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@Tokio04

第1話

序章


長い間降り注いだ灰の雨が、ゆっくりと確実にジャック・ブラッドスミスのボディを鼠色に濡らしていく。


機械鎧に使うジャンク品集めを生業とする彼にとって、この灰のように降り注ぐ雨は致命的な痛手だった。


第三次世界大戦で使用された核兵器の置き土産は、地球を壮絶な環境破壊へと導き、数十年経った今もなお、この灰雨は止むことを知らない。


緑豊かだった地球の大地は汚染され、作物は育たず、人々は飢え、――そして「永遠の命」が与えられた。


肉体を捨て、アンドロイドという入れ物に魂を封じることによって。


ジャックはボディについた灰を拭いながらレインコートを羽織り、廃品場を後にして一目散にゲート前へと駆け出した。


青白く光る蛍光看板には「給料引渡し場所」と書かれている。


その小さなスペースには、気怠そうな表情を浮かべた管理者のカエル野郎が駐在していた。


ジャックは緑色に光るプリペイドカードのようなものを差し出し、短く言った。


「支払いを」


カエル野郎は横目でジャックを一瞥し、ICスキャナーをかざして規定の金額を入力する。


チャリンと乾いた機械音が鳴る。


カードのディスプレイに「10ドル支払い済み」と表示が浮かんだ。


「……たったのこれだけ?」


ジャックは驚いて抗議した。


「12時間働いて、たった10ドル? 先週は20ドルはもらえたはずだ!」


カエル野郎はジャックを下から上まで舐めるように見て、唾を吐いた。


「文句があるなら他を当たれ。職にあぶれてる奴はいくらでもいる。お前の代わりなんて腐るほどな。地下を這いずり回るネズミ野郎が、いい気になって口出しすんな」


ジャックはなおも言い返そうとしたが、後ろには支払い待ちのアンドロイドたちが列を成していた。


彼は不満を胸に押し殺し、その場を離れる。


降り頻る灰雨の中、傘もささずに街を駆け抜ける。


ボディは長年の雨で軋み、痛みを訴える。


帰ったらユーリに見てもらわなければならない――そう思うと、灰色だった心がふっと温かくなった。


そうだ。俺には家族がいる。


どんなにどん底だろうと、守るべきものがある。


駅のホームを降りたとき、いつもは目に留めない花屋が目に入った。


花屋といっても、並ぶのはほとんどが模造品だ。


それでも、ユーリに贈ればきっと喜ぶに違いない。


足を止め、向日葵の花をひとつ買った。三ドル。


プレゼント用にラッピングを頼む。


そのまま駅のホームから人目を盗んで飛び降り、近くの非常口へと走る。


扉を開けると、地下へ続く階段が闇に飲み込まれていた。


長い階段を降りきると、ネズミ街の入り口が現れる。


ジャックの家は、その地下深く、三番出口のすぐ近くにあった。


家の扉を開けると、そこにはユーリがいた。


傷んだ機械鎧にオイルを差し、丁寧に汚れを拭き取りながら修理をしている。


どうやら客がいたらしい。


「おかえり、ジャック」


彼女は微笑んだ。その笑顔は、かつて人間だった頃と変わらない――ただ、どこか作られたように滑らかだった。


ジャックは照れくさそうに彼女の隣に寄ると、今し方買ってきた向日葵の花を差し出した。


「これは?」


「ただの模造品さ。目に入ったから買ったんだ。お前にやる」


「ありがとう。でも……これ、いくらしたの? 高かったんじゃない? 私たちの生活では、生きるのに精一杯なのよ。私のことはいいから、次からはもっと考えてお金を使って。


ただでさえ――」


また始まった。


ジャックは彼女の小言を聞きながら、乱暴にレインコートを脱ぎ捨てた。


「もっと考えて金を使え? 一体何に使うって言うんだ?」


声が荒くなる。


「俺たちの体は革命期以降、オートボディに入れ替えられた。食べることも、眠ることも必要としない!


安月給で働いて、その代わりに与えられたのが“永遠の命”だと?


