第一部 一年目
第1話 第1節 エルフと風で飛んじゃう定時の音
コーン、と、街の中心にある鐘が鳴るのが聞こえた。定時だ。
街のシンボルが出す割には風で飛んじゃいそうな音だけど、わたしにとってはこの一年で一番緊張感のある響きだった。
勝負は一瞬。
わたしはそさくさと机の上の書類や小物を片付けると、鞄を手に立ち上がった。
「お疲れ様ですー」
努めて普通に、さりげなく、地味に、平常心で、帰ろうとした、けど……。
「あ、ちょっと、リアちゃーん! 待って待って!」
おっとり伸びる声に捕まってしまった。なんて大きくはきはきした声なんだろう。これじゃ、聞こえないフリもできない。
わたしはなんの心当たりもないような顔をして振り返った。
「な、なに? ルヴさん……」
「もー、今日に限ってすーぐ帰っちゃうんだから。ほらほら、ここに座ってね」
わたしの仕事上の世話役であるルヴさんは、腰まで綺麗に編み上げた髪をふりふり、楽しそうにわたしの手を取ると、手近にある椅子に座らせた。他のお姉さま方も立ち上がって、浮足立ったようにコソコソし合っている。
まるで、なにかサプライズが待っているような雰囲気だった。
今年も逃げられなかった──わたしは上辺はドキドキの表情を浮かべつつ、内心では「はやく終わって……」と思いながら、鞄を膝で抱いていた。
やがて、大きなお皿を持ったルヴさんが、ものすごいニコニコした顔でやってくると、満面の笑みで言い放った。
「ということで、今日はリアちゃんのお誕生日で~す!」
リアちゃん、おめでと~! と拍手が起こった。
わたしの前にルヴさんがお皿を置く。立派なフルーツパイ。きゃ~~おいしそう! と周りから嬌声が立った。
わたしは驚いたふりをして、笑って見せる。
「あっ……そ、そうだった。忘れてた。あ、ありがとう……嬉しい」
もちろん、今日が私の誕生日だってばっちり覚えていて、だから気づかれない間にしれっと抜け出そうとしていたんだ。
だけど、失敗だった。もう既に、わたしの頭にはお祭りみたいな三角帽子が載っていて、縁起良く紙吹雪がぱらぱら舞っている。さっきまでみんな真面目な顔して働いていたのに、一瞬でパーティみたいな華やかな空間になってしまった。
「はい、リアちゃん、あ~んしてね」
すでに切り分けてあったパイを、ルヴさんがわたしの口元に運んでくる。そんな子どもじゃないんだから……と拒むこともできず、わたしはおずおず口を開いた。
「むぐ……んーっ!」
口の中にパイの欠片が入ってくる。その瞬間、普段なかなか味わえないような濃い甘酸っぱさが口の中に弾けた。
「おいしい……!」
おいしさには逆らえず、思わず頬が緩んでしまう。
すると、周囲の人たちが見たいものが見れたというように、にっこりする。
「あら~、リアちゃん、とっておきのパイ、おいしいねえ」
「一週間前からじっくり仕込んでたやつなんだから~」
「あ、口元シロップ垂れてるよー。ふふ……そんないっぱい頬張っちゃって」
え、嘘っ、ていうか、頬張らせたのはルヴさんなんですけど!
なんて抗議も、ジューシーなパイで口がふさがっているせいでままならず、あぐあぐ言ってるうちに、あえなく口元をフキフキされてしまう。ついでに頭をなでなでされる。
「それでリアちゃん、今年でいくつになったの?」
なされるがままのわたしに、ルヴさんが両手を合わせて訊ねてくる。
わたしはごくん、とパイを飲み干すと、ちょっと恨みがましさを込めて言った。
「……三十二です」
そう、普通に大人も大人の歳だった。
本来なら、こんな子どもみたいな扱い、不当にもほどがある。
なのに、周りのお姉さま方ときたら──。
「あら~、もうそんな歳なのねえ」
「ちょっと前までおねしょ布団を干してたかと思ったら……」
「この前、初めて立ったのに、もうペンを握ってるんだからねえ~」
きゃいきゃいと色めき立っている。
わたしは静かに奥の歯を噛みしめる。なんて……なんて、屈辱なんだろう。こんな扱い、出るところに出れば、なんらかの法に触れるんじゃないの? と思っちゃう。
でも、仕方がなかった。
この部署にいるのは、わたしを含めてみんながエルフ──それも、平気で数百年と生きている人たちばかりなのだから。ルヴさんに至っては、七百年前の話を平気でしていたりする。ちゃんと聞いたことはないけど千年くらい生きていそうだった。
それに比べて、三十そこらのわたしなんか、ようやくよちよち歩きを卒業した子どもと変わらない。なのでもう、どうしても可愛くて仕方がないんだとか。
確かに、人間で同じ年の女の子に比べれば幼く見えるかも知れないけど……それでもだよ?
「はい、リアちゃん、あーん……ふふ、おいしい?」
「リアちゃん、いつもお仕事頑張っててえらいね」
「ほら、お酒もいっぱい飲んでいいのよ」
「よしよし……髪もさらさらで本当に可愛いね、リアちゃん」
恥ずかしすぎる。辛い。
三十年以上も生きてもまだ、こんな子ども扱いされるなんて──。
お姉さま方がわたしのことが好きで、可愛がってくれているのもわかる。
だけど──わたしはもう、嫌だった。
なんだか、ひとりのエルフだって、認められていないような気がして。
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