第三章 夢のキャンセル
「本当に、延期で済むんだよな? 中止じゃないよな?」
缶ビールのプルトップを引く音が、小さなアパートの壁に響く。
瑞希の弟・拓也は、画面に映るスマートフォンのニュース記事をにらみながら、そうつぶやいた。
2020年3月24日――東京オリンピックの延期が正式に発表された日だった。
「“史上初の延期”って、歴史に名を残したいわけじゃねえんだけどな……」
テーブルの端には、使いかけのスケッチブック。
その隅には、店のレイアウト案や、ロゴのラフ画が描かれている。
《Taku’s Café》
地元の商店街で、小さなカフェを開くのが拓也の夢だった。
開業資金は、観光バス会社での運転手兼ガイドの仕事で、こつこつ貯めてきた。
接客も好きで、得意だった。「どうすれば人が笑ってくれるか」を考えるのが、昔から楽しかった。
だが今、彼のスマホには、真っ赤な通知が並んでいる。
「緊急事態宣言の準備を進める方針」「観光業界に壊滅的影響」「解雇者1万人超」
その中にあった、会社からの一斉送信メール。
> 【重要】一時帰休のご案内
> 状況改善が見られない場合、契約の見直しをご相談させていただく可能性があります。
文面は丁寧だった。
だが、読む人間にとっては、突きつけられる“終了宣告”に等しい。
拓也は目を閉じ、深く息を吐いた。
キッチンの電気すらつけず、ビールの缶をもう一本開ける。
(ここからどうすりゃいいんだよ……)
⸻
翌朝、拓也は久々に実家へ帰った。
母の誕生日を祝うため――という名目ではあったが、本当は心のどこかで、家族に甘えたかった。
「瑞希、あんた、朝からマスクしながらパソコンに向かって……それ、意味あるの?」
母は、薄く笑っていた。
「マスクつけたままオンライン授業? 変な時代ねぇ。風邪ひかないようにね」
その手には、新聞の切り抜き。
「ワクチン接種、年内に可能か」と見出しが大きく載っている。
拓也は、リビングのソファにどかりと腰を下ろした。
「なあ母ちゃん、ワクチン、打とうと思ってる?」
「え? うーん……まだわかんない。副作用のニュース、気になるじゃない」
「じゃあ、オレの店の開業、延期になりそうなんだよな。オリンピックの観光客頼みだったしさ」
母は、少し目を伏せた。
「そう……せっかく準備してたのにね。だけど……無理して始めなくていいんじゃない?」
言葉は優しい。
でも、そこに含まれた“現実”が、拓也には突き刺さった。
(やっぱり、あの夢は、もうキャンセルした方がいいのか……)
⸻
夜。実家の縁側で、拓也と瑞希は二人並んで缶コーヒーを飲んでいた。
桜の蕾が膨らみはじめた木が、庭の奥に立っていた。
だが、今年は花見客も、誰もいない。
「……拓也、どうするの? これから」
「わかんね。会社からも“様子見”って言われてさ。とりあえず、ハローワーク行く予定」
「……カフェのことは?」
「それも、わかんね。オレ、ただ“好きなことで生きていく”って言いたかっただけなんだよな」
瑞希は、カフェラテを一口飲んで、小さく笑った。
「好きなこと、今も好きでしょ?」
「……まあ、嫌いになったわけじゃないけど」
「じゃあ、夢はキャンセルじゃなくて、“保留”にしときなよ。今だけ、棚の上に置いて。埃かぶっても、捨てなきゃいいんだから」
拓也は、目を細めて、空を見上げた。
夜風が吹いた。
静かな風が、誰もいない庭を撫でていった。
この風も、あの教室の窓を揺らしていた風も、きっと同じ空気だった。
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