生きるのに精一杯? 笑わせる!」


怒りで視界がチカチカと瞬く。


これもオートボディに組み込まれたプログラムなのか、それともただの不具合なのか。


ユーリの方を見る。


悲しげな表情を浮かべているが、涙は流れない。


泣くことさえ、できないのだ。


――俺たちはもう、人間じゃない。


「それでも……永遠にあなたの側にいられる。どんな形でも」


ユーリの声は穏やかで、けれどどこか遠く響いた。


ジャックの胸が締めつけられる。


彼女もまた、“アマデウス”に心を奪われた人々の一人なのだ。


「それでも俺は、人間として死にたい。


こんな機械に魂を閉じ込められたまま、生き続けるのはごめんだ」


ジャックは家を飛び出した。


ネズミ街の細い通路をひたすら歩き、広場を抜け、路地裏の梯子を登る。


マンホールを押し上げて地上に出ると、灰雨はとっくに上がっていた。


空は雲に覆われ、鈍い銀色に沈んでいる。


ここから先は、誰も知らない秘密の道だ。


高くそびえるビル街を抜け、高架線沿いを進むと、小高い丘が現れる。


そこがジャックのお気に入りの場所だった。


ユーリと喧嘩をした夜は、いつもここに来て心を落ち着ける。


星は見えない。当たり前だ。


それでも、曇天の向こうにある星々を思い浮かべる。


――幼い頃、まだ人間の体を持っていた頃、父から聞いた話を思い出す。


人間の魂は死ぬと星に還り、また別の星で新たな肉体を得る。


そうして魂は循環し、宇宙は呼吸を続けるのだ。


もし、自分に“死”が訪れたら――恐怖するだろうか? それとも……。


思考の海に沈んでいたとき、不意に草むらの方から小さな気配がした。


ジャックは反射的に身構え、すぐに立ち上がる。


「誰だ?!」


「……」


返事はない。


野良猫だろうか? それならいい。猫は富裕層の連中に高く売れる。


草をかき分け、音のする方へと近づく。


そして、目にした。


揺り籠の中で眠る――**人間の赤子**を。


迷いはあった。


なんせ、野良猫を拾うのとは訳が違う。人間の――それも赤ん坊を拾ったことを知られたら、どうなるだろうか。


しかし、その赤子に触れた瞬間、すべての思考は止まった。


目を開いた彼は、澄んだ空色の瞳をゆっくりと細めて、ジャックに笑いかけた。


人間の瞳を見るのは久しぶりだった。だが、こんなにも複雑で、深い色をしていただろうか。


それは天文学的なまでに美しい――まるで宇宙そのものを閉じ込めたような瞳だった。


気がつけば、赤子を胸に抱いていた。


辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、そのままレインコートの中に隠してネズミ街へと向かう。


途中、訝しげな視線を感じたが、まさか人間の子を抱いているとは誰も気づかない。


灰雨に濡れた街を抜け、裏口から家に戻ると、ガレージへ駆け込んだ。


「ふうっ……」


レインコートを脱ぎ、赤子をテーブルの上にそっと乗せる。


「お前は一体、どこから来たんだ? 名前は?」


答えが返ってくるはずもない。だが、問わずにはいられなかった。


青空のような瞳はただジャックを見つめ、微笑んでいる。


「……お腹、空いてるか?」


当たり前だ。赤ん坊だ。


「ミルク……そうだ、ミルクがいる」


棚を探ると、猫用のミルクが見つかった。


それを開けて口に含ませようとするが、うまく飲めるはずもない。


ゲフッと吐き出したかと思うと、すぐに泣き出した。


「おっと、待て待て! 悪かった! 泣かないでくれ!」


ジャックは慌ててガラクタの中を掻き回す。


「そうだ、ビンだ。ビンがいるんだよな?」


がさごそと探していると、家の奥から怒鳴り声がした。


「ジャック? 何してるの? なんの音?」


しまった。ユーリだ。


「だ、大丈夫! 猫を拾ったんだ! 高く売れるぞ!」


慌てて叫びながら、ようやく見つけたのは細長いシリンダー。


それにミルクを入れ、スポイトで少しずつ流し込む。


「よーし、今からパパがミルクをあげるからな」


ゆっくりと数滴ずつ。赤ん坊は口の端からミルクを零しながらも、美味しそうに飲んでいた。


その小さな喉が動くたび、ジャックの胸の奥が熱くなる。


勝利だ。


そう思った瞬間、ふと現実が押し寄せた。


――この子をどうする?


