第1話 さっきまで、そこにあった
日差しが、あたたかい。
窓の向こうには、どこか作り物めいた青空が広がっている。雲の形が均等すぎるし、風が吹いているのに、枝葉はぴくりとも動かない。
今日が何曜日だったか、俺は思い出せなかった。
それでも、いつも通りこの教室に来た。だから、きっと今日も「普通の一日」のはずだ。
チャイムは鳴らない。
けれど、時間になると教室の扉が開いて、生徒たちがひとり、またひとりと入ってくる。
誰も騒がない。挨拶も、雑談もない。ただ、自分の席に着いて、じっと前を見つめる。
俺の席は、一番後ろの窓際。春の陽射しが首筋を撫でてくる。暖かいはずなのに、背筋がぞわぞわする。
普通の一日のはずなのに、どこかが、おかしい。……そんな気がしていた。
一番前の席の生徒は、ずっと首を傾げていた。
後ろの席のやつは、登校してから一度も瞬きをしていない。
斜め前のやつの鞄からは、誰かの制服の袖が、もう一組──不自然に覗いていた。
喉が、妙に乾いていた。
こんなときは、いつもやってるように“あれ”をする。
俺は机の上に視線を落とし、指先を軽く動かす。
何もなかったそこに、水筒がひとつ、音もなく現れる。
俺が今、俺の意思でここに出現させた。
なぜこんなことができるのか。いつからできるようになったのか。それは、まったく思い出せない。
いつも通りの動きで蓋を外し、ひと口だけ飲む。
冷たさは感じない。ただ、水が喉を通る感触だけが残った。
飲み終えて、指を軽く振ると、水筒は、霧のようにその場でほどけて、消えた。
ふと、気まぐれで指を動かした。
教壇の上、空気をなぞるように。
何もなかったすぐにそこに湯気が立ちのぼる。
銀のトレイ。炊きたてのごはん。甘酢がかかった鶏肉のフライ。
にんじんとブロッコリーの温野菜。
白っぽいスープ。四角い牛乳パック。丸いゼリー。
──今日の給食だ。
置いてみただけ。意味はない。
でも、こうすると少しだけ、現実感が出る気がする。
湯気と一緒に、料理は静かに揺れて、やがて何もなかったかのように消えた。
誰も、それに触れない。
「変だ」と口にする者は、一人としていなかった。
突然現れた給食に、視線を向けた者すら──もしかすると、いなかったのかもしれない。
その不自然さを、前々からこうやって確かめていた。
俺は、クラスメイト一人ひとりに目を向ける。
いつも通りの三十の机と椅子。それぞれに、いつものように皆が座っている。
隣の席を見る。そこには──誰かが座っていた。はず、だった。
一箇所だけ、空いた席。
欠けている者がいることに間違いはない。けれど、誰がいないのかが、思い出せない。
そもそも、俺の知っている人間だったのだろうか。
記憶が霞んでいる。顔も、名前も、声も、何ひとつ浮かばない。
ただ──そこに“誰か”がいたことだけが、妙に確かだった。
不自然な沈黙が、じっとりと空気にまとわりついている。
窓の外から見えるグラウンドには、サッカーゴールがある。だけどボールはない。ラインもない。プレイヤーも、音も、何もない。
ただ「それらしくある」だけの空間だ。
教室の前方、黒板の脇の掲示板に「生徒心得」が貼られている。視線を向けると、その一文だけが目に飛び込んできた。
「今日は“今日”です。それだけで大丈夫」
そんな文言が、最初から書かれていただろうか。
今日は今日……どう言う意味だ?
教室の時計は、八時三十二分を指していた。
だが指していたのは一瞬だけ。長針も短針も、ぐるぐると逆回転している。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
だが、そんな時計の教室に満ちていたのは、静寂という停止だった。
時間も空気も、みんなの思考すらも、どこかで引っかかって動けなくなっている。
そんな、ねっとりとした感触。
誰かの咳払いひとつで、この空間の均衡が崩れそうな気がした。
だから誰も、何も言わない。
誰ひとり、咳もしない。
……いや。
そういえば、この教室で誰かが咳をしたのを、聞いたことがない。
くしゃみも、欠伸も、舌打ちも──そういう“生活音”がごっそり抜け落ちている。俺たちは確かに「生きている」はずなのに、それを裏付ける音が、何ひとつない。
前の席のやつが、また小さく首を傾けた。
傾げたまま戻らない。
まるで、そこまでが決められた演技のように、ぴたりと静止している。
……これは、本当に「日常」なのか?
──そのとき。
カラリ、と穏やかな音を立てて、教室の扉が開く。
入ってきたのは、白衣を着た女性の先生だった。
淡いピンクのカーディガンを羽織り、手にバインダーを持っている。
眼鏡越しの目元はやさしく、話す前から「安心してくださいね」と語りかけているような表情だった。
彼女は黒板の前に立つと、にこやかに言う。
「おはようございます、みなさん。今日も、気持ちのいい朝ですね」
誰も返事はしない。
けれど、それを当然のこととして、彼女はゆっくりと教室内を見回す。
「〇〇さん、うん……大丈夫そうですね。焦らなくていいんですよ」
「はい、そこにいてくれるだけで、じゅうぶんです」
隣の席は、空だった。
けれど、机の上にはノートが一冊置かれている。持ち主の名前は見えない。
表紙には何も書かれていない。ただそこに、当然のように存在している。
──やっぱり思い出せない。
“彼”だったような、“彼女”だったような。……その境界すら、ぼやけていた。
そんな問いだけが、頭の中でぼんやりと浮かんでは消えていく。
先生は静かに掲示板へと歩き、紙を一枚、貼りつける。
手書きの歪な文字が、黒く太く浮かび上がる。
──**「卒業:あと29人」**
女の人は貼り終えると、もう一度教室全体を見渡した。
「それでは、みなさん……今日もがんばりましょうね」
言い残して、扉の向こうへと去っていく。
ドアが閉まる音は、カラリと乾いていた。
その瞬間、教室の空気がわずかに緩んだ気がした。
けれど、生徒たちは誰も動かない。
ただ前を見つめ、呼吸すらしていないように静かだった。
まるで「先生」がいなくなっても、それで何も変わらないと言わんばかりに。
俺はもう一度、隣の席を見た。
ノートはそこにある。けれど、何度見ても、名前がない。
中を開こうと指を伸ばした。ページをめくる音が、この空間には“異物”すぎる気がした。
かさり…と広げると、そこには文字があった。
「■■■■さんの卒業が確認されました」
■■■■の部分だけ、何度も塗りつぶされていた。
名前の欄は、荒く塗り潰されている。
油性ペンで何重にも、力任せに。
そこに誰の名があったのか、もうわからない。
だが俺は、知っている気がした。
喉の奥が、きゅっと締まる。
そのとき、斜め前のやつが、こちらを見た。
いや──見た、ような気がした。
目が合った。
ような気がした。
でもその瞳は、俺ではない“どこか”を通り抜けていた。
「……なあ」
声をかけた。けれど反応はなかった。
代わりに、その生徒はふらりと立ち上がり、ゆっくりと扉の方へ歩き出した。
何の合図もなかった。
先生もいない。チャイムも鳴っていない。
なのに、それが“決められた動き”であるかのように、誰も止めなかった。
彼は扉の前で一度立ち止まり、ドアノブに手をかけ──
振り返ることもなく、教室の外へと消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます