唇に触れた

 出口に向かっていく来園者の流れに逆らって、大きな観覧車を目指していく。その場で空回りし続ける車輪は、歯車に良く似ていた。


「行ってらっしゃーい」


 観覧車の係員は最後まで笑顔だった。閉園間近にくる客なんて迷惑でしか無いだろうに、その姿勢にはただ脱帽するばかりだ。


 僕に達の乗り込んだ箱が、ごうん、とくぐもった音を立てて、地上から遠ざかっていく。


 途端、更上は叫んだ。


「良い子だから!」


 俯きながら、何かを呪うように。


 声は狭い部屋でぐわんと反響して、耳と頭を殴りつける。それでも僕は、黙ってその慟哭どうこくを聴いていた。


「良い子だから良い子だから良い子だから良い子だから!? 良い子だからいけないの!? 良い子だから、ママはアタシに構ってくれないの!?」


 彼女は、狂ったように叫びながら、ぐしゃぐしゃと染め上げた髪をかきむしり、焼けた肌をひっかき、最近めっきり吸わなくなった煙草の箱を投げた。


 僕の頭の横で、ぱん! と意外なほど軽い音を立てて、煙草の箱が潰れる。


「だから君は、悪い子になろうと思った?」


 椅子から降りる。膝立ちになって、震える彼女の腕を押さえる。俯く彼女の顔は、この姿勢でもあまりよく見えなかった。


「でもママは、それでもアタシのことなんか見向きもしなかった! 髪を染めた時も肌焼いた時もピアス開けた時もこんなバカみたいな喋り方をし始めた時も、いっつも悲しそうに笑うだけで、アタシに何も言わなかった! 出世した? お給料上がった? そんなのどうでも良い! 貧乏だって良い! お金なんていらないよ、アタシはただ叱って欲しかった! アタシはただ、寂しかっただけだった……!」


 ──実はあの方、あまり好かれているわけではないのでは?


 脳裏に寝転ねころびの声が過る。


「人気者になった今も、その寂しさは変わらないかい」


 彼女との会話を思い出しながら、僕は訊いた。案の定、更上の返事は肯定だった。


「集まってくる奴らの言葉はふわふわしてて、風船みたい。重みがないんだ。意味とか想いとか、そこに何も詰まってなくてさ。今何言ってるか、多分自分でも分かってないよ、あれ。誰も彼もその場しのぎに、条件反射みたいに、プログラミングされてるみたいに、アタシっていうボスに向かってご機嫌とりの為のテンプレートな言葉を吐くんだ。ギャルゲとかだとさ、会話文で選択肢出るじゃん? 正にそれだよ。そんな関係になんの意味があんの? あいつらはまるで人形じゃんか。アタシはずっと独りで、おままごとをしてるんだ」


 「でも」と、更上は顔を上げた。溜まった涙を指で掬ってやる。


「久遠は違った。久遠は、皆に囲まれるアタシに目もくれずに、ずっと独りで仏頂面で、マジで何にも興味なさそうな、つまんない顔で窓の外ばっか見てた。アタシに媚びたりなんか絶対しなかった。変な奴だって思ったけど、それ以上に凄いと思った。だってお前は全然寂しそうじゃない。アタシとは違う、強い奴だって思った」

「…………」

「きっと最初は憧れだったんだ。自然と目で追っちゃってた。そしたら、いつの間にか思ってたんだ。『こういう人から向けられる愛は、きっと本物だ』って。アタシは久遠に、好かれたいって思っちゃってた。それって、好きってことだろ?」


 涙はいつまでも止まらなかった。流れ落ちる雫を拭いながら、ふと思う。彼女は、一体いつから泣いていなかったのだろう、と。


 瞬間、動けなくなる。涙を止めようとするこの行為が酷く無粋に感じて、彼女の頬に手を当てた半端な体制のまま、固まってしまった。


 しかし、それは彼女も同じだった。


 彼女の目が、ずっと閉じたまま開かない。呼吸は浅く、頬は紅潮している。長い睫毛がふるふると細かく揺れていた。


 僕は何も言わない。彼女も黙っていた。


 誰もいない密室。夕陽の沈む頃。まるで世界に僕達しかいないような錯覚に酔いながら、ただ、僕は彼女の唇に触れた。

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