ユーリに知られたら厄介だ。


人間の赤ん坊は、今や富裕層だけの特権。


オートボディを持つ我々アンドロイドがそれを匿ったと知れたら……ネズミ街中の連中が群がってくる。


そうなれば、この子は……


ジャックは、胸の中で眠る小さな生命を見つめた。


機械仕掛けの心臓が、久しく感じていなかった“鼓動”を打った。


そうなれば、この子は地下街の極悪人どもに攫われ、人身売買の末、奴隷として売られるだろう。


考えたくもなかった。だが、それが現実だ。


ジャックは赤ん坊の小さな手をそっと握りしめた。


柔らかい。温かい。


何年ぶりに感じただろうか、人間の体温を。


「……俺が守るよ」


その言葉が口からこぼれた瞬間、もう迷いはなかった。


ジャックは廃品だらけのガレージを整理し、古いクッションや金属板で簡易的なベビーベッドを作った。


ボロボロではあるが、赤子を寝かせるには十分だ。


そして決めた。


昼間は働き、夜はこの子を見守る。


自分は眠る必要がない。オートボディであることを、初めて「利点」だと思った。


だが問題は山ほどある。


オムツ。ミルク。食べ物。


それらは金がなければ手に入らない。


――そして、最も大きな問題。


この子の存在を誰が守るのか。


ユーリの顔が脳裏に浮かぶ。


打ち明けるべきだろうか。


いや、まだダメだ。


彼女はアマデウスに心を支配されている。


この機械の身体を「神から授かった贈り物」だと信じて疑わない。


だが、少し前、彼女は「子供が欲しい」と言っていた。


もちろんそれは、“AIを搭載したオートチャイルド”――魂のない、命令に従うだけの機械の子供のことだ。


もし、それが「人間の赤ん坊」だったら?


彼女は喜ぶだろうか。


それとも恐れるだろうか。


ジャックには分からなかった。


ただ、このまま一人で抱えるのは危険すぎる。


頼れるのは、あと一人だけだ。


ジャックはポケットから古びたスマートカードを取り出し、通信アドレスを開いた。


一番上に表示された名をタップする。


「……もしもし、父さん? 今、ちょっとやばいことになってて。


詳しい話はあとで。とにかく、すぐに来てくれないか」


画面の向こうの沈黙が、灰色の世界に重く響いた。


「これは驚いた!」


まただ。これで何回目だ。


「これは驚いたぞ、この子は人間の赤ん坊にしては実に驚異的な動体視力を持ち合わせている!見てみろ、ジャック!こうやってボールを左右に移動させると――ほれ、すぐに視線はボールを追う!」


もうそろそろ、この人体実験にも飽きてきた。


「いいかい、父さん。遊びじゃないんだ。俺が帰ってくるまで、この子のことを見守っていてほしい。


俺は仕事に出る。ミルクとオムツを手に入れてくるんだ。闇市に行けば何とかなる。金はある。頼む、いいね?」


「驚いた!見ろジャック、今度はお手玉を捕まえたぞ!すごいなこれは!ワシも人間だった頃、お前の世話をしたが、こんな身体能力はなかったぞ!」


「はいはい……」


ジャックは華麗に受け流し、仕事の準備に取りかかる。


「それじゃあ、行ってくる。くれぐれもよろしくな。ユーリにバレないように!」


心配げに扉を閉め、後ろ髪を引かれる思いでネズミ街を駆け出した。


ユーリにはバレないように――そう念を押したが、無理だろう。


彼女は鋭い。何より、彼女は家族だ。隠し続けることなどできやしない。


ジャンク置き場で廃品を仕分けながら、ジャックの胸中はざらついていた。


もし、父さんがヘマをして外にバレたら?


