核兵器についての所感、歴史的思考を交えながら

酢烏

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 今日は少し真面目な話を。


 戦後80年とのことで、先の大戦に関するニュースが多くなっています。

 先日8月6日は広島原爆の慰霊式典が開かれ、明日9日は長崎にて。15日の終戦の日に向けて、またそれ以降も、戦争にまつわる特番ドラマや映画が数多く放送・上映されます。


 その中でとりわけ大きく取り上げられるのは、やはり核兵器ではないでしょうか。

 核兵器。ヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆、そのバージョンアップされた水爆などの兵器群の総称。

 放射性物質を用いた、威力が大きく、放射能汚染が懸念される非人道兵器。

 爆発の細かい原理は知らずとも、そういう印象を持っている方が多いのではなでしょうか(かく言う私もその一人です)。


 核兵器に対して、私は「廃絶すべき」との立場を持っています。

 理由は単純です。「自分がそれで死にたくないから」



 昨今、某政党の議員が「核武装がもっとも安上がり」などと述べて大炎上した件がありましたが、あの発言については私も批判的な一方で、それ以上に「人々が内心、核兵器の脅威におびえているがゆえに、ああいう言葉が刺さっている」のだと実感しています。

 ロシアによるウクライナ侵攻や、イラン核施設への攻撃、インドとパキスタン間の交戦といった近年急速に悪化する核兵器情勢が、やはり他人事ではないと感じているからでしょう。


 とはいえ「核保有国になる」という言葉を軽々に扱うことには、私は強く反対します。


 核兵器の保有が自国の安全保障に最も効率的に役立つ、というのは、各国の現状を見ていても批判する点は少ないでしょう。核抑止論が機能している今、この論に乗っかって核兵器を持つことには、周辺国に比べて軍事力の著しく低い日本にとって一定の価値があるとは認められます。


 ですがSNSで飛び交っている主張やネットニュースの解説を見ていると、核兵器を保有すること自体の重みや、デメリットをあまりにも軽視し過ぎていると思えます。

 たとえば「核兵器を保有します」と宣言した時点で、周辺国をはじめ世界各国から非難を浴びるのは明白です。というか「核兵器を作れる水準まで達しました」とIAEAに言われたイランがボロクソに批判されたのですから、間違いありません。


 非難なんて無視すればいい、と高を括っていると、次は経済制裁が飛んできます。場合によっては武力攻撃もあり得る。歴史を見ていれば分かりますが、攻め込む正当な理由なんていくらでも作れますからね。そもそも脆弱な日本経済では制裁を受けた時点で崩壊するという推測も的を射ているでしょう。


 そしてそんなときにアメリカが手助けしてくれるとは限りません。むしろこれを機に日本を見限る可能性だってあります。向こうだって善意で日本と同盟を組んでいる訳じゃありませんから。

 もし私がアメリカ政府の立場だったら、日本には今以上の力を持って欲しくはないと考えます。だって言うことを聞かなくなりますし、いつか同盟を破棄したときに日本から核攻撃されたくありませんからね。リスクは誰だって、いつだって低く保ちたいものです。


 経済もボロボロ、安全保障もボロボロ、それでも核兵器だけはある。

 そんな国になりたいですか? と問われたら、私はNoです。

 SNSで雄々しく見栄えのする言葉を繰り返している人々はそこまで考えているのか? という話です。私は、これもNoだと思います。なぜなら批判の声が高まった瞬間、一瞬で手の平を返すように立場を180度変えるので。まあ立場が一貫していることが正しいというわけでもないのが難儀なところですが。



 そんな感じで、あくまで私個人としては核兵器は保有してはならないと思っていますし、「じゃあどうやって日本を他国の核兵器から守るんだよ」と言われたら「世界から核兵器を廃絶するしかないじゃん」と答えます。

 それだけの話です。


 正義を語っているとか偉いとか潔癖とか理想論とか現実主義とかリベラルとか右翼とか口だけ星人とか排外主義とか自意識過剰とか身勝手とか、どうでもいい。

 ただ当たり前に核兵器の脅威を脅威と考えて、核兵器を滅ぼして人類を生き残らせたいから核兵器廃絶を叫んでいるだけです。


 生物進化論では自己保存の法則が働くと言われていますが、それならば人類は己の政治的立場や主張を問わず、自分たちの存在を消しかねないものに対しては常ならぬ危機意識を抱くものなのではないでしょうか。

