【見えていること、証明してみせて(1)】

 味噌汁の香りで目が覚めた。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、床の硬さが背中に響く。不快さに身をよじると、背中が軽く軋んだ。そういえば、昨日は床で寝たんだったな。


「乃蒼?」


 ベッドを見ると、彼女の姿はない。視線を巡らせると、キッチンに立つ乃蒼の背中が目に入った。昨日、パジャマ代わりに貸したロングTシャツとスウェットを着ている。どうやら朝食を作ってくれているらしい。

「遅いよ。いつまで寝てるの。もう七時だよ」


 少し不機嫌そうな声。乃蒼がそこにいることに、密かな安堵を覚える。昨日の出来事が夢じゃなかったと、心底ホッとした。


「大学は?」

「今日は行かなくていい」


 それに、今日は何か他にやるべきことがきっとある。虫の知らせみたいなものだ。


「単位、大丈夫なの?」

「余裕。計画的に取っているから。こう見えて、僕は要領がいいんだよ」

「要領がいいなら、こんなに部屋が散らからないはずだけど?」


 洗濯物が山のように積まれた一角を見て、乃蒼がぼやいた。その隣には、空になったジュースの缶が転がっている。お世辞にも片付いているとは言えない。

 大丈夫。片付けようと思えば一日で片付く。片付けようと思わないだけで。


「人によって、片付けられるキャパって違うんだよ」

「キャパの問題じゃないよ。……もうすぐご飯できるから、着替えて顔洗ってきて」

「はいはい」


 呆れられたな。

 もぞもぞと布団から這い出し、洗面台の鏡に向かう。昨日、乃蒼にも指摘されたけど、鏡に映る顔はやぼったい。伸びた前髪が目を半分隠し、無精ひげが鼻の下から顎までを覆っている。まるで手入れの悪い庭みたいだ。

 くしとドライヤーで髪を整え、カミソリでひげを剃る。

「やればできるじゃん。かっこよくなったよ」と後ろにきて乃蒼が笑う。

 好きな女の子の姿が鏡に映って、心臓が跳ねたことには気付かないでほしい。


「いただきます」


 テーブルを囲み、二人で唱和した。並んだのは白米、味噌汁、豆腐とほうれん草のおひたし、焼き鮭、卵焼き。シンプルだけど、どこか懐かしい朝食だ。


「和食が恋しいかなって思って、和風にしたよ」

「ありがとう、乃蒼。うん、美味しい。料理上手かったんだね」


 味噌汁の塩気が寝起きの体にちょうどいい。絶妙だ。


「私のこと、なんだと思っているの? 一人暮らししてたら、これくらいできるよ。立夏は自炊してる?」

「していません……」

「だよね。昨日、お米の買い置きがほとんどないなと思ったもの。あの美味しいお米を、実家から送ってもらえばいいのに。なんだっけ名前、佐賀県産の、えーと」

「夢しずくかな」

「そう、それ!」


 夢しずくは、ほどよい粘りとしっかりとした食感が特徴の佐賀県のブランド米だ。うちの実家でよく食べていたやつだ。

 食べ終えて、皿洗いくらいはと手伝おうとすると、「いいよ、大丈夫」と乃蒼にやんわりと断られた。


「居候なんだから、これくらいさせてよ。本当なら、もっと別の何かでお返しすべきなのかもね。たとえば……体とか?」

「バカ言うなって」

「でも、興味くらいはあるでしょ? そういうことに」

「そりゃあな。僕だって男なんだし」

「だよね。……でも、昨夜一緒にいても何もしてこなかったじゃん。立夏って、意外と意気地なし?」

「そういうんじゃないよ。普通だろ、それ」


 男をなんだと思ってるんだ、まったく。


「そっか。普通か」

「そうだよ」

「ふーん。私はちょっとドキドキしてたんだけどな?」

「いや、めっちゃ気持ちよさそうに寝てただろ」


 心にもないことを。乃蒼の軽いからかいに僕の心はしっかり乱されているのだが、そうだとは夢にも思っていないのだろう。乃蒼の首筋と鎖骨のあたりにできる陰影が、煽情的で目に毒だった。


「なんてね。ごめん、からかっただけ。もし手を出されてたら、ちょっと幻滅してたかも」

「なんで?」


 乃蒼は華奢で、胸も控えめだ。それを気にしているのか? 幻滅なんて、ありえないのに。


「だって、昨日から下着替えてないし。もしかしたら匂うかも?」

「……あ」


 そうだ。朝香から服は借りられることになったが下着はない。そのことを失念していた。サイズの合わないロンティーが、彼シャツみたいで可愛い、などと浮かれている場合じゃなかった。


「やっぱり? 匂う?」乃蒼が自分の腕をすんすん嗅ぐ。

「いや、大丈夫。ぜんぜん臭くないよ」


 むしろ、いい匂いだった。女の子ってこんなにいい匂いするんだ、って驚くくらい。


「買い物、行こうか」

「うん、そうだね」


 それ以外にも、確かめたいことがあった。家の中じゃわからないことだ。


   *


 着替えて、近場のショッピングモールへバスで向かう。

 ボーダー柄のカットソーの上からシャツを着てボトムはジーンズだ。意外にセンスいいのね、とは乃蒼の談。ほっとけ。彼女は着替えがないから、昨日と同じ服のままだ。

 七階建てのショッピングモールに着き、バス料金を二人分払うと、運転手が怪訝な顔をした。昨日から薄々感じてたけど、ひょっとして乃蒼の姿って他の人に見えてない……?

