中編


 さて、パスワードである。

 複雑化が求められる昨今ではあるが、これに関しては社内で作られた独自システムということもあり、いまどきめずらしい数字四桁。数打ちゃ当たる方式が使えなくもないが、さすがにそこは制限がある。


 五回間違えたら、ロックがかかる仕様。

 そしてロックの解除に関しても、初期化同様にシステム担当者経由での申請。なお三課のシステム担当は以下省略。

 仁科の机にいてもどうにもならないと判断し、ふたたび共通パソコンの前に戻ってきた一行。

 おもむろに河合が提案した。


「よし、推測しよう。パスワードといえばなんだ」

「ベタなところでいくと、全部ゼロ」


 佐藤が答えつつ、キーボードでゼロを四つを入力し、エンターキーを押す。

 するとメッセージウィンドウが開き、警告文が表示された。



 エラー

 IDかパスワードが間違っています



「だよなー。そこまで安直じゃねえよな」

「貴重な一回を無駄にっ」


 河合が笑う。大橋は嘆いた。


「まだ四回ある。平気平気」

「じゃあ次もベタで、1234にしよう」

「いや、そんなお手軽に試して――」


 またしても佐藤がキーボードを操作したところ、さっきと同じ警告メッセージが現れ、「あ、やっぱ駄目か」と呟いた。


「やっぱ、じゃないですよお」

「いや承認が入らなくて困るの俺じゃなくておまえだし」

「ひでえ! 真面目に考えましょうよ。一度は聞いてるんですよね」

「つっても、二年は前だぞ。憶えてねえよ」

「なにかヒントは?」


 懇願されて、河合と佐藤は天井をあおぐ。


「あんときは、雑談まじりだったからなあ」と佐藤が言えば、「たしか仁科くんも課長になったばっかりで」と河合も続く。

「お祝いしようか、みたいな話をしつつ、えーと、あーそうそう」

「思い出したっすか!」


 なにかに気づいたようすの佐藤に勇んで前のめりになる大橋に対し、先輩はカラリと笑う。


「や、パスワードとか忘れるよなって話を以前にしててさ。したらアイツ、ずっと同じパスワードを使いまわしてるって言ってた」


 あの頭良さそうな仁科課長でもパスワードを忘れるなんてことがあるのか。

 大橋は驚いたが、今はそういう場合ではない。結局、なにも解決していなかった。


「そこから、なにか、話は発展しなかったんすか?」

「たしか高校の頃に決めたやつを、いまでもずっと使ってるらしいぞ」

「高校時代? めちゃくちゃ古くないっすか。仁科さんって三十越えてますよね」


 大橋は指を折って数え始める。高校一年生だとしたら、十五年以上は前か。


 高校生が設定する身近なパスワードといえば、携帯電話のロック解除だろうか。初めて個人の名義で所持が許されるのは、高校生が多いように思う。中学生で持っているひともいなくはないだろうが、大橋の家ではそういったことに厳しく、高校生になってやっと買ってもらえて嬉しかったものだ。


 仁科の世代ではたぶん、スマートフォンではなくガラケーのほう。あれにはたしか指紋認証というものがなかったはずなので、数字でパスワードを入力する機会は今より多かっただろう。それをずっと使い続けている。


「ということは、なにかとても思い入れがある番号ってことですよね」

「もしくは、身近な番号、かねえ」


 河合が、頭をガシガシかきながら呟く。


「シンプルなのは誕生日か?」

「課長の誕生日は――」


 大橋が訊ね、一同がうっと詰まったところで、紅一点による天の声が入った。


「七月七日」

「ありがとうございます!」

「七夕生まれかよ」


 大橋の失態に付き合いきれないとでも思ったか、あるいは自分がやるべき仕事が残っているのか。自分の席に戻っていた舟木からの助けに、大橋は歓喜の声をあげ、佐藤は意外な誕生日に驚く。


