第28話 未来の扉を開く



 バイトの帰り道、夜の熱気はまだ肌に残っていたけれど、私の胸の中にある熱はそれとは比べ物にならないほど高まっていた。手に握りしめた白い封筒。ただの紙切れなのに、心臓の鼓動を増幅させる魔法でもかけられているようだ。


 アパートの玄関を開け、自分の部屋のドアを閉める。誰もいない静寂の中で、私は初めて深く息を吐いた。明日は日曜日、詩織さんの部屋に行く日だ。そして、話さなければならないことがある。


 ベッドに腰かけ、封筒から改めてチケットを取り出す。デザインの素敵な箱根の温泉旅館「翠風庵」のペア宿泊券。店長がくれた言葉が、反芻される。


「これはいつも頑張っている莉子ちゃんへの感謝なんだ。そして、私にはわかるよ。君は、誰かを想う気持ちを、いつも静かに持っている」


「誰かを想う気持ち」――私の胸の高鳴りの正体を、店長は知っているのだろうか。そんなことを考えていると、頬が熱くなった。


 詩織さんを誘う。その事実は、私にとって大きな、大きな一歩だ。毎週日曜日に部屋で会うのとは違う、一泊二日という非日常の親密さ。もし、詩織さんが迷惑だと思ったら?もし、心から楽しんでくれなかったら?私の高校生としての遠慮と、詩織さんへの特別な感情が、再び胸の中で渦巻いた。


(でも、店長は「誰かとゆっくり、心から楽しいと思える時間も必要だよ」って言った。詩織さんは「旅行に行きたい」って言っていたんだもんね……)


 私はチケットをもう一度封筒に戻し、それを枕元に置いた。明日の朝、この熱を抱えたまま、詩織さんの部屋のドアを叩く。誘うべきか、誘わないべきか。不安と期待が半分ずつ、私はただ、詩織さんの喜ぶ顔が見たい。それだけだった。



 翌日、日曜日。いつものように詩織さんの部屋のチャイムを鳴らす。


「はーい!」


 詩織さんの明るい声がして、扉が開く。部屋に足を踏み入れると、柔らかな日差しと、詩織さんのお気に入りのアロマの香りが迎えてくれる。


 しかし、視線を下にやると、予想に反して床には服が脱ぎ散らかされていた。 昨日までの食べ残しや食器はないものの、ソファーには読みかけの雑誌と、裏返しになった服が放置されている。椅子にはシワになったままの服がかかっており、畳まれたタオルケットも端が乱雑にはみ出している。詩織さんらしい、片付けの途中で力尽きたような……いつもの部屋の風景だ。


「莉子ちゃん、いらっしゃい!」


 詩織さんは屈託のない笑顔で私を迎えてくれた。この笑顔を見られるだけで、私の心は満たされる。


「あの、詩織さん。服をカゴに入れてください」


 私が床の一番目立つ場所にあった裏返しのスウェットを指さすと、詩織さんは一瞬きょとんとした顔をした後、「あー!」と声を上げて頭をかいた。


「ごめんごめん!昨日ね、夜中に急にアイデアが浮かんで、夢中になってメモしてたら、着替えたことすら忘れてた!」


 詩織さんは屈託のない笑顔で謝ると、流れるような動作で床の服をいくつか拾い上げ、部屋の隅にあるランドリーバスケットに放り込んだ。しかし、ソファーにかかったままの雑誌やシワになったカーディガンには目もくれず、私の方に向き直る。


「はい、これで大丈夫!莉子ちゃんは本当に几帳面だなぁ。さ、座って座って!お茶淹れるね!」


 散らかった服の山を避けるようにして、いつもの定位置である、床のクッションに座る。詩織さんがお茶を淹れてくれる間、私は目の前の「一時的に片付けられた」床を眺めながら、深呼吸をした。


 他愛のない話をしたところで、私は意を決して切り出した。喉が少し乾くのを感じ、淹れてもらったばかりの麦茶を一口飲んだ。


「あの……詩織さん」


 詩織さんは、いつもより少し真剣な私の表情に気づいたのか、マグカップをテーブルに置き、まっすぐ私を見た。


「うん、どうしたの?」


「その……えっと……」


 言葉が出ない。喉の奥が張り付いたように動かない。伝えたいことは頭の中で何度もリハーサルをしたはずなのに、いざ目の前に詩織さんがまっすぐな視線でいると、決意の言葉が溶けていくように消えてしまう。


「え。どうしたの莉子ちゃん……まさか……こっ告白とか!?」


「えっ!?告白!?誰が誰にですか!?」


「いや、莉子ちゃんがあまりにも真剣だから……」


「私は女の子ですよ!?詩織さんも女性ですよね!?」


 ​「そっ、そっか……ご、ごめんね。あまりにも真剣な顔で、しかも莉子ちゃんが言葉に詰まるなんて珍しいから、ちょっと変な勘違いしちゃった。はは……」


 ​詩織さんは気まずそうに、顔の横で小さく手を振った。その反応に、私の張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ。同時に、伝えるべきことが「告白」と誤解されるほど重いことなのだと、改めて実感した。


「違います。その……私、今まで何も将来の夢がなかったんです。だから公務員という安定した道を選ぼうと思ってました。でも……見つけたんです。夢を」


「そうなの?いいじゃない。莉子ちゃんが、何か心からやりたいことを見つけられたなら、それはすごく素敵なことだよ?」


「……詩織さんのおかげなんです」


「え?」


「この前、Vtuberのコラボカフェ……行きましたよね?すごく感動しました。色々な人たちを笑顔にするイベントや企画の力ってすごいなって。私も、あんな風に誰かを喜ばせたり、感動させたりする仕事がしたいって、初めて心の底から思いました。だから……映像編集の専門学校に行こうかなって」


 言葉にすると、胸のつかえが取れたように軽くなった。私自身の未来への大きな一歩だ。詩織さんは、一瞬、目を丸くした後、次の瞬間には目を輝かせてくれた。


「えっ!莉子ちゃんが?本当に!?」


 詩織さんは勢いよく私の方に身を乗り出した。


「はい。だから……私は詩織さんに背中を押してもらったんです。ありがとうございます」


「私が?……そっか。頑張ってね莉子ちゃん!応援するからね!あ。お祝いしないと!ケーキ買おう!ほらほら、一緒に買いに行こう!」


 目の前で自分のことのように喜んでいる詩織さんを見て、私の胸は幸福な痛みでいっぱいになった。安定を捨て、公務員という肩書を手放すことへの一抹の不安は、詩織さんの満面の笑顔によって完全に消し去られていた。


 ​(ああ、この人のためなら、私は頑張れる)


 ​自分の決断が、詩織さんの未来と私の未来を力強く結びつけたと信じたい。私は生まれて初めて、自分の意志で選んだ未来の扉を開けた。

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