 その危機意識は、他人の言葉で左右されるほど軽いものなんでしょうか。


 どこぞの人気漫画のキャラクターが「生殺与奪の権を他人に握らせるな」とか言っていましたが、その言葉はまさしく、私たち自身に刺さるべき言葉ではないのでしょうか。

 私には、今の人々の多くが他人に意見や思考を丸投げし、国家や核兵器という他人に自分たちの運命を握らせているようにしか見えません。

 そしてそれが真っ当なあり方だとは到底思えない。



 まあ、ここまではお気持ち表明とでも捉えてくだされば構いません。流していただいても結構です。

 ですが核兵器に関しては廃絶、少なくとも反対を基本方針としていかないと、この先近いうちに大きな問題になって表れてくるのではないかな、と危惧しています。

 というか既に起こっているからこそ、上記のような炎上発言が生まれてくるわけですし。


 歴史をちゃんと学んだ方は分かるかもしれませんが、人間というものは時間が経つと、陰惨な過去を賛美または擁護するように書き換える傾向を持つものなのです。


 例えば、源義経。牛若丸、あるいは鎌倉幕府を打ち立てた頼朝の弟として有名な彼は、弁慶と一緒に東北地方で死んだ悲劇の武将として知られています。

 ですが、この義経像が作られたのは江戸時代前期であったということはご存じでしょうか? そして史実では、義経は「主君である兄の言うことを聞かない」「平気で遅刻する」などの悪評が付きまとう人物であったこともご存じでしょうか。


 元々人格に難あり、と評されていた義経が、幼くして弁慶を倒し、鎌倉幕府創設にこぎつけた悲劇のヒーローにまで祭り上げられたのは『義経記』(ぎけいき、と読みます)によるものが大きいと言われています。『義経記』は天狗との修行だったり五条大橋での死闘だったり、本当にあったのかどうかも分からぬエピソードを盛り込み、義経を必要以上にヒロイックに描いています。ここから「判官びいき」という言葉が生まれたのは必然だったでしょう(義経は多くの史料で「判官」と呼称されています)。


 この書物は室町時代には成立していたとされていますが、室町なんて応仁の乱やらなにやらがあり、そもそも庶民の識字率が低い時代ですから、こうした義経像はあくまで社会の上層にしか広がっていませんでした。が江戸時代に入って出版文化が盛んになり、町人が本や瓦版をさかんに読むようになった結果、この『義経記』による義経像が多くの民衆の間に流布していきます。その結果、源義経はだらしなく忠義の感じられない武将から、武の才能があったばかりに嫉妬した兄に殺された悲劇の英雄として定着していくのです。

 しかし、定着した義経像はあくまでイメージであって、実態とはかけ離れています。本来負の側の人間であった彼は、たった一冊の書物が流布したことによって正の側で語られるようになりました。


 他にも幕府に取り立てられた民兵部隊であるにすぎないのに、戦後の出版やドラマで幕府側の精鋭部隊として描かれるようになった新選組。高齢になってようやく登用されたエリートが、狐の子だったり史上最強の陰陽師だったり盛られて描かれるようになった安倍晴明。

 どれもこれも、必要以上に正の側面が強調されて、今のイメージができています。 

 本来は歴史資料をご提示できればいいのですが、これが学術的著作ではないこと、また私がそれらに現在アクセスできる環境にないことから、一旦控えさせていただきます。ただ、いずれは根拠としてご提示したいと思っています。



 このような歴史修正の動きは昨今でも出ていて、たとえば関東大震災時の朝鮮人虐殺や、日中戦争における南京大虐殺を「なかったもの」として語る人々が出回っています。ですが、これらは事実です。歴史的に、実際に起こったものです。写真も残っていますし、前者については例えば甘粕事件についての日本軍の調書など公的文書が残っていますし、これを否定するにはあまりにも証拠が揃い過ぎています。

 江戸時代などカメラやビデオのなかった時代ならまだしも、それらが存在したり、国家により公認された文書が現存する近代の事象については、誤魔化すのはかなり難しいでしょう。


