卒業:あと29人

@lemuria

第0話 プロローグ


たった今、確かにそこにあったはずの花瓶が消えた。



 黒板の脇。いつもと変わらぬ位置。色の褪せた造花が三本、無造作に挿してあった──はずだった。


 

 風もないのに、空気がふわりと揺らいだ。

 黒い点のようなものが視界を横切り、花瓶に触れる。


 その瞬間、輪郭がじわりと黒く染まり始めた。


 音はしない。砕ける音も、倒れる音も。

 

 ただ、そこにあったはずのものが、ゆっくりと、何かで塗りつぶされていく。


 やがて花瓶は形を失い、気づけばすべてが消えていた。

 黒板の前には、何もない。


 床には、黒いシミがひとつだけ。


 

 ……言葉が出なかった。

 見間違いかもしれないと頭では思う。でも、“あれ”の動きだけは、視界の奥にしつこく残っている。


 もう一度、黒板の方を見やった。

 けれど、そこにあったはずの花瓶の形も、色も、思い出せない。

 

 本当に花瓶だったのかも曖昧で、記憶が霧のようにほどけていく。


 さっきまで、たしかに「何か」があったはずなのに。

 でも、誰も気にしていない。

 

 先生も、クラスメイトも、最初から何もなかったかのように、視線すら向けていない。


 それなら──

 

 ここでは、それが″そういうもの″なのかもしれない。


 

 けれど俺は、俺だけは、あれを“見てしまった”


 

 ここは、おかしい。






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