Episode.18:狂人の住まう地下施設

 落ちていく、先の見えない暗闇へと。そう、ただ落ちていく。

 手を伸ばすも空を切り、指一本すら空気以外に触れれない。無力感に包まれ、ただただ落ちていく。

 どれだけ抗おうと、落ちるという運命を塗り潰すことは絶対に不可能だろう。


 ――故に、ネアスは抵抗をやめた。


 体を曲げて、来る衝撃に備える。脚から落下できれば助かる可能性もうんと上がるだろう。運がよければ、脚を複雑骨折するだけで済むかもしれない。

 脚から着地して、勢いを逃すように前転。これが理想だ。

 無論。考えるのは簡単だが実際に実行するのは難しい。


「――――」


 体全身に強い風を受けながら、必死に地面の方向へと目を開ける。落下のタイミングが分からなければ、受け身をとることは不可能だ。

 急速に瞳が乾いていき、今すぐにでも瞼を閉じたい欲求に駆られる。しかし、閉じてしまえば命はない。

 すると、瞳に微かな光を捉えた。地面が近い。体に力を込め、衝撃に備える。

 地面まで数メートル。腕一本分。厚紙一枚分。


「うぐぅっ!?」


 ネアスの口から声が漏れた。

 地面に衝突したからではない。重力とは反対の……上方向へ向けて急激に力がかかり、いちメートル程上昇したのちその場で浮かび出した。

 反重力状態。表現するのであればそんな状況だ。

 力の向かう方向が下から上へと急変した影響で、骨や内臓に大きなダメージを受けた。


 だが、確かにネアスは生きていた。

 どうして真逆の方向へと力が働いたのかは分からないが今はただ、生きていることに歓喜する。

 体を捻り、一緒に落ちたはずのルークの姿を探す。

 首を左右に振るが、いくら探せど彼の姿はない。

 その時であった。


「あ゙あ゙ァ゙! 失敗失敗、大ぃ失っ敗っ! だァ゙」


 ネアスは空中で身を捻り、声の聞こえる方へと目を向ける。

 目線の先にいた人物は、猫背でよれよれの薄汚れた白衣に身を包んだ緑髪の男。無精髭が生えていて肌の色は青白く、見るからに不健康。

 男は発狂し、髪を掻き毟っている。髪からはふけが落ち、見る者によっては嫌悪感を抱くことだろう。翡翠色の瞳からは狂気に染まった光が溢れている。


「あ゙あ゙……。やっぱりこれ無しじゃぁあ、駄目ですねぇえ」


 男は白衣の裏から、摘むようにして試験管を取り出す。試験管内には濁った深緑色の液体が入っており、それを一切躊躇うことなく口へと運ぶ。

 試験管の液体を飲み干した男はブツブツと呟やいた後、ネアスに掌を向けた。

 男の掌から優しげな緑色の光が放出され、ネアスの体を包む。

 するとたちまち体中の痛みが引いていく。全身の骨や、内臓、痛めたと感じた全てが。


「な、なんで……」


 ネアスは疑問を口に出した。

 自分とルークを罠に嵌めた張本人だと、ネアスは考えていたのだが違うのだろうか。

 わざわざ罠嵌めたのに、傷を治した理由が全く理解できなかった。


「あ゙あ゙? ああ、ああぁ! 成程ぉ、確かに不思議かぁも、知れませんねぇ!」


 大袈裟に手を叩き身振り手振り、ジェスチャーを交えながら話す男。狂気すら感じるその様に、ネアスは冷や汗を額に浮かばせた。


「理由は簡、単ッ! 僕はぁーあ、自分の発明品の欠陥や不具合で、他者が怪我するのは許せないんですよねぇえ!」


 掻き毟る。男は髪を、顔を、狂ったように掻き毟る。皮膚が裂け、血が出ようとも気にする様子はない。


「故に、怪我をさせるなどっ、何たる失態。何たる過失、不手際ァ゙!」


 ネアスは真下で喚く狂人の言葉を咀嚼していく。ネアスが落下せず空中に留まっているのは、男の発明品――すなわち『エンレオナ』の力。

 空を腕で掻き移動を試みても、悲しいかな一切動いている様子はない。景色は静止したままで、ネアスは無意味に思い腕を下ろす。

 一体どうすれば我が身を自由にできるのかと考えたところで、ネアスはあまりにも遅い気付きを得た。

 真に考えるべきは、思考を回すべきは、そこにないのだ。


「――っ」


 ネアスは唇を噛む。

 命の危機に瀕している状況だ。ならばその現状を打破するために動かなければならない。であるならば今のネアスの思考は無意味。

 たとえネアスが『エンレオナ』の効力から離れ、自由に動けるようになったからといっても、できることなどたかが知れている。


 わざわざシャルの姿形を模した偽物を作り出してまで、ネアスたちの命を奪おうとはしないだろうし、ましてや利点や必要もない。学園との交渉材料――人質のため、というわけでもないだろう。わざわざ増やした利点がなければ、先生たちに発見される可能性が高まるだけだ。

 ネアスたちに用があった。そう考えられないこともないが、果たして何のためであろうか。


 そこにきっと鍵がある。

 幸い男に、今すぐネアスをどうこうする気はないらしく、静かにネアスを眺めていた。暴力に訴えられたら参ってしまうが、会話であればなにか解決の糸口を探れるだろう。

 そしてなにも発見がなかったとしても時間が稼げる。時間を稼げばアウルたち教職員が発見してくれるかもしれない。

 であるならば時間は稼げるだけ稼ぐべきだ。


 なんでも良い。ハッタリでも構わない。

 どちらに転んでもネアスにとっては利点しかないのだ。思いついた言葉をそのまま声に出す。


「――ネアスたちに、何をして欲しいの……」


 何度も言うがこれは予想であり、引っかかって理由を教えてもらえれば儲けものくらいに考えたネアスの鎌かけであった。

 それを知ってか知らずかはわからない。ただ言えることはネアスの言葉を聞いた男は、ニヒルな笑みを浮かべたということだけ。

 つまりは、ネアスにとってこれ以上ないくらい理想的な状況だということだ。


「良いですねぇえ。良いじゃあ、ないですか! ええ! ええェ゙! 話が早いのはありがたいですねぇえ! ううぅん、百点満点ッ!! そんな素晴らしい貴方に! 百点満点を贈呈しますッ!!」


