【見えていること、証明してみせて(2)】

 昼食をどうするか。それは少し問題だった。僕一人で二人前頼むと奇異の目を集めそうなので、フードコートで大盛りのラーメンを一つ頼み、それを半分こして食べることにした。


「なに?」

「いや……」


 幽霊でもお腹が空くんだな、と思ったのは言わないほうがいいだろう。幽霊だと決まったわけじゃない。

 昼食を食べたあとは、映画を観ることにした。ショッピングモールの六階にある映画館に向かう。


「何か観たい映画ある?」と乃蒼に訊ねる。

「立夏が観たいのでいいよ」

「じゃあこれかな。今話題の恋愛もの」


 別れた元恋人からある日突然手紙が届く。今の恋人とその人との間で心が揺れ動いてしまう。人を愛する意味とは――を観るものに問いかける恋愛映画だった。原作は小説で、今年実写映画化されたものだ。乃蒼は恋愛モノが好きだと以前言っていたし、最適だろう。

 また、ここでも試したいことがあった。

 ポップコーンを二人分買う。一方でチケットは一人分しか買わない。入場するとき止められるかどうかの確認だったのだが、止められることはなかった。

 チケット代が一人分浮いた……と無邪気に喜んでもいられない。「やっぱり、私の姿見えていないんだね」と乃蒼は少し落ち込んでいたのだから。

 かける言葉が見付からない。

 映画の内容は、ありがちなお涙頂戴ものだ。話題になるだけあって普通に面白かった。ただ、主人公の優柔不断な言動には首をひねる場面が多々あって、いまひとつ感情移入できなかったのだが。去り行く者を追いかける勇気って大切なのだなと、不器用な彼らの姿を見ながら思った。

 追いかける勇気、か……。

 ショッピングモールを出て、側にあるコーヒーショップに入った。

 乃蒼の姿はやっぱり見えていないので、(変な顔をされながらも)ミルクコーヒーフラペチーノと、チョコレートデニッシュを二つずつ注文した。

 コーヒーを飲みながら、映画の感想を言い合う。チョコレートデニッシュをつまみながら、これまででわかったことを紙に書き出していく。


・ノアの姿が見えているのは、僕と朝香のみ。(ただし、朝香には少し透けて見えている)

・乃蒼に触れることは自体は、おそらく誰にでもできる。

・乃蒼が触れている物と、身にまとっている衣服は見えなくなる。

・食う、寝る、遊ぶ、といった他の人と変わらない生活ができる。


「つまり、どういうことなんだろう? やっぱり私は幽霊なのかな?」


 乃蒼が首をかしげる。眉間にしわが寄っていた。


「うーん……」


 今得られている情報を元に考えてみる。少なくとも幽霊ということはないだろう。物に触れる幽霊なんて、見たことも聞いたこともない。


「乃蒼、ちょっと手を出してみて」

「ん? こう?」


 テーブルの上にあった紙ナプキンを、彼女の手に載せた。さも、それが当然であるみたいに、紙ナプキンはそこに留まった。


「ほら、意思を持っていない紙ナプキンでさえ、こうして手のひらの上に留まる。ということはさ、乃蒼は確かにここにいるんだよ。間違いなくね」

「あっ、そうか。それはそうだよね」

「ただ、わからないのは、乃蒼の姿が見えているのが、僕と朝香だけであることだね。これはなぜか?」


 うん、と乃蒼が真剣な眼差しで頷いた。


「意志がある者には、見えたり見えなかったりしているんじゃないかなって」


 乃蒼が「あ」と声を上げた。僕と同じことに気付いたのかもしれない。


「私の姿を、見ようと思っているか。あるいは、私のことを知っているかが影響している、とか?」

「そういう可能性はあるね」


 もちろん、これはただの憶測にすぎない。だが、今乃蒼の姿が見えているのが、彼女の親友であった朝香と、これは恥ずかしくてとても言えないが――彼女に想いを寄せていた僕――であることからそう言えるのだ。


