第34話 花見と初鰹
季節が春に変わり、茂吉さんに呼び出されたのは、朝っぱらからだった。
「今日は隅田川だ。花が見ごろでな、こっちもそろそろ冬の顔を引っ込めねえといけねえ」
そう言われて、俺と貴司は半ば強制的に引きずり出された。
浅草寺の裏手から川までは、のんびり歩いて十五分もあれば着く。
道すがら、両側の店先に並ぶのは団子や焼き魚、漬物の桶。
どれも春らしい彩りで、冬の間の灰色っぽい町並みとはずいぶん違う。
あちこちの軒先に白や桃色の布が干されていて、風が吹くたびふわりと揺れた。
貴司が、前を歩きながら振り返る。
「なんか、桜イベントのマップ切り替わった直後って感じですよね」
「……何の話だよ」
「いや、冬のテクスチャから春用のに全部置き換わってる感ありますよね。空気感も変わってるし」
どうもこいつの頭の中は江戸もゲームも区別がないらしい。
川辺に近づくと、桜の並木が見えてきた。
枝いっぱいに咲いた花が、空の青に映えている。
川風が強くなってきて、花びらがときどき舞った。
土手にはござを敷く人、茶を淹れる人、三味線を弾くやつまでいる。
江戸の花見ってのは、もっと酒と騒ぎが中心かと思っていたが、
朝の時間帯は意外と落ち着いていて、子供や年寄りが多かった。
「おい博志さん、あれ……屋台?」
貴司が指差す先には、木箱を台にして湯気を立てている男。
近づくと、湯の中には菜の花と薄切りの大根。出汁の匂いが鼻をくすぐる。
「おでんの親戚みてえなもんだな」
「これさ、冬の鍋イベントから春祭りイベントにシームレス移行ですよね?」
……やっぱりゲーム脳だ。
茂吉さんが小さな盃を俺たちに差し出す。
「まあ飲め。番茶だ、冷えるからな」
湯気越しに見上げる桜は、どこかぼやけて見えて、
冬を越した実感がじわじわと腹の底にしみてくる。
この時代に来てから、季節を肌で感じることが多くなった。
電気もガスもねえ生活は不便なはずなのに、
こういう瞬間だけは、こっちの方が贅沢なんじゃないかと思えてくる。
桜の花の下で、俺はふと周りを見渡した。
人の波は途切れることなく続き、江戸の町が一斉に春の息吹に包まれているのを感じる。
赤ん坊を抱えた母親、手を繋いで笑う子供たち、酒を酌み交わす男たち。
みんな、この季節を待っていたんだろうな。
「おい貴司、見ろよあの侍、花より酒って顔してやがるぜ」
俺がふざけて言うと、貴司はスマホもゲーム機もないのに、スマホの画面をタップする動作を真似て笑う。
「絶対HP回復アイテム狙ってるよあの兄ちゃん。狩りの合間の一服って感じで」
俺はゲラッと笑った。こいつのゲーム脳は本当に抜けねえ。
すると茂吉さんが、少し顔をしかめて言った。
「しかしな、この隅田川の桜もな、毎年咲くたびに江戸の人たちを励ましてきたんじゃ。江戸も災害が多い町だからな、こういう自然の恵みは何よりの宝じゃ」
なるほど。自然の営みが人の心を支えているのか。
そう思うと、またこの江戸で生きていく覚悟が湧いてきた。
隅田川のほとり、桜が舞う中、露店から威勢のいい呼び声が聞こえた。
「おいどんとこの初鰹、江戸で一番の味じゃ!脂のりのり、今が旬じゃぞ!」
博志は、ひときわ目立つその声につられて、露店に近づいた。
「おう、これが初鰹か…春先に江戸に届くってのは珍しいな。こりゃちょっと食ってみてぇもんだ。」
茂吉が隣でにやりと笑い、
「そうじゃ、江戸の春は初鰹にゃ目がねえ。昔から皆で舌鼓打って、春の訪れを祝うもんじゃよ。」
貴司は「おお、季節限定レアアイテムっすね!こりゃ『イベント食材』ってとこすか。食わずにいられないっすわ。」
博志が言う。
「まったく、俺ら現代もんには、こういう季節感がねえからな。やっぱ江戸の春はいいぜ。」
茂吉は鼻をくんくんさせ、
「鰹の香りが春の風に乗って漂ってくる。これだけで気分が晴れやかになるわい。」
その時、魚屋の親父が「今日は花見に合わせて初鰹を安うしとるんじゃ。よければ味見してみや。」と勧めてくれた。
俺らは並んで串刺しの焼き魚を受け取り、口に入れる。旨味がじゅわっと広がり、思わず顔がほころんだ。
「うめぇ!こりゃまさに体力回復アイテムだな!」貴司が笑いながら言う。
「うむ、酒の肴にもピッタリじゃ。」茂吉さんも満足そうだ。
「江戸の花見はただの花見じゃねぇ。腹から幸せを感じられる祭りだな。」俺も目の前の魚を噛み締めながら実感した。
夕暮れの隅田川沿い、魚屋の露店が軒を連ねる市場は活気に満ちていた。店先には色とりどりの魚が美しく並び、通りすがりの客の目を奪う。
「こちとら今日は上物だぜ!鯛に鮎、穴子にハゼ、ボラもたっぷり揃ってる。どれも新鮮で旨えぞ!」と、威勢のいい魚屋の親父が大声で呼び込みをかける。
赤く艶やかな鯛が氷の上に美しく輝き、鮎は細長く銀色の体をキラキラと光らせる。穴子は柔らかそうな身を見せ、ハゼやボラはその日の水揚げを誇らしげに並べられていた。
「おっと、珍味も忘れちゃいかん。こっちにはふぐとどじょう、どちらも江戸っ子にゃたまらねえ味だぜ。ふぐは毒抜き済み、安心して食べられるからな!」と、別の店主が声を張り上げる。
小さな丸い箱に丁寧に詰められたどじょうは、蒲焼きにすれば格別の旨さだと評判だ。
近くで見ていた博志は、思わず「現代でも負けないぐらいのラインナップだな。特に鯛と鮎の美しさはたまらん」と感心しつつ、貴司は「うわ、ふぐってマジで危険なイメージあるけど、ここまで安全に処理してるってさすが江戸の職人技だな」と驚きを隠せない。
周囲では江戸の人々が舌鼓を打ち、次々と好みの魚を選んで買い求めていく。陽が沈むころには、露店の灯りがゆらゆらと揺らめき、魚の匂いと活気が市場を包み込んでいた。
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