第27話 想いの許可証




 暑い日のバイト上がり、時刻はもうすぐ夜の9時。古書店「書架の森」の静けさの中、私は一人でレジの締め作業をしていた。詩織さんは今日は早上がりで、すでに「お疲れ様でした!」と帰路についた。


 明日は日曜日。いつも通り詩織さんの部屋に行く日だ。最近の詩織さんは、きちんと部屋の綺麗さを保ってくれているような気がする。


 ただ、相変わらず服は脱ぎっぱなしで、それはまるで詩織さんの領土を主張する目印のようだ。ベッドの端、椅子の背もたれ、クローゼットの扉に無造作にかけられたそれらが「なぜカゴに入れないのか?」という疑問が生まれている。


 そんなことを考えていると、店長が静かな声で私を呼んだ


「莉子ちゃん、ちょっといいかな?」


「はい」


 店長はいつもの、使い込まれたカウンターの向こう側から、少しだけ身を乗り出した。その手には白い封筒が握られていた。私が中を確認すると、そこには、デザインの素敵な二枚のチケットが入っていた。箱根の温泉旅館「翠風庵」のペア宿泊券。


「え?」


「莉子ちゃんいつも頑張っているから。私は用事があって行けないんだ。良かったら一番仲の良い人と行ってきなさい。たまには誰かとゆっくり、心から楽しいと思える時間も必要だよ?」


​「で、でも、店長……こんな高価なもの、私には受け取れません!」


 店長は静かに首を横に振った。使い込まれたカウンターの木目に優しく指を滑らせる。

 ​

 ​「これはいつも頑張っている莉子ちゃんへの感謝の気持ちだよ。それに、期限も近いし、誰かに使ってもらえた方が、そのペアの旅行チケットも喜ぶ。遠慮はいらないよ、莉子ちゃん」


 ​ペアの旅行チケット――その言葉が、私の心臓を直接叩いた。ふと、詩織さんの顔が浮かぶ。彼女の、何の計算もない、底抜けに明るい笑顔。


 ​(詩織さんを、誘う……?)


 ​誘いたい。心臓が跳ねる。詩織さんと二人きり、非日常の温泉旅館で過ごす時間。想像するだけで、いつもの日常が甘く緩む気がした。


 ​でも、葛藤も生まれた。


 ​(温泉旅館なんて、詩織さんは、私と行って本当に楽しいと思ってくれるのかな……)


 ​私はまだ高校生だ。毎週日曜日に会うとはいえ、一泊二日の「旅行」という親密な時間への照れが混ざり合う。いつもの部屋で会うのとは、わけが違う。


「そういえば、この前、詩織ちゃんも『旅行に行きたい!』って休憩室で言ってたね。行く人が決まらないなら、詩織さんを誘ってあげてはどうかな? 莉子ちゃん、一番仲が良いだろう?」


 ​その言葉は、私の胸の内でぼんやりと膨らんでいた期待を、確かな形にしてくれた。


「えっ……詩織さんが……?」


「うん。きっと喜ぶんじゃないかな?」


​「あの!それなら、このチケットは詩織さんに……」


 ​私が言いかけると、店長は静かに首を横に振った。その眼差しは優しかったが、揺るぎない意思を感じた。


「いいや、莉子ちゃんに渡すよ」


 ​店長はカウンター越しに、白い封筒を私の手のひらにそっと押し戻した。


 ​「たしかに、詩織ちゃんは旅行に行きたいと行っていたよ。でもね、莉子ちゃん」


 ​店長は声を少し落とし、古書店の静けさに響かせた。


 ​「これは私から君への感謝なんだ。そして、私にはわかるよ。君は、誰かを想う気持ちを、いつも静かに持っている。それはとても素敵なことだ」


 ​店長は言葉を区切ると、私の高校生としての遠慮や、詩織さんへの特別な感情を見透かしたように、微笑んだ。


 ​「その『誰かを想う気持ち』があるからこそ、ただ豪華な旅館に行くだけじゃなくて、心から楽しい時間になるだろう。君は若い、色々な経験をするべきじゃないかな?」


 ​店長は、私が詩織さんを誘うことに意味がある、と静かに言っているように聞こえた。それは、私と詩織さんの関係性を尊重し、そっと背中を押してくれているようだった。


 ​「だから、これは莉子ちゃんに渡すよ。詩織ちゃんには、莉子ちゃんから、サプライズとして渡してあげなさい。このチケットが、君たち二人の思い出の始まりになるといいね」


 ​店長はそう言って、白い封筒を私の手のひらにそっと置いた。その封筒は、夏の夜の熱を帯びていないはずなのに、ひどく温かく感じられた。


 ​「……はい。ありがとうございます」


 ​私の胸は高鳴っていた。店長が言った「誰かを想う気持ち」それが詩織さんへの特別な感情だと気づかれているのかはわからなかった。


 でも、その言葉が、私の遠慮を完全に払拭し「私から詩織さんを誘う」という行動を、ただの遊びではなく、意味のある一歩にしてくれた。


 ​私は、まるで宝物のように封筒を両手で握りしめ「お疲れ様でした!」と深く頭を下げた。店の扉を閉めアパートへ帰る。


 熱気がまだ残る夜の街へ、私はアパートへ向かって歩き出した。手に持った白い封筒は、もうただのチケットではない。それは、私自身の「想い」を形にするための許可証のように思えた。


「詩織さん……喜んでくれるかな……」


 そう1人呟く。こうして私の夜は、静かに、そして熱を帯びて更けていった。

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