第二章 マイクの向こうの沈黙

火曜日の朝、瑞希はパソコンの電源を入れる手のひらに、じっとりと汗をかいていた。


 指先が冷たいのは、気温のせいではない。

 初めてのオンラインホームルーム――画面越しに、25人の生徒を相手にするという、未知の授業が始まろうとしていた。


 マイクのテスト。スピーカーの確認。カメラの角度。

 チェック項目は多く、いつもの教室よりもはるかに“舞台”のようだった。


 (教師というより、ニュースキャスターみたい)


 そんな思いが頭をよぎっても、口元のマスクがないことに気づいて苦笑した。

 自室のデスクに座り、ジャージの上に無理やりジャケットを羽織って、首から下はカメラに映らないと自分に言い聞かせながら、髪だけは何度も整えた。


 Zoomの待機画面には「0名」が表示されている。

 午前8時30分。開始まで、あと15分。


 リビングからは、母がテレビをつける音が漏れてきた。NHKの朝のニュースでは「テレワーク初体験特集」と称して、スーツ姿の会社員が自宅の窓際でPCに向かう様子が映っていた。


 (きっと、あの人たちも緊張してる)


 瑞希は静かに、両手を合わせて深呼吸した。


 すると、PCのスピーカーから小さなチャイム音――

 1人目の生徒が入室した。


 画面に表示された名前は「藤代 蓮」。

 少しして、またひとつ、またひとつ。


 入室音がリズムを刻むように、画面に名前が並び始めた。



 だが、カメラはほとんどの生徒がオフだった。


 マイクもミュートのまま。

 教室では声や気配で察することができた生徒たちの“温度”が、完全に失われていた。


 白い背景。名前だけの四角。

 それらが無機質に並ぶモザイクのような画面を見ながら、瑞希は自分が「一人きりの教室にいる」ような錯覚に襲われた。


 「おはようございます。みなさん、聞こえますか?」


 小さく笑顔を作って、ゆっくり話しかける。

 だが、返事はなかった。


 「……マイクのテストもかねて、話せる人は『はい』って言ってみましょうか」


 沈黙。


 「……じゃあ、チャットでもいいですよ。打てる人は“聞こえてます”と送ってみてください」


 一秒、二秒、三秒。


 やがて、ようやく画面下部に一行の文字が浮かび上がる。


 > 【鶴見 空】:きこえてます


 > 【大石 光】:はい


 > 【久保田 悠】:おはようございます


 瑞希は、ホッとしたように笑った。

 (よかった、ちゃんと“誰か”はそこにいる)


 だが、25人中、チャットに反応したのはたった6人。

 他の生徒の名前は、ただ沈黙の中に漂っているだけだった。



 瑞希は、内心で葛藤していた。


 (これでいいのか? 無理に声を出させるのは酷かもしれない。けれど……)


 教室ならば、目が合うだけで伝えられることがあった。

 苦しそうな子、笑いを堪えてる子、眠そうな子――そこに“人間”がいた。

 でも、今は、どこにいるのかも分からない。


 椅子に座っているのか。布団の中か。親の目の前か。イヤホンもしてないかもしれない。


 それでも、瑞希は覚悟を決めた。


 「今日は、あえて“話す時間”をつくってみようと思います。ひとりずつ、名前を呼びます。出席代わりに、“今の気持ち”をひとことだけ教えてください。言葉にならなければ、“うーん”とか“わかんない”でもいい。マイクで話せなかったら、チャットでもかまいません」


 ポツ、と名前を呼ぶ。


 「鶴見 空さん」


 「……あ、えっと、元気です。多分」


 「ありがとう。元気、多分でも嬉しいです」


 「大石 光さん」


 「……つまんないです」


 「正直な感想、ありがとう。わたしも少しそうかも」


 瑞希は一人ずつ、声をかけた。


 名前を呼び、返答を待つ。

 その沈黙はときに10秒を超えたが、瑞希は絶対に急かさなかった。


 やがて、半分ほど呼んだところで、一人の生徒のマイクがオンになった。


 「……」


 音はした。でも、声ではなかった。

 小さな物音、呼吸のような、あるいは鼻をすする音。


 「……八木澤 みのりさん、かな?」


 名前を呼ぶと、マイクはすぐオフになった。


 しかしチャット欄に、すぐ文字が浮かんだ。


 > 【八木澤 みのり】:います


 その一言だけ。


 でも、瑞希の胸には、確かな熱が灯った。


 「うん、“います”って言ってくれて、ありがとう」


 その声が、届いたかはわからない。


 でも、今この瞬間、たしかに“誰かが応えてくれた”――

 その実感が、瑞希の心に深く残った。



 ホームルームが終わり、Zoomの部屋を閉じようとしたそのときだった。


 もう誰もいないと思っていた画面の片隅に、「八木澤 みのり」の名前が残っていた。


 マイクもカメラもオフのまま。

 ただ、チャット欄に、もう一行だけ。


 > 【八木澤 みのり】:先生、窓を開けるのって、本当に意味あるんですか?


 瑞希は、言葉を失った。


 その問いは、教室の換気だけの話ではないと、すぐにわかった。

 それは、この世界に光がまだ差すのか、と問う声だった。

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