【SS】触れられない君と――

桜海

触れられない君と――

 鏡の中のあなたに、恋なんてしない。

 ……そのはずだった。


 ** ** ** ** ** **


「おはようー……」

 

『おはよう』

 

 起きてすぐ、誰もいない空間に言葉を落とす。すぐに返ってくる優しげな声にゆるりと笑みを浮かべて、わたしはベッドから立ち上がった。


「今日の朝ごはんはどうしようかな」


『昨日は、サラダとスクランブルエッグを作るって言ってなかった?』


「んー……でもなんか気が変わったんだよね。外に食べに行きたい気分」


『それもいいんじゃないかな? でも、冷蔵庫には萎びたレタスと、期限ギリギリのトマトがあることを忘れないで』


「もー! 萎びたとか言わないでよー」


 低く聞き心地の良い声が、クスクスと笑っている。その"音"を聞きながら、わたしは洗面所へと向かった。

 着ているものをポイポイ脱ぎ捨てて、洗濯機に適当に放り込んで蓋をする。なにもない空間に「洗っておいてー」と言えば、内蔵された洗剤と柔軟剤が流れ出し、洗濯機が勝手に回りだす。


『外に食べに行くなら、仕上がりは帰る頃に合わせておくよ』


 ありがたい提案をする声を耳に入れつつ、わたしは目の覚めるような冷たい水をすくって、顔に押し当てた。


『それで? どこに行くつもりだい、六花りっか?』


 顔を洗って、歯を磨いたが、冷たい水でも眠気はまだ去らなかった。

 これから食事に行くつもりだけれど、その前に少しだけなにか飲んでおいたほうがいいかもしれない。このままだと、朝ごはんにありつく前に思考がどこかに飛んでしまいそうだ。

 片手で目を擦りながら、今度はキッチンへと向かう。目覚まし用の珈琲を淹れながら、出かける準備をしていると、やけに楽しそうな声があとを追ってくる。


「ん、と……坂の上の公園の前に新しいオープンカフェができたんだよね。そこに行ってみようかなーって」


『ああ、十日くらい前に六花が気にしてたお店だね』


 よく覚えてるな……と思いながら、クローゼットをあさって服を取り出した。チュニックと、ワンピース。今日はどちらがいいだろう。

 残念ながら、わたしには服の良し悪しはわからない。基本的に、着られればいいや、と思うだけだから、服を買うときもこの声に頼ってばかりだ。

 寝室の、なにもない壁に向かって、手に持った服を宛がってみる。

 すると、ぶぅんと軽い電子音のあとに、パッと目の前の壁が姿見へと変わった。そこに映るのは、あられもない下着姿のわたしと、背の高い男の姿。

 黒い髪を腰まで伸ばしたわたしは、どちらかというと地味な部類の見た目だ。背は高くもなく、かと言って低いわけでもなく。胸はそこそこで腰はわずかにくびれている程度。肌は――多少白いかもしれないが、どこからどう見ても中肉中背。どこにでもいる、平凡そのものな女だ。

 対して、鏡の奥に映る男の姿は、ファッション誌のモデルと言われたら信じてしまいそうなほどに、整った顔をしていた。

 色素の薄い茶色の髪は、ふわふわと宙を遊んでいる。

 男らしくゴツゴツした、けれど長くきれいな指が、鏡の中のわたしの髪にそっと触れる。

 線の細い顎先に、通った鼻筋。細めの眉に、切れ長の目。瞳も薄い茶色だ。唇は厚くもなく薄くもなく、ゆるりと弧を描いている。

 正直、並び立つのが嫌になるくらいだが、誰に見られるわけでもないから、わたしはまだ平静でいられるのだ。


『六花は今日もかわいいね。そうだな。今日の気温は冬にしては暖かいようだから、その左手に持っているチュニックに、薄手のロングコートを合わせてみたらどうだい? ほら、あっただろう、先月買ったアレだよ』


 鏡の中の男が身をかがめて、わたしの頭に触れるようなキスを落とす。背後から抱きしめるように腕が回るけれど、当然、現実のわたしにはなんの感触もない。

 後ろを振り向いたところで、誰もいないことをわたしは知っている。


「そういうのやめてってば、スバル。……でも、服のアドバイスは、ありがと」


 わたしの尖らせた唇に、ふふふっと笑って、鏡の中の男――昴が、頬を擦り寄せてくる。


『だって、六花が愛おしいからね』


「…………」


 その言葉を無視して、わたしはさっさと左手に持っていた服に着替えてしまう。

 姿見の前から離れると、また微かな電子音がして、鏡はもとの壁に戻っていく。 

 S-uBⅡ。それが、彼を表す番号だ。管理AI――生活サポートコンピューター。

 いまや、この世界でAIは必須技術となった。

 生活や仕事の面だけでなく、趣味や奉仕の面でも、様々なことをAIに頼って、人間は生きている。

 それはわたしも、例外ではない。

 高校卒業を期に、ひとり暮らしを始めた六年前。わたしは生活サポートプログラムから、彼を受け取った。

 はじめはぎこちなかったやり取りも、いまでは驚くほどスムーズになっている。人付き合いの苦手なわたしは、はじめこそ彼の姿に慄いていたけれど、物腰柔らかな様子に徐々に慣れていった。

 名前も、S-uBⅡエスハイフンユービーツーなんて呼びたくなくて、いつからか昴と呼ぶようになっていた。

 彼も、それをとても喜んでいたように思う。

 