「え、あ、ありが……とう?」


 困惑し、深く考えずにお礼を口に出したネアス。

 普段から他人を困惑させることはあれど、困惑させられたことはなかったネアスには新鮮で、頭が現状を正しく理解できていない。

 そんなネアスの心境などつゆ知らず、男は感情のままに話し続けた。


「気になりますよねぇえ。気になる筈ですよねぇえ! 教えて差し上げます。僕が望むのは……おっと、来ましたね」


「――う、うおおぉぉぉお!」


「――ッ!」


 絶叫とも、雄叫びともとれる叫びが、どんどんと大きくなっていき、空間に響いていく。

 男が指で示した位置を見てみると、天井から落ちてくるルークの姿が瞳に映った。

 ネアスが落ちてきた時とは違い、ルークの落下速度が遅いように感じる。ネアスとルークの落下までの時間の差はこうした理由だろう。


 あまりに落ちてこなかったため別の場所に落とされたものとばかり考えていたが、その考えははずれたようだ。

 赤と橙が混じり合った光を纏いながら、ルークは地面へと激突した。


「る、ルーク!?」


 ネアスと違って、上方向への力は働かず、クッションも無しに落ちた。

 ルークの身を案じ、ネアスは彼を呼ぶ。


「――ああ、死ぬかと思った……」


 勢い良く地面に叩きつけられたルークが、頭を掻きながら立ち上がる。彼に目立った外傷はなく、五体満足で生きていた。


「ああ! あ゙あ゙ァ゙! 成功、大っ成功ッ! ですねぇえ! ううぅん、百点満点ッ! 百点満点ですよぉ僕!」


 男は破顔する。どこまでも歪な笑みを浮かべ、笑う。嗤う。


「偉いね僕、凄いや僕、素晴らしいヨォ、僕! 天才天才天才天才天才天才天才天才天才天才ィィイ!」


「な、なんなんだ……コイツ」


 ルークは叫び散らしている狂人に、驚きの声を上げる。

 落ちてきて初めて目に付く光景に対しては、ごもっともな反応。


「そこに浮かぶ男児とは違い、貴方には落ちている最中に、落ちる速度が落ちていく『エンレオナ』を設置したのですがぁ……。それが見事ッ、大ッ成功! したのですねぇえ!」


