第一章 新人
〇六四五。
灰色の廊下を歩く足音が、規則正しく響いていた。
カイは立ち止まり、目の前のドアを見つめた。金属製の扉には「第七小隊隊長室」という文字が刻まれている。
妙な緊張感があった。初対面のはずなのに。
カイは首を振り、ノックをした。
「入れ」
中から声がした。ドアを開けると、デスクに向かって端末に何かを入力していた男が顔を上げた。がっしりとした体格で、短い黒髪。鋭いが温かみのある目をしている。
「新人のカイです。本日付けで配属されました」
男は立ち上がり、手を差し出した。
「チームリーダーのレンだ。待っていたよ」
握手を交わす。その手は厚く、力強かった。
「簡単に説明しよう。我々第七小隊は、主に居住区画のパトロールと治安維持を担当している。大きな事件は滅多にないが、油断は禁物だ」
レンは壁の地図を指さした。地下都市アルファの断面図が表示されている。
「担当は地下四階から八階。市民の生活区域だな。食料配給所での小競り合いとか、規則違反者の取り締まりとか、そういった日常的な業務が中心だ」
「了解しました」
「堅くなるな。チームは家族みたいなものだ」
レンは微笑んだ。
「他のメンバーに会わせよう。みんな待っているはずだ」
二人は隊長室を出て、廊下を歩き始めた。壁には等間隔で監視カメラが設置されている。赤い光が明滅し、常に市民を見守っていることを示していた。
「コンピュータの目だ」
カイの視線に気づいて、レンが説明した。
「アルファ全域を監視している。市民の安全を守るためにな」
「理解しています」
カイは答えた。大崩壊後の世界で人類が生き延びるためには、秩序が必要だ。
ブリーフィングルームの前で、レンは立ち止まった。
「第七小隊は俺を含めて五人。全員トラブルシューターだが、それぞれ得意分野がある」
ドアを開けると、三人の視線が一斉に向けられた。天井の蛍光灯が明るく照らしている。ガラス管の内側に、小さな虫の死骸が張り付いているのが見えた。
「みんな、新人のカイだ」
レンが紹介すると、それぞれが反応を見せた。
長い黒髪を後ろで束ねた女性が、小さく会釈した。知的な印象で、手にはタブレット端末を持っている。
「ミオです。データ分析と電子戦を担当しています。よろしく」
声は事務的だが、悪意は感じられない。むしろ職務に忠実な印象を受けた。
赤毛の青年が、にやりと笑った。筋肉質な体つきで、エネルギーに満ちている。
「ショウだ。重火器なら俺に任せな。ま、あんまり使う機会はないけどな」
ショウは軽く肩を叩いてきた。その力加減に、カイは苦笑する。
部屋の隅に立っていた小柄な女性が、ゆっくりと顔を上げた。
銀髪のショートボブ。青みがかった瞳。
その瞬間、彼女の呼吸が一瞬止まった。瞳孔がわずかに開き、唇が震える。だがすぐに無表情な仮面が降りてきた。
「……ユキ」
素っ気ない自己紹介だった。他のメンバーと違い、彼女だけは歓迎の色を見せない。
カイは軽く頭を下げた。何か気に障ることでもしただろうか。いや、初対面なのだから、そんなはずはない。
「さて、正式に登録を済ませよう」
レンが部屋の隅にある端末を指さした。
「手をかざすだけでいい。システムが認識する」
カイは端末に近づき、手のひらをセンサーにかざした。青い光が手を走査する。
静かな電子音の後、天井のスピーカーから無機質な声が響いた。
『KAI-99、登録完了』
「よし、これで正式にチームの一員だ」
レンが手を叩いた。
「堅苦しい手続きはこれくらいにして、歓迎会といこう。食堂で簡単にだけどな」
「いつもの新人配属って感じだな」
ショウが軽い調子で言った。その言葉に、ミオが一瞬手を止めたが、すぐに作業に戻った。
「まあ、よろしく頼むぜ、新人」
ショウの言葉に何の含みもなかった。純粋な歓迎の意を示している。
ただ、ユキだけが指先で机の端を小さく叩いていた。規則的なリズム。まるで何かを数えているような。
「カイも腹が減っているだろう? 訓練施設の食事より、ここの方がマシだぞ」
レンが言った。カイは頷いた。確かに、朝から何も食べていない。
