第19話 船旅2
語り マリー・アスラマハーバリ・イシュタル (ノエル・ダルク)
「汚ったなぁ」
これは船長室に入ったねえちゃんの最初の言葉です。
船長室は埃だらけ。隅には食べ残しが食器ごと積み上げられ、寝棚の上には悪臭漂う夜具が丸めてあります。置いてある机の上はインク染みがたくさんあって、広げたままの帳簿とインク壺、羽ペンが載っています。壁を見ると聖アンドレの聖画、イングランドとフランスの地図が張ってあります。
「ここで休むのかな」
ぼくは埃の積もった棚に指をあてて言いました。
「おお、やんごとなき若さまはとても大切な金づる、いえいえ、お客さまだから、船の一等室でお休みになるのでは」
ねえちゃんは他人ごとのように言います。
「えーっ」とぼくが言うと、
「やなら掃除だよ!」
ねえちゃんは叫ぶとスカートの裾をまくしあげ、はたきで埃を上から下へと払いました。
「外にロープの付いた桶があったよ、水を汲んできな」
ぼくは言われたとおり水を汲み、食器をかたづけ、棚や床を拭き、丸めた夜具を外の風に当てました。
「積荷終了!」
元気な船員さんの声が聞こえます。日は暮れかけていて、船長室の扉が開くと、船長さんと20半ばと思われるお兄さんが入ってきました。
「すげぇ、公のご乗船以来だな。それとも船を間違えたか」
お兄さんは金髪の男前、笑顔がさわやか。
「余計なことは言わんでもいいわい」
船長さんも綺麗になった室内を眺めてから、
「ノエルとネリーだ。ルーアンまで乗せていく。大事な客人として扱え」
船長さんはお兄さんにそう言うと、ぼくたちに、
「こいつは婿のレオン。お前たちの世話は俺とレオンでする。下船まではここがお前たちの部屋で、寝棚にネリー、ノエルと俺は床で寝る」
そう言うとふたりは部屋から出ていきました。
ネリーねえちゃんもぼくも船は初めて。碇の引き抜きや帆上げなど、作業を窓から見物します。そして聖アンデレ号は黄昏の静かな流れと風に乗ってゆっくり進みはじめました。
しばらくするとレオンさんが甲板へと案内してくれます。外はすっかり暗くなり、城壁に囲まれたパリは小さな四角い影となって教えてもらわなければそれとは判りません。
「船は初めてのようだな」
暗がりの白い歯、レオンさんかっこいい。
「はい」
ねえちゃんは先程までと違ってとってもお淑やか。
そこに痩せた優しそうな老船員さんが皆にパンとスープを配ります。
受け取ったレオンさんは自慢そうにいいました。
「ここのパンはいい粉使っているからうまいぞ」
「いいのは粉だけではないだろ」
この老船員さんはジャックさんといいます。
「爺さんは船仕事なら何でも出来る凄腕の料理番さ」
「おだててもお前にはお代わりはないぞ。でも若さまとお嬢さんはお客さんだ。お代わりが欲しければ言っておくれ」
三人ですっかり暗くなった河面を眺め、温かいスープと平焼きのパンを食べました。
「ルーアンまで何日で行けるの」
ぼくは一番気になることを一番に聞きます。
レオンさんはパンをスープで飲み込むと、
「河の流れと風まかせ。運がよければ3、4日かな」
「あの旗は」
ぼくも油の浮いた温かいスープを一口飲むと、マスト先端、他の船にはない白地に赤のX旗を見上げて聞きました。
「あれは聖アンデレ旗。この船が公の御用船である印で、オヤジさんの功績が認められ授与されたものさ」
レオンさんはまたスープを飲みます。
「そして航行の優先権がこの船にあることを示しているのさ」
「なんで夜出るの。危険じゃないの」
ぼくはパンを呑みこむと聞きました。
レオンさんはパンを頬張りながら応えました。
「河は大きく蛇行している。日中だと賊が襲ってくる」
ぼくとおねえちゃんは遠くを眺めるレオンさんの顔を見上げました。
「大丈夫。岸に乗り上げたりはしないよ。俺たちは河の隅々まで知り尽している」
レオンさんは背中を欄干にあずけ、話を続けます。
「以前は公とイングランドが優勢だったが、魔女が現れてからは雲行きがおかしくなった。この辺もブールジュの王(シャルル7世の蔑称)の息がかかった賊が船を襲うようになったんだ」
ここでレオンさんは困った顔を笑顔に変えました。
「だが魔女を殺せば呪いは解ける。公やイングランドが盛り返し、フランスは平和になる。おれたちゃこそこそせずに商売できる」
レオンさんは夜空を見上げ十字を切りました。
お姉ちゃんは神命により戦ってきました。死者への祈りは涙して、敵味方のないものでした。でもパリの人たちはお姉ちゃんが処刑され、ブルゴーニュ公とイングランドが勝つことを願っています。同じフランスに住み、同じく平和を望んでいるのですが、思いはまったく違います。
ねえちゃんがぼくの顔を見てから袖を引きました。
「ノエル、寒い。部屋に戻りましょう。レオンさん、お仕事がんばってね」
部屋にもどると、ネリー姉ちゃんは、
「ここは敵地なんよ。船長さんもレオンさんもいい人だけど敵なんだよ。用心しなきゃ」
ぼくも判っています。でもぼくはジャネットお姉ちゃんが哀れで泣きました。
「馬鹿ね。いまから泣いててどうすんの。ルーアンに着いたらジャンヌを救うんでしょ。なんか手立てがあんの」
ネリーねえちゃんはため息をつきました。
「うん。ある・・」
ぼくの答えにねえちゃんは驚きます。
ぼくは目じりを拭うと、腰の革袋に手を添えました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます