第13話 十面に伏す怒りの刃
黒煙が、遠い空を覆っていた。それは、地獄の業火が空を焦がした後の、忌まわしい証のようだった。斥候の報告を受けたカルアの胸は、早鐘のように激しく打ち続ける。焦燥と、どうしようもない無力感だった。
「まさか、銀蒼の砦が……燃えているというのか!」
思わず叫んだ声は、かすかに震えていた。希望の名を冠したその場所から、灰色の戦火が天を衝く。
「急げ! 全軍、砦まで駆けろ!」
カルアの叫びに、六百の騎兵と歩兵が大地を激しく鳴らした。砂塵が舞い上がり、朝日がその群れを黄金色に染める。しかし、その必死の疾走も、無情な時の流れには間に合わなかった。
銀蒼の砦に到着したカルアが目にしたのは、すでに形を留めていない砦だった。砦の正門前、瓦礫の中に膝をつき、血に染まったマントを風にはためかせる老将の姿がある。バルバトス――ヴェイルウッド王国の誇る老将軍だ。その周りには、力尽きた兵士たちが、まるで主君を守る盾となるように折り重なって倒れている。
「殿下……ようやく、お戻りになられましたか……」
その声は、今にも風に消え入りそうだった。燃え盛る炎の熱気とは対照的に、静かで、冷たい響きを持っていた。
「バルバトス! 遅れて……すまない!」
カルアが馬から飛び降り、老将に駆け寄る。バルバトスは、かすかに微笑んだ。
「殿下が……お戻りになるまで、砦を守りきれた……それが、私の……最後の……役目……本望です」
血に濡れた手が、震えながらカルアの胸に触れる。その手から伝わる温もりは、やがて潮が引くように冷たさを帯びていった。
「どうか……先に逝くことを……お許しください……」
老将の言葉はそこで途絶えた。その手は、力なくカルアの胸から滑り落ちる。
「バルバトス――!!」
カルアの絶叫が、焼け落ちかけた砦に木霊する。ラフロイグは膝をつき、顔を覆って声を殺して泣いた。カリラは涙を堪えきれず、ボウモアは黙って拳を固く握りしめた。
しかし、時間は待ってはくれない。この世の真理がそうであるように、戦場においてもそれは変わらない。砦を襲ったアガベ帝国の将、バルブレア将軍は、突如として現れた六百の兵を見て、伏兵と勘違いし、一度退却していたのだ。その隙を見逃すなど、ありえない。
カルアは、静かに、だが確固たる意志を宿した眼差しで、涙を拭った。彼は血に濡れた手で地図を広げ、叫んだ。
「バルバトスの死を、無駄にはしない……次は、バルブレアを討つ!」
砦の広間には、悲しみと怒り、そして新たな決意が満ちていた。カルアは静かに、戦術の指示を出す。
「今回の策は――“十面埋伏の計”だ」
「カリラ、君と騎馬百騎が囮になる。敵を十分に惹きつけてから、退け」
「わかった。あたしに任せて。蒼き風の名にかけて、必ず成し遂げてみせるわ」
カリラは力強く頷くと、すでに愛馬の手綱を握り、瞳に闘志を燃やしていた。
「左右の伏兵は、俺がバルバトス隊を引き継ぎ、ラフロイグ隊とともに左翼に」
ラフロイグは無言でカルアの横に立つ。
「右翼は、俺たちタリスカー隊がやろう」
タリスカーが答える。その背後には、粗野だが猛き眼をした新顔――ピーテッド将軍率いる部隊が並んでいた。
「俺たち、火薬臭いだけじゃねぇぞ。見せてやる、帝国どもに。ま、勝てば官軍、負ければただの犬っころってか」
ピーテッドは口元を歪め、不敵な笑みを浮かべる。
「後方からはボウモアの弓隊が援護」
カルアは視線をボウモアに送った。ボウモアは、ただ静かに頷く。
「敵が攻め込んでくる谷に、弓兵を隠せ。動きが見えたら、一斉射を」
「……撃ち損じはしない」
ボウモアは静かに答えると、矢筒を握り締める。
「ヒューガルデル、あなたには魔法支援を頼む。特にバルブレア本人には、最大火力をぶつけたい」
「ふん、分かっておる。風と炎で逃げ場ごと焦がしてやるさ。小僧、お前も死ぬなよ」
ヒューガルデルは不機嫌そうに答えたが、その表情には、友を失った悲しみが色濃く浮かんでいた。
全ての配置が整ったとき、カルアは地図の中心に手を置いた。
「バルバトスの意志は、俺が受け継ぐ。もう、誰も奪わせはしない」
「「「オオオォォ――ッ!!!」」」
