スイッチ ― 忘れないことの代償 ─

浅野じゅんぺい

スイッチ ─ 忘れないことの代償 ─

── 忘れなければ、救われると思っていた。けれど本当は、忘れられないことが、私を壊していたのかもしれない。



午後四時すぎ。

焼けたアスファルトに照り返す陽光が、目を刺すほど眩しかった。


坂を登る13番の市営バスが、喘ぐようにディーゼル音を響かせる。車体に西日が反射して、ゆっくりと私に近づいてくる。


そのとき、誰かの手が私の袖を掴んだ。


「来いよ」


「や、やめて……っ」


喉の奥で声が詰まった。

踏切の砂利道に引きずり込まれる感覚。

耳元で三人の笑い声がした。あの日の私は、ただ、何をされているのか分からないまま固まっていた。

ランドセルを背負った小学生が振り返り、一瞬だけ目が合った。


向こうには、バス。無表情の運転手。

こちら側では、スマホを見つめたままの担任教師。買い物袋を持った女性が、私の方をちらと見ただけで、歩みを止めなかった。


誰も声を上げなかった。

誰も「なにしてるの」と言ってくれなかった。


ペットボトルを踏んだ音だけが、やけに鮮明に響いた。

「ぐしゃっ」という音が、頭の奥でリフレインする。


あの日から、私の中に棲みついたものがある。


夜、布団の中で声を殺して泣いた。母は背中を撫でてくれた。でも、目はどこか遠くを見ていた。


「忘れなさい」


その一言が、まるで刃物のようだった。


私は、決めたのだ。

──忘れないことにしよう、と。


その瞬間、どこかで「カチッ」と音が鳴った。


それが、スイッチの音だった。



大学を出て、私は葬儀会社に勤めた。


「若いのに、変わってるね」と面接官に笑われたけれど、気にならなかった。


死は静かだ。

生きている人間みたいに、裏切らない。

誤魔化さない。

沈黙が、私にはちょうどよかった。


化粧室で、亡くなった人の頬に薄く紅をのせる。まつ毛を整え、髪を梳かす。

まるで、自分の中の記憶に、そっと蓋をする作業みたいだった。


休憩室で缶コーヒーを飲んでいたとき、同僚の京子さんがふいに笑った。


「凛ちゃんって、生きてる人より、死んでる人の方が好きそう」


「かもですね」と、私は笑って返す。


けれど、心の中で小さなノートを開き、彼女の名前をペンで記した。



最初にノートに書いたのは、あの担任教師だった。


手を掴まれていた私を見ていたくせに、スマホから目を離さなかった人間。


投書を送った。「女子生徒に不適切な行為があったと聞いた」とだけ。


香りの強い百合の花束を、自宅に届けた。

花粉症だった彼がくしゃみを繰り返し、妻が眉をひそめる場面が想像できた。


やがて、ニュースに小さな見出しが出た。


「中学校教師、自宅で倒れ意識不明」──


テレビの光が顔を照らすなか、私は静かに画面を見つめていた。

誰にも気づかれないように、そっと息を吐いた。


ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。



次は、あのバスの運転手。


夢の中で、彼はいつもドアを閉める。無表情で、冷たく。

私は何度もその夢を見た。

泣いている女の子が、バスの外で震えている。

その子が誰なのか、ずっとわからなかった。


あるとき、やっと思い出した。

──それは、私だった。


彼の妻に、私は“偶然”出会った。

スーパーでレジ打ちをしていた彼女に、何度か会話を重ねた。


ある日、こう呟いた。


「最近、学校で保健の先生が女の子に変な目を……って話、聞いたことありません?」


ただの独り言のように。けれど、相手の心に種だけを蒔くように。


それだけだった。


でも、それだけでよかった。


運転手は辞職し、娘は転校した。

私は、手を下していない。

ただ、記憶して、少しだけ重心をずらしただけ。


夢と現実の境界がにじむ。

それは時として、祈りにもなる。



三人目は、あのとき私に乱暴した男子生徒のひとり。


彼は今、小さなカフェの店主になっていた。

白い壁に、やわらかい光。

手作りのラテアート。

きっと、いい人なのだろう。


私は通った。何度も。


「凛さん、いつもありがとう」


あの声が、笑顔が、胸を締めつけた。

壊したくなかった。でも──壊した。


「ねえ、この人さ、中学の頃、生徒に……って噂なかったっけ?」


隣の女子たちに、そう囁いただけ。

ささやきは、焚きつけた火のように燃え広がる。


レビューは荒れ、SNSは混乱し、カフェは閉まった。


私はただ、記憶していただけ。

「忘れなかった」。

それだけだった。



その夜、京子さんがふと私に言った。


「……凛ちゃんって、怖いくらい人を見てるよね」


私は笑った。


「褒め言葉、ですよね?」


けれどその声は、少しだけ震えていたかもしれない。


私はノートの新しいページに、静かに「京子」と記した。



私は人を殺していない。

復讐だとも思っていない。

ただ、記憶して、少しだけ傾けているだけ。


それが、私の「生き残り方」だった。



夜。

冷蔵庫の光が、キッチンの床を照らす。


私は水をひと口飲んだ。

胸の奥まで沁みわたる。

けれど、ほんの少しだけ苦かった。


スイッチは、まだ入ったままだ。

でも、たぶんこれは故障じゃない。


これが、正常。

だって私は──忘れてはいけなかったのだから。



でも、ときどき考える。


あのとき、誰かが声を上げていたら。

あのとき、たったひとりでも、私の手を握って「怖かったね」と言ってくれていたら。


私はこんなふうに「壊れ方」を覚えずに済んだのだろうか。


いや、きっと壊れた。

でも、違う場所から、違うかたちで。


スイッチを押したのは、誰だ?


母か。

教師か。

それとも……私自身か。



朝が来る。

誰かが死に、誰かが残る。

私は今日も、記憶する。


でも──


私は本当に「壊れていない」と言い切れるのだろうか?

この生き方が「正しい」と、誰かに断言してもらえるのだろうか?


答えは、たぶん永遠にわからない。


でも私は、生きている。


それが今の私にとって、唯一の「証明」だった。




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スイッチ ― 忘れないことの代償 ─ 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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