五人は連れ立って食堂へ向かった。ユキだけが少し離れて歩いている。時折、カイの方を盗み見ては、慌てて視線を逸らしていた。
食堂は想像していたより広かった。長いテーブルが整然と並び、市民たちが静かに食事をしている。換気口から低い機械音が、アルファの呼吸のように響いていた。
配膳カウンターで、各自がトレイを受け取る。今日のメニューは合成肉のステーキと野菜の煮込み、それに穀物のペーストだった。見た目は質素だが、においは悪くない。
第七小隊専用のテーブルに向かった。カイが席に着こうとすると、ユキは少し離れた椅子を選んだ。ちょうどカイの斜め向かい。視線を合わせずに済む、しかし観察はできる位置だった。
「訓練施設はどうだった?」
ミオが尋ねた。データを集めるような、事務的な口調だった。
「……覚えていません」
カイは正直に答えた。訓練を受けたという事実は知っている。体が覚えている技術もある。だが、具体的な記憶は霧の中だった。
「普通だよ」
ショウが笑った。
「俺も詳しくは覚えてない。基礎訓練を受けて、適性検査をパスして、それでここに来た。それだけさ」
レンも頷いた。
「大事なのは今からだ。任務は任務だ」
その言葉に、カイは妙な懐かしさを覚えた。どこかで聞いたような響きがある。
「第七小隊は良いチームだ。前任者も……」
レンの言葉が途切れた。一瞬、テーブルに沈黙が落ちる。換気口から響く低い機械音だけが、その場を支配した。
「前任者?」
カイが聞き返すと、ショウが肩をすくめた。
「お前の前にいたトラブルシューターさ。事故で死んだ」
「事故」
カイは繰り返した。
「任務中にな」
レンが説明を引き取った。
「産業層での定期メンテナンス中の事故。機械の誤作動で……まあ、そういうこともある」
淡々とした口調だった。悲しみや怒りは感じられない。まるで備品の破損を報告するような、事務的な響きがあった。
ただ、ユキだけが違った。彼女はフォークを握る手に力を込め、金属が軋む音がかすかに聞こえた。
「いつ頃のことですか」
カイが聞いた。
ミオが端末を見つめた。データを探すような仕草だが、画面には何も表示されていない。
「……記録によると、最近のことよ」
曖昧な答えだった。
「確か……」
レンが思い出そうとして、眉間に皺を寄せた。
「おかしいな。つい最近のはずなんだが」
ショウも首を傾げた。
「先週? いや、もっと前か? どうも思い出せない」
不思議そうに頭を掻く。
「まあ、日付は重要じゃない」
ミオが結論づけた。
「処理も完了している。補充要員の申請から配属まで、すべて規定通りだった」
皆、それ以上追及しようとはしなかった。まるで最初から誰もいなかったかのように。
カイは違和感を覚えた。チームの誰も、仲間がいつ死んだのか正確に覚えていない。それを不思議とも思っていない。
「気にすることはない」
レンが言った。
「任務は任務だ。コンピュータが最適な判断をしている」
カイは頷いた。そうだ、すべてはコンピュータの計算のもとにある。それが人類の生存を保証している。
だが、胸の奥で小さな疑問が芽生えていた。
「ところで」
ショウが話題を変えた。
「新人の得意分野は何だ? 近接戦闘? 狙撃?」
「分かりません」
カイは答えた。
「ただ、体は覚えているような気がします」
「実戦で分かるさ」
ショウは豪快に笑った。
「明日から本格的な任務だ。楽しみにしてな」
会話が続く中、カイはユキを観察していた。彼女はほとんど口を開かず、必要最小限しか食べていない。時折、視線が合いそうになると、まるで火傷でもしたかのように目を逸らす。
不意に、ユキが立ち上がった。
「失礼します」
短く告げて、トレイを片付けに向かう。その足取りは、逃げるように速かった。
「気にするな」
レンが言った。
「ユキはいつもああだ。人付き合いが苦手なんだ」
だが、カイには分かっていた。彼女の態度は、単なる人見知りではない。あの一瞬の反応。まるで亡霊でも見たかのような。
歓迎会は、それから三十分ほど続いた。ショウが冗談を飛ばし、ミオが規則の説明をし、レンが明日の予定を確認する。どこにでもありそうな、平凡な光景だった。
