を示していた。拓真は少し戸惑いながらも、距離を置いて座った。晴人と鈴音は少し離れた場所に立ち、二人を見守っていた。


「麻衣」


拓真は真剣な表情で言った。


「君はこんな危険なことを続けるつもりなのか?2人から聞いた、詠という人が……異界に飲み込まれたって」


麻衣は静かに窓の外を見つめた。


「うん。私も知ってる。詠さん、もっと話したかった。でも、魔と戦いすぎて……」


彼女は言葉を選ぶように少し間を置いた。その顔には複雑な感情が浮かんでいた。


「私も詠さんとおんなじようになるかもしれません。それでも、これが私の役目です」

「でも、そんなの……」


拓真は反論しようとした。


「他に方法があるんじゃないのか?」

「ありません」


麻衣はきっぱりと言い切った。その声には以前会った時にはなかった冷たさが含まれていた。


「私か香澄が神の器になって魔を祓う、これは私が生まれた時から決まっていたことです」

「でも――――」

「それとも」


これまでで初めて麻衣は拓真の言葉をさえぎって顔を上げた。


「拓真さんが私の代わりに神を降ろして魔を祓ってくれますか?」

「――――っ……」


その瞳は真っ直ぐに拓真を見ていた。彼はその視線に耐えられず、思わず目をそらした。


「……これからどうするつもりなんだ?また、魔を祓うのか?」


拓真は尋ねた。


「私たちはここを離れます」


麻衣は素っ気なく答えた。


「魔の気配の知らせがありました。そこに行きます」

「いつ?」

「明後日」


晴人が代わりに答えた。


「我々の滞在はここまでだ」


拓真は言葉を失った。こうして初めてきちんと話すことができたのに、こんなにも早く別れが来るとは思わなかった。初めて見つけた「目」で何も見えない少女。2年間ずっとできなかった、こうしてまっすぐ話していても普通に話せる少女。なんとか助けになりたいと思った。


「でも――――」


拓真は何か言おうとしたが、麻衣が再び静かに声をさえぎった。


「拓真さん」


彼女の声は小さく、感情を殺したようだった。


「あなたはわたしたちの世界に関わるべきではありません。あなたには普通の生活があります。それを大切にしてください」

「麻衣の言う通りだ」


晴人が付け加えた。


「魔と戦う世界は、普通の人間が踏み込むべき場所ではない」


拓真は少しだけ黙って考え込んだ。確かに彼らの言うことは理解できる。しかし、麻衣を一人で戦わせることに、どうしても納得がいかなかった。


「でも、俺にもあの黒い霧、魔が見える!何か、何か役に立てるんじゃないか?」

「邪魔です」


麻衣の言葉は鋭かった。その冷たさに拓真は息を呑んだ。


「見えても何もできません。それに下手に見えるだけ狙われるかもしれません」

「でも、昨日は――――」

「昨日は運が良かっただけです」


麻衣は拓真の言葉を切った。


「拓真さんは拓真さんが言ったように声を上げただけです。自分の身も守れないような人は邪魔です。私たちは命がけで戦っているんです。あなたがいれば、私も晴人も鈴音も、あなたを守ることに気を取られて集中できなくなります」


麻衣の言葉の一つ一つが、拓真の胸を刺した。彼女の目は冷たく、まるで他人を見るような目だった。拓真は胸が締め付けられる思いがした。


「麻衣……そんなこと……」


麻衣は一瞬だけ表情を崩したが、すぐに今までと同じような冷たい面持ちに戻った。


「中途半端な哀れみはやめてください。不愉快です」


抑揚のない、そして、わずかに震える声で言い放った。


「現実を見てください。あなたが関わることで、誰も幸せになりません。私たちは私たちの、あなたはあなたの世界で生きるべきです」


拓真はぎゅっとノートを握りしめ、それ以上何も言えなかった。彼女を救いたいと思っていたのに、自分がいかに無力であるかを思い知った。


「わかった……君がそう言うなら……」


拓真はついに諦めたように口にした。麻衣はほっとしたような、しかし同時に何かを失ったような表情を見せた。


「拓真さん……どうかわすれてください。私たちのことも、魔のことも、すべて」


拓真はゆっくりと立ち上がった。もうこれ以上この場所にとどまることはできなかった。


「わかった」


拓真は静かに言った。


「今日は、話す時間をくれてありがとう。これからも……」


――――頑張って?