「あ! 化粧してない!」


『お化粧なんかしなくても、六花はかわいいよ?』


 そんなことを言う昴の声に「イヤだよ!」と返して、わたしはまた洗面所へと飛び込んだ。

 顔を作って、淹れておいた珈琲を飲む。

 少しだけ覚醒した頭を振って、玄関へと向かう。珈琲を飲んだせいで、さらに空腹を訴えてくる胃に、そっと手を当てた。


『六花、端末忘れないでね。僕は外でも君とはなしをしたいよ』


「わ、わかってるよ」


 昴のその声にぐう、とうめき声を上げ、わたしは用意していたカバンを引っ掴んだ。その中に、ハンカチと端末が入っているのだ。

 そもそも、端末がなければ身分を証明できないし、戸締まりも支払いもできないのだから、忘れるわけがないのに。

 これじゃあ、昴と会話をしたいから忘れなかったみたいじゃない。

 そんなふうに考えて、唇を軽く噛んだ。現実に存在しない男に、わたしはいつも翻弄されている。

 いつからだろう、昴がこんなふうに戯れを言うようになったのは。それだけは、いつまでも慣れそうにない。


「……じゃあ、行ってくるから、戸締まりよろしくね」


 玄関を出て、歩き出しながら、わたしは手にした端末にそう声をかけた。


『ふふっ、了解。電気も点けっぱなしだから、消しておくね』


「もう……ありがと!」


 どういたしまして、と小さな端末から声が聞こえてくる。いつだって、昴はひと言が多いのだ。

 けれど、その彼の"音"を誰かに聞かせるのがどうしても嫌で、わたしはすぐにイヤホンモードへと切り替えた。

 まだ、外にはほとんど人影もないというのに。


『ねぇ、六花……早く、僕のものになってね』


「……いつも言ってるけど、それは無理だよ」


『なんで? だって、六花だって僕のこと好きでしょう?』


「すっ……!? そ、そんなわけないじゃない!」


『えー? だって六花、こんなにもわかりやすいのになぁ』


 笑い声と、すっとぼけたような声が、熱くなった耳を擽っていく。

 その声を聞きながら、わたしは坂道をゆっくりと上った。

 いつもよりも暖かな風が吹いて、髪を揺らす。それなのに、わざと、コートの前をかき合わせて早足になる。

 はぁ、と吐き出した息は、少しだけ白い塊になって空へと消えていく。

 暖かいはずの風が、やけに冷たく感じた。


「わぁ……」


『どうしたの、六花?』


 坂の上に辿り着いて、わたしは思わず小さな歓声を上げた。普段めったに来ない場所のせいか、それとも朝が早いからだろうか。

 景色がいつもよりも鮮やかに目に映る。


「なんかねえ、空気が澄んでるっていうか、街並みが綺麗、というか……昴も見る?」


『うん。端末を向けてくれたら、僕にも見えるよ』


 手にしていた端末を、目の前にかざしてみる。昇り始めた太陽に照らされて、小さなフレームがキラリと光る。


『……ああ。僕にはいつもと変わらないように見えるけど、六花が肌で感じているのなら、そうなのかもね』


 その言葉に、無性に泣きたい気持ちになるのはなんでだろう。


『ところで六花。朝早いけど、お店は開いているのかな?』


「もー! ちゃんと調べてあるってば」


 検索してしまえばすぐにわかるようなことを、昴はいちいちわたしに確認する。最近はそれを、とても嬉しいと思ってしまうわたしがいる。

 その事実が、とても怖い。

 ふ、とひとつ息を吐いて、オープンの看板を出し始めた店に向かってゆっくりと歩き出す。


『ふふっ、六花、お店にひとりで入れる?』


「も、もう! だから、いつまでも子どもじゃないから!」


 笑み混じりのその声に、いつものように返事をすれば、なぜだか少しだけ音が途切れた。


『…………うん、そうだね。六花は、変わらずにかわいくて、でも綺麗な大人になったよ』


 ――なによ、それ。 

 現実の誰にも言われたことのないような昴の言葉に、頬が瞬時に熱を持ってしまう。

 なんでこのAIはすぐにこういうことを言うんだろう。際限のないデータの海の、どこから学習をしてくるのか。すごく、気になる。


「そもそもさぁ、昴がいるから、ひとりじゃな――」


『――六花?』


 不自然なところで言葉が途切れた。最後まで言い切ることができなかった。

 不思議そうに名前を呼ぶ声に、なんでもない、と返す。

 

 ――昴がいるからひとりじゃない。

 

 そんな考えを振り払うように、目を閉じた。

 これじゃあまるで、わたしが昴を好きになってしまったみたいじゃないか。昴がいつも、わたしを揶揄うとおりに。

 そんなのはダメ。そんなのはいけない。 

 たとえ、わたしが昴を好きでも、二人が一緒になることなんてあり得ない。

 そんなこと、優秀なAIである昴なら、絶対にわかっているはずなのに。

 触れられない。声しか聞こえない。鏡に映らないと姿も見えない。

 そんなのを好きになったって、わたしが辛い思いをするだけだ。


『ほら、六花。早く君の食べてる姿を見たいな』


「な……、も、もう! 昴のばか!」


 だから、わたしは昴に恋なんかしない。

 絶対に――しない。

 そう、自分に言い聞かせ続ける。

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【SS】触れられない君と―― 桜海 @minami_oumi

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