だが、カイの胸の奥で、小さな違和感が育ち始めていた。
食事を終えると、レンがカイを個室へ案内した。
「ここが君の部屋だ」
地下六階の居住区画。廊下には同じようなドアが延々と続いている。どれも同じ規格、同じ色、同じ配置。まるで大量生産品のように。
「カードキーだ」
レンが小さなカードを渡した。
「なくすなよ。再発行は面倒だからな」
カイはカードを受け取り、リーダーにかざした。電子音と共にロックが解除される。
「じゃあ、明日は〇七〇〇にブリーフィングルームで」
「了解しました」
レンが去った後、カイは部屋に入った。
狭い空間だった。ベッド、机、椅子、小さなクローゼット。壁には換気口と照明。窓はない。当然だ。ここは地下なのだから。
だが、妙なことに、前にもこの部屋にいたような気がした。
勘違いだろう。アルファの部屋はどれも同じ規格で作られている。机の配置も、ベッドの位置も、すべて統一されているはずだ。
カイは机に向かって座った。なぜか、この椅子の高さがちょうど良い。調整した覚えはないのに。
引き出しを開ける。中は空だった。当然だ。今日来たばかりなのだから。
だが、指が勝手に動いた。引き出しの奥を探る。妙な癖だ。何を探しているのか自分でも分からない。
何もない。
カイは首を振った。疲れているのだろう。新しい環境に慣れるのは大変だ。そう自分に言い聞かせる。
ベッドに横になると、妙にしっくりくる。マットレスの硬さ、枕の位置。まるで体が形を覚えているような。訓練施設のベッドも同じ規格だったのだろう。
天井を見上げた。無機質な白い平面。その隅に、小さな染みがあった。水漏れの跡のような、茶色い染み。
その染みの形を、なぜか懐かしく感じた。鳥が羽を広げたような、あるいは枯れ葉のような形。見覚えがあるような気がするが、それも錯覚だろう。
カイは目を閉じた。明日から本格的な任務が始まる。今は休むべきだ。
だが、眠りは簡単には訪れなかった。
静寂の中で、換気口から低い機械音が聞こえてくる。アルファの呼吸音。この都市全体が、巨大な生き物のように脈打っている。
その音を聞きながら、カイは考えた。
前任者は、この部屋で眠ったのだろうか。同じベッドで、同じ天井を見上げたのだろうか。そして、最近死んだ。いつだったか、チームの誰も正確には覚えていないが。
前任者の名前は何だったのか。誰も口にしなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように。
次は自分かもしれない。
その考えは、なぜか恐怖を呼び起こさなかった。むしろ、奇妙な安らぎがあった。任務は任務だ。そういうものなのだろう。
カイは寝返りを打った。壁には、かすれた跡があった。何かを削り取ったような。文字だったのかもしれない。
指でなぞってみる。意味は分からない。ただ、妙に手が慣れた動きをした。偶然だろうか。
不意に、廊下から足音が聞こえた。規則正しい、軍靴の音。パトロールだろう。音は近づき、ドアの前で一瞬止まり、また遠ざかっていく。
きっと毎日同じ時刻に、同じルートを巡回しているのだろう。そういうものだ。
カイは再び目を閉じた。
明日のことを考えよう。チームのこと。任務のこと。そして、あの銀髪の女性のこと。
ユキ。
なぜ彼女は、自分を見てあんな顔をしたのか。初対面の相手に向ける表情ではなかった。
考えても答えは出ない。
換気口の音が、子守歌のように響いている。単調で、機械的で、永遠に変わらない音。
いつの間にか、カイは眠りに落ちていた。
夢の中で、誰かが自分の名を呼んでいた。
だが目覚めた時には、その声も、夢の内容も、すべて忘れていた。
二三〇〇。
地下都市アルファは眠らない。人工の光が夜を作り、朝を告げる。すべては計算され、管理されている。
第七小隊の新人の最初の一日が終わった。
明日も、きっと同じような一日が始まるのだろう。
天井の染みが、無言の証人のように、そこにあった。
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