 着地時に発動したネアスとは異なり、ルークが落ちている最中に発動していたらしい。

 なによりルークが無事で、一安心だ。もっとも、気を緩めていい状況では全くないが……。


「オマエ、何者なんだよ……」


 これまで生きてきた中で、一度たりとも出会ったことがない性質の人間。ルークの頭に巣くうは、純粋な険悪、拒絶感情。


「おぉとぉー。これはこれはぁ、失礼しましたねぇえ」


 汚らしい白衣で掌を擦り、猫背である姿勢を少しだけ正した男。片手を胸に置き、軽く頭を下げた。


「僕は、イクス=ボビー。以後お見知り置きをぉ」


 狂人はイクスと名乗った。

 どこかで聞き覚えがあるような名前である。それはルークも同様に感じたらしく、二人してなんとも言えぬ引っ掛かりに顔をしかめる。

 そんな二人の様子など、一切気にした様子のないイクスは下品な笑みを全面に押し付けるように顔を上げ、ルークを見る。


「やはりぃ! 見間違いでは無かったですねぇえ! あの光、間違いありませんねぇえ!」


 今は纏っていないが、穴から落ちてきた時に見せた赤と橙の光。イクスが言っているのはそのことだろう。

 まるでおもちゃを与えられた幼児のような、ただただ純粋な興奮が溢れ出ている。


「それがどうしたって言うんだよ、狂人」


「狂人……。狂人、良いですねぇえ。そう僕は狂人! 発明という自分の理想を形作ることに魅了されぇ、取り憑かれた狂人ッ!」


 イクスは唾を飛ばしながら叫び、近くの壁に付いていたボタンを力任せに叩く。


「ん、ああ……」


 間の抜けた、少々情けない声を上げたネアス。理由は簡単。突如として、ネアスを宙に浮かべていた力が消失し、再び体が落下し始めたからだ。

 とはいえ、高さは精々いちメートル半。宙で体勢を整え、脚から綺麗に着地する。


「大丈夫か? ネアス」


「ん。全然平気。それより、アイツはヤバい」


「同感だ。まさか学園の地下に、こんなヤツが潜んでただなんてな」


 ネアスの隣りに駆け寄ってきたルークと、言葉を交わす。

 侵入がほぼ不可能な学園に侵入していただけでなく、地下に空間を作り、潜んでいたなど、誰が考えようか。

 これは教師陣が発見できないのも仕方がないというもの。


「貴方ぁ、先程聞きましたねぇえ。僕が、貴方達に何を求めているかぁあ」


「ん、聞いた」


「貴方ですよぉ、貴方ぁ!」


「オレ、か」


 イクスはルークを指差した。


「君を研究したくて、研究したくてぇえ! 態々学園に忍びこんだんですねぇえ! 僕の勘違いではなくて良かったぁ! 本当に良かったぁ!」


「――――」


 喜びを体全体で表現するように、腕を振り回す。

 苦々しい表情を浮かべたルークはイクスを睨む。しかしイクスはその視線をまるでないものかのように無視して、息をすることすら惜しむように再度口を開く。


「僕の研究にぃ! 是非協ぉ力して貰いたいものですねぇえ! どうですかぁ、お願いできますかぁ?」


「……そんなことより、シャルはどうした? 無事だろうな?」


 ネアスとルークが見たシャルは、何処からどう見ても偽物、紛い物であった。

 その一方でシャルがイクスに利用されたことは、疑いようもない事実。