 0707と入力してエンターキーを押すと、無情にも同じ警告が現れるに終わってしまった。

 天国からの地獄。

 落差に肩を落とす大橋をよそに、河合と佐藤は呑気なものだ。


「この並びを見ると、007にしたくなるなあ」

「それじゃ三文字じゃないっすか」

「じゃあ、いっそ全部7にするとどうよ」


 佐藤はカタカタとキーボードへ『7777』を打ち込んだ。

 大橋が止める間もなくエンターキーが押され、やはりというかなんというか、もう見慣れてしまったメッセージがエラーを告げた。


 すでに四回間違えている。

 つまり、残りはあと一回。もはや猶予はなかった。ラストチャレンジとなれば、さすがに真剣に推理しはじめる。

 大橋は佐藤に訊ねた。


「たとえば、佐藤さんはどんな数字にしてるんですか?」

「オレ? 1019。子どもの誕生日」

「うわ、意外と親バカだった!」

「意外は余計だろ」


 面倒くさげで、いかに仕事を楽にするかばかり考えている不良社員の意外な一面に、大橋は驚く。ひとは見かけによらないらしい。


「でも仁科課長は結婚してないですよねえ。あ、じつは隠し子とかは……」

「姪っ子しかいないわよ」

「うわ、それも意外な姿だ」


 舟木からの天の声ふたたび。こちらが最後の一回に騒いでいるため、パスワード解析に参加してくれるらしく、いつの間にか傍に立っていた。


「すみません、舟木さんもお忙しいですよね」

「平気。私の場合、むしろ月が変わって、前月分の締めがあるほうが忙しいから気にしないでいい」

「お言葉に甘えます。それより、課長に姪っ子がいるとか驚きですね」


 エリート課長にスキャンダルな事実がなかったのは幸いだが、姪っ子というワードもまた意外性が高い。

 あの凝り固まった生真面目な男が姪を可愛がる姿なんて、大橋にはまるで想像がつかない。さすがに小さな子を泣かせてはいないだろうが。


「そう? 仁科くん、あれで末っ子よ。お姉さんとお兄さんがいる」

「末っ子!?」


 絶対的上位者、みたいな貫禄のある課長と末っ子という甘ったれた言葉が、これまた結びつかない。面白すぎて顔が笑えてくるが、気分が和んでいるときでもない。

 大橋は続いて、河合に声をかけた。


「俺は結婚記念日だな。誕生日と迷ったんだが」

「おお、さすがっす。愛妻家ですね。ちなみに俺は彼女の誕生日にしてます!」

「いやだって、パスワードにしとけば忘れないだろ?」

「え?」


 憶えやすいからパスワードにしているのではなく、『忘れないため』に、強制的に入力せざるを得ないパスワードとして設定しているだけなのだと快活に告げる男に、未婚の二十四歳は肩を落とした。


「それ、奥さんが可哀想なのでは」

「大丈夫、言ってないから。くちが裂けても言わないから」

「うまく騙すのも、結婚生活の秘訣だぞ」


 既婚者からのアドバイスから逃げるように、大橋は未婚仲間に顔を向ける。


「……舟木さんのパスワードは?」


 自分に飛んでくるとは思っていなかったか、わずかにくちごもったが、「2479」と呟いた。


「へえ。それなんの番号ですか? 偶数と奇数? どうせなら、2468のほうがわかりやすいのに」


 素朴な疑問をくちにした大橋。

 やり取りを聞いていた河合と佐藤は、若者の肩を叩く。


「おまえは阿呆だな」

「なんでですか」

「推測されやすい番号は駄目だろ」

「あ、なるほど。わざとずらしてるんですね。さすが舟木さん」


 朗らかに笑う大橋に舟木は曖昧に微笑み、そんな彼女を見て、残りのふたりもまた穏やかに笑む。

 舟木は表情を一変させ、彼らをジト目で睨んだ。


「……なんですか、なにか言いたいことでも?」

「いやあ、べつになんでもないって」

「うん、なんでもねーよ。あ、そうか。そういうのもアリか」


 そこでなにか合点がいったように呟いて、佐藤はおもむろに数字を入力した。


 3710 エンター


 何度となく絶望を叩きつけたウィンドウは現れず、システムの画面に切り替わった。

 入力した佐藤はヒューと下手くそな口笛を吹き、河合と大橋は両手をあげてハイタッチ。舟木も安堵した顔を浮かべている。


「やった! ログインできた! え、なんでわかったんですか佐藤さん、それなんの数字ですか」

「おまえは阿呆だなあ」

「なんでもいいから、さっさと申請通しとけよ」

「はい!」


 河合に急かされ、大橋は佐藤と入れ替わってパソコンの操作を開始する。

 ログインさえできれば、こっちのもの。承認はワンボタンで完了することは知っている。

 コンプライアンスとは、といったかんじだが、緊急事態の前では些末なことだ。言わなければバレない。


 いそいそと作業に没頭する大橋をよそに、佐藤と河合は舟木に囁く。


「彼女の名前をパスワードにするとか、意外と可愛いとこあるな、アイツ」

「仁科くんに愛されてるねえ、湊ちゃん」


 配属直後からお世話になっている男性ふたりの弁に、舟木湊はそっぽを向いて、研修で不在の恋人に内心で毒づいた。


 航平くんのバカ。

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