前編

8月7日

「ねぇ…」


声が聞こえる。


「ねぇってば…」


女の子?らしい透き通った声だが聞き覚えはないような、そんな気がする。


「起きてるでしょ?もう」


視界はただ、白で覆われていて、その中で声だけが鮮明に鼓膜に届く。


「うーん、どうしたら起きるのかなぁ」


指先を動かすと、少し感触があった。これは……土?いや、もっと乾いた感触だ。サラサラとしていて、でも少し湿っている。


「あ、そういえば!」


ザッザッ、と遠くへ走り去るような音が聞こえる。

ヒュオオと微かに耳の横を風が通り抜けていく音。時間と共に、女の子の声以外にも周りの音も聞こえてくるようになってきた。

意識を覚醒させる準備を整わせるかのように、だんだんと身体に感覚が戻ってきている。


指に触れてるのは……砂?


「いい感じのっ、見つけた!」


感覚がどんどん澄まされていく、砂の粒が腕にくっついてザラザラするあの嫌な感じが腕にある。

眩しい、太陽の光が瞼越しに差しているのを感じる。

ジジジジジと鳴く油蝉や、甲高いコチドリのさえずりが鼓膜を震わせる。


「よいしょっと!」


空気がおいしい、自然の匂いだ。

ザザーッ、と波の音が聞こえる。どうやら、ここは海岸らしい。

それを認識し、俺は目を開けて目覚め……


「えいッ!」


突然、前頭部に強い衝撃が走る。


「いっっっで!!!!!!!」


起こしかけていた上半身は時を戻すかのように、元通りに砂浜へと着地した。


「あれ…?」


目の前の違和感に気づいたように、女の子が疑問の声を漏らす。


「うっ…」


常識外れの彼女との出会いは、運命的で、文字通りに衝撃的な出会いだった。




「大丈夫?」


そう言って彼女は俺の額に触れ、心配そうな表情を見せた。


「ああ、だいじょ、ってこれは完全に君のせいだと思うんだが」


「あはは、大丈夫そうだぁ」


流木を持っているままの、目の前の金髪の彼女は柔らかく笑う。


容貌は年相応に幼い顔立ちで、でも成長期を終えた大人らしい雰囲気も混ざりかけているような、端的に言ってしまえば美少女である。


綺麗な透き通る金髪は、染めているような金髪ではなく自然な髪色で、これを表現するならはちみつ色だろうか。それが腰のあたりまで伸びている長髪。


純白のワンピースに包まれたその容姿はまさに天使のようで、触ったらすり抜けてしまいそうなほど儚いものだった。


喋り方もそれを形容するかのようにふわふわしている。


「ここは…」


「わたしもここがどこかは知らないけど、気づいたらここにいてね、あなたが隣で寝てたんだよ。私が先にに起きたから起こしてあげたんだ!」


ふむ、起こし方を間違えている気がするが……。それはさておき、俺は会話を続ける。


「なるほど…、そういえば君、名前は?」


「名前?うーん、それも知らないよ!」


「知らないってなんだよ、俺は……あれ?」


いざ自分で言葉にしたときにやっとそれに気づく。自分の名前が出てこない。思い出せないというより、記憶にそもそも存在してないみたいな。


「あなたも知らないの?じゃあおんなじだね」


この感覚は知らないとは少し違う気がする。その部分がごっそりと欠落しているかのような、中身が空っぽのシュークリームみたいな。脳が喪失感に襲われる。


名前以外に何が思い出せないんだ、ここは、海に面した浜。埠頭が向こうに見える、見覚えは……ない。

とりあえず俺は多分日本人だ、一般常識はあるし文字も頭に浮かぶ。

あとは、日付、今日は何年の何日だ?これは、思い出せないな。


家族構成、両親は、……これも無理だな。思い浮かぶ言葉とそれを指すものはわかるのにその詳細が思い出せない。


住んでいたところ、学校、もしくは職場、何一つ言葉そのものに不具合はないはずだが、それを具体的に自分に当てはめて指すものが脳に浮かんでこない。

なんだか脳の中で空欄だらけの自己紹介カードでもできているかのようだ。


「ぇ……ねぇ、聞いてる?ねーぇ」


おっと、忘れていた。こいつも多分同じ状況なんだよな、見る限りは。


まだ流木を持っている彼女に目をやる。「聞こえてますかー?」なんて言いながら彼女はそれをブンブンと振っている。


「ん?あ、あぁ、なんだって?」


「名前、ないんでしょ?じゃあ決めちゃおうよ、わたしたちの」


こういうときってまず自分のことを知っている人を探すのが先なんじゃないのか……?。


「いや、まあいいか。なんも思い出せないし。

いいよ、どんな名前がいいかな」