 店内に入って、はたと困る。


「なあ、もし乃蒼の姿が他の人に見えてなかったら、下着売り場に入るのってまずくない?」

「うーん……どうなんだろう? やっぱり見えてないのかな?」


 試してみないことにはわからない。レース生地の派手な下着が並んでいて恥ずかしい、と思いながら二人で下着売り場に入っていくと、一人の女性客がぎょっとした顔をした。悲鳴を上げられる前に退散した。


「なあ、絶対見えてないよ、これ」

「だよね……店員さん、怪しい人を見る目でこっち見てたもん」

「正しくは、こっちじゃなくて僕だね。勘弁してくれ……」

「なんというか、透明人間にでもなっちゃった気分。透明人間になったらしてみたいことの第一位は、男が『女湯を覗いてみたい』なのに対して、女は『好きな人のストーカーをしたい』なんだって。……そっか、女湯を覗き放題……」

「乃蒼は女の子なんだから、透明じゃなくても覗き放題だろ」


 そうやって人をからかうの、ほんと勘弁してほしい。

 下着は店で買うのを諦め、通販かコンビニでどうにかしようと決めた。

 次に向かったのは女性用の洋品店。朝香だけをあてにもできないので、何着か用意する。こちらは、恋人への贈り物なんですよ、という空気を醸し出しておけば変態扱いはされないだろう。

 乃蒼は、黒のワンピースと、赤のブラウスと、それに合わせたショートパンツとスカートを選んだ。


「ねえ、立夏。これどう?」

「いいんじゃない?」

「ちゃんと見てよ」


 ワンピースを体にあて、乃蒼がくるりと回る。その仕草があまりに可愛くて、心を奪われた。「……可愛いよ」と、つい本音が漏れる。

「どうせ服が、って言うんでしょ? ま、いいや。じゃあ試着してみるね」とワンピースを手に乃蒼は試着室に入っていった


「立夏、どう? 似合う?」


 カーテンが開き、ワンピース姿の乃蒼が現れる。


「うん、めっちゃ似合ってる」


 本当に似合っていた。普通の人間じゃないかもだなんて、信じられないくらいには。

「そう? じゃあこれにしようかな」と嬉しそうに笑うので、白のほうが好みだけど、という頭に浮かんだ本音は飲み干して、この服を購入する流れとなった。

 ここでとある実験をしてみることに。

 周囲の反応を見る限り、乃蒼が身に付けている衣服はおそらく他人から見えていない。この仮説通りなら、乃蒼が触れた物は見えなくなることになる。

 もし服や下着が宙に浮いてるように見えたら……シュールすぎる。

 いや、ちょっと見てみたい気もするけど。ダメだ、変態みたいじゃないか。


「なんか、気持ち悪い顔してる……」


 乃蒼が蔑むような目で僕を見る。


「何だよ、エロいことなんて考えてないぞ」

「本当かな? どうせ胸とか見てたんでしょ?」

「み、見てない。断じてそんな目でなんか見ていない」

「目、泳いでるよ」


 女の子って鋭い。いや、自分で墓穴を掘っただけの気もするが。

 実験の方法はこうだ。乃蒼に服を持たせてレジへ。彼女がレジに服を置く。もし乃蒼が触れている間だけ物が見えなくなるなら、突然服が現れたように見えるはず。

 緊張しながらレジへ向かう。僕の表情が硬いせいか、店員さんが訝しげにこちらを見ていた。乃蒼が服をレジに置いた瞬間、店員の目が丸くなる。

「え、え、え?」声にならない声を上げている。


「あの、これお願いします」

「あ……はい。ありがとうございます……」


 服を袋に詰める間、店員はずっと僕を疑いの目で見ていた。仮説は正しかったらしい。

 乃蒼が触れている物のみ、他人の目から見えなくなる。

 ということは?


「なあ、乃蒼。ここでちょっとハグしてみない?」

「お腹空いたな~。お昼、何にしよっか?」

「おい、乃蒼さ~ん?」

 

 わざとらしく無視された。歩き出した乃蒼だったけど、すぐに足を止める。


「あれ? 立夏の服に私が触ったら、それも見えなくなるのかな?」


 手をわきわきさせながら、乃蒼がにやっと笑う。


「どうなんだろう?」

「試してみる?」

「……いや、やめとこう……」


 これ以上、変な目で見られたくないからな。

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