 しかし昨今の出来事については違います。生成AIによるディープ・フェイクがあるからです。

 岸田前首相やバイデン前大統領に嘘のマニフェストを言わせている動画、災害時にありもしない津波や地震の映像を流して戦々恐々とさせるSNSアカウント、たまに偽のニュースサイトを情報の根拠として提示してくるものもありますね。

 どれもあり得そうなものばかりで、そのくせそいつらの中にたまに本物が混じっているのだから余計にたちが悪い。私たちは何が真実で何がフェイクか、自分で判別しなければならないくせに相手のレベルが高すぎるという「無理ゲ―」を強いられています。


 当事者である私たちにとって「無理ゲー」なら、これから先の時代を生きる人々にとってはなおさら「無理ゲ―」でしょう。


 真実と呼べるもの、客観的な根拠として十分に足りるものがなければ歴史は成立しません。少なくとも、歴史学は正常に機能しないでしょう。

 そんな未来にあって、歴史の改変・捏造というのは今以上に簡単になっていくでしょうし、それを防ぐ手立ては今の我々にはありません。

 ただ、そんな未来の傾向を決定づけることはできます。


 論調というのは不思議なもので、後世でも近い時代においては引き継がれるものであると思います。

 明治政府が作り上げた「国家神道」なんてたかが160年前に生まれたものでしかないのに、もう我々の間には「天皇は男性しかなっていない」「元号は天皇が変わるときに変えられる」「アマテラスは女だった」という通説がさも常識のように横たわっています。

 しかし江戸時代前の歴史資料を見れば明白なように、これらは真ではありません。少なくとも反例となるものが歴史的事実として残っています。しかし、そうした証拠を突きつけられてなお、私たちの感性はこうしたものを懐疑的に捉えるようになっている。前の時代にこびり付いたものは、後の時代にあってもどうしても削ぎ落せないものであることが大半なのです。


 これは負の例ではありますが、こうした傾向の継続というものは使いようによっては大きな心強い武器となるものです。そう、たとえば核廃絶という傾向を今の時代に基礎づければ、これから先ディープ・フェイクが横行しようとも、その基礎づけられたものに従って人類は多少なりとも、人類存続に向けた選択が取り得るようになるとは思えませんか?


 そう思っているからこそ、私は今の時代こそ、核兵器に対して反対の姿勢を示し続けることが肝要なのではないかと考えているのです。

 そしてその意見表明というのを、ちょうど戦後80年という節目を機会にここでこうして行ったわけです。


 SNSに自分の意見を表明して批判されるのは怖いですからね。場合によっては根拠に欠く身勝手な非難にリプ欄が満たされることもあるでしょう。そうして傷ついた人が共感を求めて、あるいは贖罪と称して多数派の意見に流されるのは仕方がないことなのかもしれません。

 しかし、そうした行為が正しいとは思えない。

 なぜなら責められるべきは、変わるべきは、そうした自分と違った意見に対してまず噛みつくことしかできない、あるいは溜飲を下ろすための道具としか見ていないSNS社会の構造なのですから。

 いまの時代、自分というものも変わるべきですが、社会というものも変わるべきなのではないかと私は強く実感しています。


 しかし変わらないもの、変えてはならないものもあります。

 自他問わず生命の尊重とか、社会による信賞必罰とか、そういった姿勢を変えないのは果たして正常なのかと問い続けることとか。

 その中に、私たちの生命や生活を脅かし続ける核兵器への反発や廃絶の意志を入れ込むことは、そこまで間違っていることなのでしょうか?

 じゃあそれをどうやって実現するのか、方法についてはそこをしっかり据えた後に考えるべきことではないのでしょうか。

 今の日本社会の論調は、そうした方法論と基礎的概念がごちゃ混ぜになって、議論が議論という体をなしていないように思われます。


 どこかで戦争が起こっていたり、戦後80年といった機会でなければ、核兵器や安全保障について深く考えることは辛いし面倒くさいし、ないでしょう。というより、ない方が平和だったとも言えそうです。

 そうではない時代だからこそ、改めて歴史や基礎的事項を学びなおして、物ごとを根本から考え直してみてはいかがでしょうか。

 この文章も含めた他人の意見に、自分の思考を丸投げすることがないように気を付けながら。

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