その続きは何も言えなかった。何を言っても違う気がした。


「さようなら、拓真さん。お元気で」


麻衣は最後に言った。拓真は何も言わず、逃げるように部屋を後にした。ドアを閉める直前、彼は振り返り、麻衣を見た。彼女は再び窓の外を見つめていた。その小さな背中は、想像以上の重荷を背負っているように見えた。


***


拓真が去った後、麻衣の冷たい表情が崩れ落ちた。彼女は両手で顔を覆い、小さく震え始めた。


「ごめんね、麻衣」


鈴音が近づき、優しく声をかけた。


「本当につらい思いさせちゃって」


麻衣は首を振った。


「ううん。いい。私は役目だから。言葉、考えてくれてありがとう」


そう言いながら、麻衣は文章が書かれた紙を握りしめた。彼女はふらりと立ち上がりゆっくりと窓に手を当てた。


「それに私ももうあんまり長くないから……彼を巻き込むわけにはいかないから」


鈴音は思わず麻衣を抱きしめた。彼女の目から涙があふれ出た。


「そんなこと言わないで。私たちが必ず守るわ」


晴人も麻衣に近づき、彼女の頭に優しく手を置いた。普段は厳格な彼の表情が、今は深い愛情と悲しみに満ちていた。


「麻衣」


晴人は珍しく柔らかな声で言った。


「あの態度は必要だったのか?さすがにもう少し、なんというかちゃんと別れることもできたんじゃないのか?」

「だめです」


麻衣は涙を拭いながら言った。


「拓真さんはきっとやさしすぎる人。わたしわかるの。ちょっとでも手をさしのべちゃったら、きっとこっち側にこようとしちゃう。それだけは……嫌だから」


晴人は深いため息をついた。


「そうか……」


麻衣は小さく頷いた。晴人と鈴音は言葉もなく麻衣を見つめた。彼女の小さな体に宿る強い決意と優しさに、そして、彼らにできることは、ただ麻衣が自分の道を全うするまで、できる限り支えることしかできない自分たちを呪った。

外では、夕日が地平線に沈みつつあった。誰も何も言わず、その夕日を眺めていた。赤い陽光が部屋を染め、三人の長い影を床に落としていた。


***


拓真はホテルを後にして、寒い夜の街を歩いていた。頭の中は麻衣の冷たい言葉でいっぱいだった。


――――中途半端な哀れみはやめてください。不愉快です

――――自分の身も守れないような人は邪魔です


その言葉の一つ一つが、今でも胸に刺さっていた。

空を見上げると、月もなく、星もほとんど見えない暗闇だった。街の明かりだけが、彼の足元を照らしている。足は重く、心はもっと重かった。


「あんなに言われたのにな」


自然と口から言葉が漏れた。

拓真は自分自身に問いかけた。冷たく拒絶されたのだから、そのまま日常に戻ればいい。魔のことも、神降ろしのことも忘れて、普通の高校生に戻ればいい。それなのに、麻衣の小さな背中が頭から離れなかった。

彼女の瞳の奥に見えた孤独と、言葉とは裏腹に助けを求めているような印象。拓真にはそれが見えた気がしていた。「目」の力によってではなく、単純に人として、彼女の心の叫びを感じていた。


「くそっ」


拓真は唇を噛んだ。

中学の頃、彼は学校で「おせっかい焼き」として知られていた。誰かが困っていれば放っておけず、自分から関わっていく性格だった。「目」の力が目覚めてからは、人の心の闇が見えるようになり、距離を置くようになったけれど……今、あの頃の衝動が再び胸の内に湧き上がっていた。

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