第9話 目に見えないライン
最近は、バイトあがりの時間が同じだと、詩織さんと一緒に帰ることが増えている。アパートまで続く帰り道、他愛のない話をする時間が私にとって密かな楽しみになっていた。
バイトが終わり、私は詩織さんとアパートの入り口で別れた。
「じゃあね、莉子ちゃん!またね~!」
「はい。また」
そう言って自分の部屋の扉を開ける。カチャリと鍵を閉め、制服を脱ぎ、部屋着に着替える。私の部屋は、私が完璧であろうと努めているように、隅々まで整理整頓されていて、私という人間の「完璧な日常」そのものだ。
私は、いつものように家事をこなし、翌日の授業の予習と課題を済ませた。それからお風呂に入り、髪を乾かし、ベッドに入った。完璧な一日。あとは、眠りにつくだけだ。
なのに……
最近は少しだけ違う。
(詩織さん、今何してるかな)
今日の詩織さんの笑顔を思い出し、私はスマートフォンの画面をつけた。検索窓に『しーちゃん』と入力し、配信サイトを開く。そこには「ライブ中」の文字。
ちょうど、配信が始まったばかりだった。
『みんな~!こんばんは~!しーちゃんだよ~!』
スマートフォンの小さな画面には、可愛らしいアバターが映っている。画面の中から聞こえてくる声は、しかし、その話し方はまるで別人だ。はっきりと、聞き取りやすい声で、楽しそうに話している。ファンからのコメントが画面を流れていく。
『みんなのおかげで、今日も元気に配信できてるよ~。今日は、このゲームをやろうかなって!これみんな知ってる?』
『しーちゃん、今日も可愛い!』
『やったことあるよ~!』
『しーちゃん頑張れ~!』
画面の中の『しーちゃん』は、ファンからのコメントを一つ一つ丁寧に読み上げ、笑顔で答えている。その姿は、私の知っているだらしない詩織さんとは違う、Vtuberを本気でやろうとしている気持ちが伝わってきた。
配信が進むにつれて、私はその画面から目を離せなくなった。楽しそうにゲームに興じる姿。上手くいかなくてアバターの表情が変わったり、悔しがる仕草。コメント欄が盛り上がると、嬉しそうに笑う声。
気づけば、スマートフォンの画面は、私の顔を青白い光で照らしている。画面上部に表示された時刻は、とっくに日付が変わっていた。深夜2時半。完璧な日常を送る私にとって、それはありえない時間だった。
配信の終盤、ファンからの「おやすみ」という言葉に、しーちゃんは「みんな、おやすみ〜!」と、いつものように明るく返した。そして、画面の中の『しーちゃん』は、ポツリと独り言を呟く。
『……いつか、私を支えてくれる人が現れたらいいな』
その言葉を聞き、私の心臓が強く脈打った。それは、Vtuberとしての詩織さんが、そして一人の人間としての詩織さんが抱える孤独な気持ちを代弁しているように感じられた。
(詩織さん……)
その言葉は、私の心の奥底に深く突き刺さった。
優等生として完璧を演じる私と、Vtuberとして明るい笑顔を届ける詩織さん。私たちは、どちらも仮面を被って生きている。その仮面の下に隠された、誰にも見せられない孤独を、私は詩織さんの言葉の中に感じ取った。
(私も……誰かに支えてほしいのかな……でも大丈夫。私が、詩織さんを支えてあげるから)
スマートフォンの画面を閉じ、私はベッドに横になった。天井を見つめながら、私は詩織さんのことを想う。
同じアパートなのだから、会おうと思えばいつでも会える。別に『日曜日』じゃなくたって、部屋のインターホンを鳴らせば、詩織さんはいつものように笑ってくれるだろう。
だけど、私は、そんなことはできない。
高校生の私と大学生の詩織さん。子供と大人。その間には、目には見えないけれど、確かなラインがあるような気がした。毎週日曜日に部屋を訪ねるという奇妙な契約は、そのラインをかろうじて保っている。
もしラインを飛び越して、この関係が壊れたら、詩織さんとの繋がりがなくなってしまうかもしれない。そのことが怖くて、私は一歩を踏み出す勇気がない。
これが本当の私。でも、この距離が今の私には一番だ。詩織さんを遠くから見守るように、私自身の心を完璧な箱に閉じ込めたまま、少しだけ鍵を開けて彼女の存在を感じる。その曖昧な関係が、私を安心させてくれていた。
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