赤ん坊は人身売買の闇に流され、奴隷として一生を終えるだろう。


それだけは、絶対に避けたい。


なんとか、あの家の中だけで――そう、オートチャイルドが販売されるのは6歳モデルからだ。


6歳までは、この家の中で育て上げる。


それからは“モデルチェンジ”したと言えばいい。


うまくいくか? いや、やるしかない。


「エナジー補給だ!列に並べー!」


号令が響き、ジャックは廃品を投げ捨てて列に加わった。


この体は眠りも食事も必要としないが、エネルギーだけは喰う。


支給された缶ジュース型の燃料を開ける。


喉を通り、胃――いや、“バッテリー”へと落ちていく感覚。


それがひどく気持ち悪かった。


まるで、自分の中身が機械油で満たされていくようだ。


「……クソったれが」


思わず呟いた。


そのとき、ざわめきが起きた。


周囲のアンドロイドたちが一斉に同じ方向を見つめている。


ジャックも顔を上げた。


――富裕層だ。


人間の身体を持つVIPたちが、灰色の労働場に姿を現していた。


嫌な予感がした。


「これより――検閲を行う!」


その一言が場内に響いた瞬間、空気が凍りついた。


次の刹那、ため息と怒号が波のように押し寄せる。


「静かに!これも全て、円滑な社会のためだ。列に並べ」


アンドロイドたちは渋々、無機質な列を作った。


油の焼けた匂いと金属音が入り混じる中、ジャックは――焦っていた。


検閲。それは記憶の査定だ。


奴らが探しているのは、反乱分子レジスタンスの痕跡。


システムに不穏な情報を持つ者は、その場で処理される。


「……頼む、通り過ぎてくれ」


汗をかくはずのないボディに、錯覚のような熱が走る。


ジャックは列の最後尾に立ち、後ろを振り返る。


そこには、赤褐色の装甲をまとった傭兵型アンドロイド。


銃口のような瞳で、無言の圧を放っていた。


逃げ道は、ない。


――その時。


「お前……人間の匂いがするな」


時間が止まった。


プログラムされたはずの心臓が、暴走したように鼓動を刻む。


無視だ。とにかく無視する。


しかし、傭兵は尚も肩に手を置き、ジャックを追い詰めるように問いかけた。


「そこのお前だ、何か人間のような匂いがする」


ジャックは冷静を装って答える。


「気のせいじゃないですかね? 猫を拾ったので、人間用のミルクをあげたんです。その匂いかな」


沈黙が二人の間に重く漂う。


「検閲を行う。手を差し出し、このスコープを見ろ」


終わった――。


ジャックは無心になる。


しかし、逆にこれで良かったのかもしれない。


下手な極悪アンドロイドの手に渡るよりは、まだアマデウスの管理下のほうが安全だろう。


だが、あの赤ん坊が同じ機械仕掛けの体に閉じ込められたら……幸せなのだろうか?


「…以上なし。行っていいぞ」


ジャックが呆然としていると、傭兵ももたもたしている。


「さっさと行け」と促すように、無言で去っていった。


クリアできたのか。


もしかすると、検索はレジスタンスの痕跡だけに絞られていたのだろう。


とにかく、生き残った――俺も、あの子も。


ジャックは瞳を閉じ、存在しない神にひそかに感謝した。


仕事を終え、闇市で必要な物資を手に入れたジャックは、家の前に立ち、扉を開けるのをためらった。


不穏な空気が漂う。ユーリにバレたのだ。空気で分かる。


だが、覚悟を決めなければならない。


ドアノブに手をかけた瞬間、扉が勢いよく開かれた。


「ジャック!!よくもまあ帰ってこれたわね!」


その声の向こうにいたのは、父だった。


腕の中には、赤ん坊が抱かれている――。 


ついにバレたのだ。


ジャックは観念し、赤ん坊を拾った経緯を話した。


「それで……この子、どうするつもり?育てるのか?」


「まさか、捨てるわけにもいかないでしょう。


こんな荒廃した世界で、一人で生きていけるわけがない。


まだ赤ん坊だ。一人で立つことさえできないんだ」


リビングに重い沈黙が流れる。


それを破ったのは、ユーリだった。


「育てよう。私たちの子として」


意外だった。


そんな言葉が、彼女から出るなんて。


「何? 驚いた顔して」


「いや……意外だと思って。君はリスクを嫌がるから」


「でも、アマデウスに渡すよりはマシでしょ。


最初は思ったわ。アマデウスに渡せば安全な生活が保障されるかもって。


でも、やっぱり私も元は人間なのよ。


この子を育ててみたい、母として、人間として」


彼女の瞳を見つめる。


そこには、母親としての決意と、希望の光が宿っていた。


「名前はどうするんじゃ?」


父が待っていたかのように二人に尋ねた。


「そうだな……名前は――」


「ゼウス」


その瞬間、空気が変わった。


まるで時間の流れが揺らぐかのように、家の中の光が微かに反応する。


ゼウス――まだ小さな赤ん坊の体に宿る命が、呼ばれた名前に応えるかのように瞬きをした。


長い眠りから目を覚ましたその視線は、遠く、見えないはずの方向へと向かう。


そして、目に飛び込んできたのは、神々の一人――ロキ。


不敵な微笑を浮かべ、赤ん坊を見下ろすその姿は、現実と幻想の境界を曖昧にするようだった。


ジャックは思わず赤ん坊を抱きしめる。


「俺たちの子だ。守る……」


その決意は、荒廃した地下街から、神話の世界へと続く大いなる運命への第一歩だった。

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