「だから、乃蒼は幽霊なんかじゃないんだよ!」


 うん、と笑みを作りかけて、しかし、頬笑みは彼女の顔に広がることなく消えた。儚く消える幻のように。


「でも、知っている人以外から認識されないなんて、死んでいるのとあまり変わらないみたいで少し悲しいけれど」

「いや、それは……」


 乃蒼は一度死んでいるんだから仕方ない。それでも、こうしてまた会えたんだからそれだけでも奇跡じゃないか。

 そう言いかけて口を噤んだ。それはあまりにも無神経な言葉だ。


「立夏の思いの強さが、私の存在を支えている……とか?」

「そういう可能性もあるのかな?」

「立夏が私のことを、ずっと認識してくれていたらいいな……。それとも、いつかは忘れられて、私の姿が見えなくなってしまうのかな」

「そんなわけない。僕は忘れないよ。こうして、乃蒼に触ることだってできる」


 勢いで手を握ってから、とんでもないことをしていると気付いて、慌てて手を離した。


「ご、ごめん」


 ところが、元の位置に直そうとした手を、乃蒼のほうから握り返してきた。


「じゃあ、証明してみせて。私のことを忘れないって。ちゃんと見えているって」

「ど、どうやって? いや、ちゃんと見えているってば」


 他人に自分の姿が見えていないとわかり、自暴自棄になっているのだろうか。


「じゃあ、キスしてみてよ」

「えっ!?」


 予想外の台詞に、驚愕して大きな声が出た。キス? 僕が乃蒼と? それはさすがにまずいだろ。


「私が確かにここにいるんだってこと、証明してほしいの。私のことを大切に思っているってことを証明してほしいの」


 乃蒼の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。……ああ、もう! そんな目で僕を見るなよ。


「いや、証明っていったって……」


 キスをしたらそれが証明になるのか? いや、その理屈はどこかおかしい。


「どうせ他の人からは見えていないんだし、平気でしょ? それとも、私とキスするのは嫌かな……?」

「嫌だなんて、そんなことはあるはずない」

「じゃ、証明してみせて」

「……本気?」

「私はいつだって本気だよ」


 乃蒼が唇をきゅっと結んだ。その瞳は真剣そのもので、茶化そうとか、からかってやろうとか、そういった意志は微塵も感じられない。ただ、まっすぐに僕の目を見つめていた。

 唇はふっくらとしていて、血色の良い赤で。幽霊かもしれないとは微塵も思わない。

 乃蒼が瞼を閉じた。顎が少しだけ上がる。そんな顔をされたら、嫌だなんて言えるはずがないじゃないか。それに僕だって男だし、そういうことに興味がないわけじゃないし……。

 乃蒼の唇に、顔を少し寄せた。ぎこちなく、乃蒼が僕の手に指を絡めてくる。心臓が早鐘を打っていた。

 あと少しで唇と唇が触れ合うというところで、まるで見計らったかのようにガシャーーーーーン、と何かが割れる音がした。

 ショーウインドウを突き破って、店内に車が突入してきたのだ。

 悲鳴がいくつも上がる。車の前方には親子連れの客がいた。パニックになってアクセルを踏み続けているのだろう、車は止まることなく親子連れに向かっていく。

 母親は驚いて逃れたが、小学生くらいの男の子が逃げ遅れている。

 間に合わない――轢かれる!

 惨劇の光景を予感して、顔をそむけようとして――。


「ダメ!」


 乃蒼が僕の手を振り解いて立ち上がる。手を伸ばし、男の子の襟首をつかんで引っ張った。

 間一髪、男の子の鼻先を車の車体がかすめていく。強く引きすぎたせいでよろめいた乃蒼の体を、僕が抱き留める格好になった。そのまま二人で尻もちをつく。

 車は店の奥の壁にぶつかってようやく止まった。

 凄まじい事故の状況に、店内は騒然となった。倒れたテーブルや椅子が散乱していて、ガラスの破片が床一面に散らばっていた。店員たちが血相を変えて車の運転席に向かう。

 何が起きたのかわからない、という顔を男の子はしている。乃蒼が男の子を解放すると、まっすぐ母親のほうに駆けていって抱きついた。誰からも、乃蒼の姿は見えていない。間一髪、男の子が車から逃れ、ぶつかられた僕が尻もちをついたようにしか見えていないのだろう。

 僕の腕の中で乃蒼が震えていた。肩幅は狭くて、腕は華奢で、力加減を間違うと、割れてしまうガラス細工のようだった。

 僕に背中を預けたまま、乃蒼が力なく笑んだ。助けられて良かった、と。


「無茶しないでくれよ。一緒に車に轢かれていたらどうするつもりだったんだ?」

「でも、救えた」

「結果論だよ。そんなの」

「いいんだよ。最高の結果になったもん。それに、私は一度死んでいる人間なんだから、これくらいわけないよ」


 乃蒼は口角を少し上げる。強がりだ。額には玉のような汗が浮かんでいるし、引きつったその顔は、無理に笑っているようにしか見えない。本当は怖くて震えているのに、僕を心配させまいとして気丈に振る舞っている。


「怪我はない?」

「大丈夫。どこも痛くないよ」

「良かった。お願いだから、こんな無茶はもうしないでくれ」


 うん、と頷いて、乃蒼が嬉しそうに目を細めた。

 そのとき、一瞬だけ乃蒼の姿が薄くなった気がした。

 びっくりして、目をこする。乃蒼の姿は、もう薄くなってはいなかった。気のせいだったのだろうか。


「どうかしたの?」

「いや、なんでもない」


 救急車のサイレンの音が、近づいてきていた。


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