第12話 もうちょっと、一緒にいたいな?




 日曜日の夜。詩織さんの部屋は、すっかり綺麗になった。色々なものが詰め込んであった本棚もきちんと本が整えられ、脱ぎ捨ててあった洋服が散乱していた床には、もう何も転がっていない。テーブルの上には、二人で食べた夕食の食器が綺麗に並んでいる。


 私が『しお活』と称して家事を始めてから、詩織さんの部屋は、まるで違う世界みたいに変わった。温かい照明の下、整頓された部屋は、どこか居心地が良くて、まるで私のもう一つの居場所になったようだった。


「ふう……」


 私は安堵の息を吐く。こうして、詩織さんの生活が少しでも豊かになる手伝いができたことに、言いようのない喜びを感じていた。


 でも、それと同時に、胸の奥に小さな痛みが走る。この、穏やかで特別な時間が終わってしまうことへの寂しさだ。


「莉子ちゃん、本当にありがとう。もう、部屋の中が快適すぎて、莉子ちゃんに頭が上がらないよ」


 詩織さんは、無邪気な笑顔でそう言った。ソファに座ったまま、くるりと私の方を向いて、その膝の上に抱えたクッションをぎゅっと握りしめている。その言葉に心がじんわりと温かくなる。


「気にしないでください。これは、私の『しお活』ですから」


 そう言って、私は帰る準備を始めた。ソファに置いていた自分のバッグを肩にかける。ふと、窓の外に目をやった。夜の帳が降り、街の明かりが星のように瞬いている。詩織さんの部屋から見える景色は、私の部屋から見えるそれとは少し違っていて、妙に心惹かれるものがあった。


 まるで、この部屋にいる間だけ違う世界に迷い込んだような気分だった。


 このまま、この時間が続けばいいのに……


 そんな淡い期待を抱きながら、私は詩織さんの部屋のドアノブに手をかけた。


「じゃあ、私、これで……」


 私の声は、なんだか自分でも情けないくらいに震えていた。その時、背後から小さな声が聞こえた。


「莉子ちゃん」


「はい?」


「……もうちょっと、一緒にいたいな……ダメ?」


 バイトや配信で見せる、あの明るくて賑やかな声とは全く違う。頼りなくて、か細い、まるで迷子になった子供のような声。その声に私の心臓が大きく跳ねる。ドアノブを握っていた手に力がこもる。


 (もうちょっと、一緒にいたい……?)


 私の脳裏に、先日の夜にこっそり見ていた『しーちゃん』の配信が蘇った。


 『いつか、私を支えてくれる人が現れたらいいな』


 ぽつりと呟かれたその言葉は、まるで誰にも聞かれないように、心の奥底から漏れ出た本音のようだった。


 あの時、私は何もしてあげられない自分の無力さに、胸が苦しくなった。画面の中の詩織さんをただ見つめることしかできなかった。


 『しーちゃん』の言葉と、目の前にいる詩織さんの言葉が重なる。まるで、ずっと隠されていたパズルが、カチリと音を立ててはまるような感覚だった。


 (詩織さんは、いつも私に甘えているように見えて……本当は、寂しかったのかも……)


 私の胸に、強い庇護欲が湧き上がってくる。私の完璧な仮面は、詩織さんの前では簡単に剥がれ落ちてしまう。


 『ダメです。私は高校生ですよ』


 いつもの私なら、そう言っていたかもしれない。高校生が、夜遅くまで大人の部屋にいるなんて、優等生としての私には許されないことだ。


 だけど……


 その言葉は、どうしても口から出てこなかった。


「……あの、えっと……」


 私は戸惑いながら、ドアノブから手を離し、詩織さんの方を振り向いた。詩織さんは、私の顔色を伺うように不安げな表情をしていた。その表情に私の心は決まった。


 優等生としてのルールなんて、もうどうでもいい。詩織さんの寂しさを放っておくことなんてできない。


「……もう少しだけ、ですよ」


 そう言うと、詩織さんの顔がぱっと明るくなった。その満面の笑顔に私は自分の選択が正しかったことを確信した。


「やった!ありがとう、莉子ちゃん!」


 詩織さんは、子供のように飛び跳ねて喜んだ。そして、私をリビングのソファへと誘う。


「何しようか?莉子ちゃん、明日も学校だもんね。そうだ、映画でも観ようか!私ね面白いやつ持ってるんだぁ~」


「……エッチなやつですか?」


「え?いやいや!違うよ!きちんとしたやつ。ほらこれなんだけどさ」


「……詩織さんが観たいものでいいですよ」


「え~、莉子ちゃんの見たいやつにしようよ。せっかくこうやって初めて2人で映画観るんだし!」


 私の意見を尊重してくれる詩織さんの優しさが、また私を温かい気持ちにさせる。結局、詩織さんが持っていた恋愛映画を二人で見ることにした。


 静かな部屋に、映画のBGMだけが流れている。ソファに並んで座る私たちは、何も話さなくても心地よかった。映画の内容は、正直あまり頭に入ってこなかった。


 隣にいる詩織さんの、ほんのり甘い香りに、私の心はそれだけでいっぱいだったから……


 映画の終盤、主人公二人が結ばれるシーンで、私は詩織さんの横顔を盗み見た。スクリーンに映る物語に夢中になっているその瞳はキラキラと輝いていて、とても綺麗だった。


 (ああ……どうして私は、この人のためなら、こんなにも頑張れるんだろう……)


 私の胸に、じわりと熱い感情が広がる。これは、詩織さんに世話を焼きたいという庇護欲だけではない。もっともっと、深い、甘酸っぱい、名前のつけられない感情のようなもの。


 映画が終わると、詩織さんは「ふふ、ハッピーエンドでよかったね」と嬉しそうに笑った。その笑顔に、私もつられて笑った。


「莉子ちゃん、もうこんな時間だね」


 詩織さんが時計を見て、少し寂しそうに言った。


「はい……そろそろ帰りますね」


「そっか……じゃあね、また来週ね?」


 詩織さんはそう言って私に微笑んだ。その笑顔は、この前のウインクのように、大人っぽく私をからかうようなものではなく、もっと柔らかくて優しいものだった。


 その笑顔に、私は自分の感情を偽る必要なんて、ないんだと教えてもらった気がした。


 私は、自分の部屋へ帰るために、詩織さんの部屋のドアを開けた。一歩外に出ると、ひんやりとしたアパートの廊下の空気が頬を撫でる。部屋の中の温かさが、まだ肌に残っている。


「あの!詩織さん!」


 振り返った詩織さんの目に、私の言葉がまっすぐに届くように、私は自分の感情を乗せた。


「ん?」


「来週の日曜日も……その……また来ますから!」


 その言葉に、詩織さんは少し驚いた顔をした後、ふわりと微笑んだ。


「うん。待ってるね?」


 私は再びドアを閉め、夜のアパートの廊下を歩く。たった数メートルの道のりなのに、詩織さんの部屋から離れるのがひどく寂しく感じた。夜風が、私の熱くなった頬を優しく冷ましてくれる。


 (……私も、もう少し、一緒にいたかったな)


 心の奥底で、誰にも聞こえないように、私はそっと呟いた。

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