全軍がそれに呼応する。その声は、悲痛な叫びではなく、未来へ向けた咆哮だった。そして、戦は静かに、だが確実に始まった。
朝霧の中、カリラ率いる騎馬百騎がバルブレア軍へと突撃する。
「行けッ! 蒼き風の名のもとに!」
天馬が風を裂き、敵の陣に矢を放つ。バルブレア軍は迎撃のために中央突破を試みるが、カリラたちは計画通り、谷へと後退していく。
「追えぇぇぇ!!」
バルブレア将軍の声が、谷間に響く。しかし、彼は気づいていなかった。その声が、自身の破滅を宣告していることに。バルブレア軍が深追いしたその瞬間、両翼の伏兵が動いた。
「今だ! 十面埋伏、発動!!」
左翼――カルアとラフロイグが指揮する部隊が、谷の斜面から雪崩れ込むように突撃する。
「カルア殿下が見ているぞ! 一兵でも下がるな!」
ラフロイグの咆哮が、兵士たちの士気を奮い立たせる。槍の波が敵陣に突き刺さり、帝国兵は混乱に陥る。右翼――タリスカーとピーテッドの部隊が一斉に突入した。
「撃てェェェッ!」
ピーテッドの持ち込んだ爆薬が炸裂し、帝国兵の側面が崩壊する。そして、砦からは、ボウモアの指揮する弓兵たちが放つ、矢の雨が降り注ぐ。ヒューガルデルの四大元素魔法が、空を焦がす。
「風よ、刃となれ! 火よ、焼き尽くせ! 《業炎双嵐》!!」
炎と風が渦巻き、バルブレア軍の中央を焼き尽くす。
「な、なにごとだ!? こ、これは――伏兵か!?」
バルブレアは、その時初めて恐怖の色を宿した。焦茶の軍馬を駆る影が、騎士たちの合間を縫うように進み出る。陽炎の中から姿を現したその男に、バルブレアの顔が凍りついた。
「お前が……バルバトスを殺したのか」
その問いは静かで、だが胸の奥底に熱を孕んでいた。馬上、剣を携えた少年――カルアの瞳には、燃えるような怒りと、それをも超えた確固たる覚悟が宿っていた。バルブレアは歯を食いしばり、血に濡れた大斧を構え直す。
「貴様が……王子、か!」
その名を呼ばれた瞬間、カルアの唇が震えた。
「違う……俺は――ヴェイルウッドを継ぐ者、“未来を背負う者だ“!」
その叫びと共に、カルアの軍馬が蹄を鳴らして加速する。砂塵を巻き上げる猛進。馬上から、彼の剣が太陽の光を弾いて閃いた。
「来いよ……王子の“ままごと“じゃ、俺は倒せんぞッ!」
バルブレアも応じた。荒れ狂う獣のように吼え、血まみれの大斧を振りかぶって突進する。二騎が、風を切り裂いて一直線に交差する――その刹那。
「ハァァアッ!!!」
カルアの剣が放った一閃は、雷鳴のような衝撃を伴い、バルブレアの兜を吹き飛ばした。だが、それだけでは終わらない。バルブレアはすぐに反撃に転じ、大斧を振るう。カルアは体をひねり、刃が肩をかすめて血が飛び散る。だが怯まない。痛みを力に変え、愛馬の腹を蹴って跳躍。地面すれすれを滑るように駆け抜け、バルブレアの死角から跳ね上がった。
「これが……俺の剣だッ!!」
逆光の中で振り下ろされた斬撃が、真っ直ぐにバルブレアの胸甲を裂いた。鋼が軋む音、肉を断つ感触――バルブレアの目が驚愕と悔恨に染まり、そのまま、斧を手にしたまま膝を折る。
「……バル、バトス……貴様の弟子が、こんなにも……」
言葉は最後まで届かなかった。カルアの剣が、確かにその心臓を貫いていたからだ。斧が地に落ち、重い体がゆっくりと倒れる。
戦場に再び、静寂が訪れる。カルアの剣から滴る血が、火照った大地を赤く染めていた。決着だった。バルバトスの仇は、討たれた。戦いの終焉とともに、銀蒼の砦には静かな風が吹いた。それは、老将の魂を慰める風だったのかもしれない。
だが、その勝利は、さらに大きな嵐を呼ぶ合図に過ぎなかった。
「愚かな……バルブレアめ……」
遠い帝都の玉座で、アードベック大将軍が冷たい声で呟く。
「小僧よ、その力……私に会うまで、存分にふるうが良い」
彼は、この一戦をカルアの実力を測るための布石としか考えていなかった。その強さが極まった時、自らの手で刈り取ることに、何よりも愉悦を感じていた。帝国の影は、まだその本質を見せていなかった。
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