「シャルぅ? シャルシャルシャルシャルぅう……。ああ、あ゙あ゙ァ゙! あの少女のことですかねぇえ! そうでした、そうでしたぁ。貴方達は、彼女の姿を使って呼び寄せたのでぇしたぁ」


「オマエ……!」


「――――」


 ルークもネアスも静かに、それでいてとても大きな怒りを抱いた。

 先程までと異なり全く興味がなさそうに、なんだったら面倒くさそうに話し始めたイクスに、ルークは今にも飛びかかっていきそうなほど体を震わせていた。


「ああ、あ゙あ゙……。そんなに激昂しないでぇ、くださいよぉ。あの少女は、まだ無事ですかぁら」


「――本当なんだな」


「ええ、ええぇえ。勿論、勿ぉ論。何でしたら、解放してあげてぇも、良いのですよぉ。もう彼女の役割は、終わったのですからねぇえ」


「胡散臭い。望んでいることもバレバレ。どうせルークを研究させろって言うんでしょ? シャルを助ける代わりに」


 イクスが考えていることはわかりやすい。

 自分の欲求を優先し過ぎていて、まだ子供であるネアスにも、彼の意図を察せてしまう。ネアスに、ルークを生贄のように差し出す選択しはない。


「ああ、苦手なんですよねぇえ。こういう取引。でもまあ、いいでしょぉう。どうですかぁ? 私の研究に協力すれば、少女を解放し、隣の小さな子も無事に返してあげますがぁ」


「くどい。ルークを犠牲にしない。もしルークが犠牲にやろうとしたら、ネアスがビンタする」


 隣に立つルークが、小さくネアスの名前を発した。

 ネアスにとって、命と食事と睡眠の次に大事なもの。絶対に手放さない、手放すと考えたくもない。

 明日を笑って過ごすためにはルークが、そしてシャルが必要なのだ。三人揃ってこそ、明日を楽しみに眠ることがてきるのだ。


「あ゙あ゙、そうですかぁ。貴方も小さい子と同じ考えなんですかねぇえ?」


「ああ、そんなことしたらネアスだけじゃなくて、シャルにもぶん殴られちまうよ」


 ネアスとルークは笑う。こんなどうしようもない世界を、精一杯生きるための処世術だ。笑顔という名の化粧で飾り、偽るのだ。

 楽しいから笑うのではない。楽しめる状況じゃないから、楽しいと思えないからこそ無理にでも笑うのだ。そうすれば勝手に、どこかおかしくなって笑えてくるのだ。

 危機的状況だからこそ笑う。じゃないとこんな世の中生きていけない。


「ではぁ、交渉決裂ぅ……ということですねぇえ」


「ああ、そうだぜクソ野郎! オレ達が簡単に死ぬと思うなよ? オマエが発狂するぐらい、足掻きまくってやるぜ!」


「ん。でもネアスは死ぬつもりはない。ルークも死ぬ気、ダメ」


「はは、そうだな。そうだよな。じゃあしぶとく生き残ってやるぞ」


「ん」


 ネアスとルークは、肩が触れる距離まで近づいて、構えを取った。

 防具もなければ、強い武器をない。ないないだらけで、丸腰な二人。頼れるものは自身の肉体と、命を預ける親友一人。二人には、それだけで十分であった。

 少し前までの気まずい空気などそこにはない。あるのは覚悟と信頼のみ。命の危機に考え事などする暇はないのだ。


「徹底抗戦だ!」


「ん! 徹底抗戦」


 最悪な今日を否定し、幸せな明日を享受するため、ネアスとルークは力強く声を張り上げた。

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