「わたしはぁ、お花みたいな名前がいいなぁ。可愛くて女の子っぽい!」


花か、と思いながら彼女を眺める。白いワンピース、この形になんだか見覚えがある、なんだっただろう。


白い花……ああ、鈴蘭。


鈴蘭?このままだと名前っぽくない……か、


「すずはどうだ?」


考えると同時に、そのまま口に出てしまった、我ながら名付けが雑すぎる。


名前ってもっと意味とか気持ちがこもった名前の方がいいんじゃないのか?なんて思ったり、思わなかったり。


「んー?それがいいの?お花……?」


「う、うん。

なんか白いワンピースが似合ってるしそういう華憐な名前が似合いそうだなって」


砂浜に平仮名で『すず』と書きながら彼女に振り返る。


「んーん。あなたが考えて決めてくれた名前ならなんでもいいよ。うん、気に入った!わたしはすず!よろしくね」


「ああ、よろしく」


「じゃあ、あなたは汐音ね」


数秒も跨がずに、彼女は俺が書いた『すず』の文字の右隣に『汐音』と漢字で書いた。


「なんかその名前、女の子っぽくないか?」


「そんなことないよ、かっこいいよ!」


「なぁ、す、すず」


自分の付けた名前を自分から呼ぶのってなんだか恥ずかしいな、慣れなければ。


「なあに?」


「俺たちどうすりゃいいの?」


目下の問題はこれだ、警察にでもいけば身元でもわかるのだろうか。しかし、そもそもここがどこなのかすらわからない。


ただ、それ以上に、自分のことをあまり詮索したくないような。なんとなくそう感じてしまっていた。


「とりあえず、どこかに行ってみよう!なんにもわかんないし知らないし、なにか問題が起きたら起きた時に考えようよ」


「それも、……そうか」


確かにここがどこかすらも知らない俺たちには、考えて行動したところでうまく行く道理はない。


俺たちは海を背にしてコンクリートの堤防の方へ向かった。と、


「「って、あっつ!!」」


早速問題が発生した、俺たちは靴を履いていなかったのだ。


流木を踏み台にして、なんとか砂浜からは脱出する。

二人はすぐさま堤防の横に乱雑に生えている草むらに着地した。


「ここから道路だぞ、どうすんだこれ……」


目の前の道路はアスファルトで、向こうからトラックが1台やってきているのが見える。歩道はなく、車通りは少ないようだ。


「葉っぱを足に巻いて、……とか?」


「どこまで持つのかな、それ」


すずが怪訝な顔をする。

とりあえず、いい感じの大きさの葉をこの辺りから拝借して……。


「あ!!!」


探している真後ろで大声がした、向こうから来ていたトラックが自分たちの真横で止まっていた。

運転席には、無精髭を生やしたつなぎを着たおっさん。助手席には、俺たちより少しばかり年下に見える少女。

大声を出したのは少女の方だった。


「あの、私のこと、わかりますか?」


真っ先にトラックから降りた茶髪の少女がすずに話しかけていた。


「え?誰?」


無情か、躊躇いも迷いもなく、すずはそう答えた。


「そ、そうですよね……、そんなわけ」


「わたしのこと知ってるの?」


「いや、ごめんなさい。多分、人違い、です。そんなわけないと思うので」


詰まり気味にその少女が答えながら目を逸らす、何か事情でもあるのだろうか。


「わたしに似た人がいたってことかなぁ」


その言葉を聞いて少女は目線を戻しながら小さく答えた。


「……、姉に」


「よかったじゃん」


俺は立ち上がってすずの方に歩いてそう言い、肩に手をかけながら続ける。


「こいつ記憶喪失みたいでさ、名前すら思い出せてないんだ。何があったかは知らないけど」


「違うんです!!」


少女は突然、吐き捨てるように声を出した。


「何がちが」


「姉は、……死んだんです!2年前に」


後ろで黙って聞いていたおっさんが、少女の横まで近づいてくる。


「よくわからんが、その子、記憶喪失で、しかもお前ら二人とも裸足で……。なにか困っているんだろう?

多少面倒見てやるから、話はあとでしないか」


「あの、俺も記憶喪失なんすけど……」


「空いてねぇから二人とも、荷台の方に乗れ」


俺の情報はスルーされたようだ。




俺はタイヤに足をかけ、荷台に先に乗って、すずを荷台に引っ張る。冷たく細いその腕に触れることは、異性を意識し始めたこの頃の少年にとっては気恥ずかしさがあった。


小型のトラックで荷台にはみかんとかかれた段ボールが積まれていて、その隣にクーラーボックス。


クーラーボックスは大きく肩にかけても重そうなくらいだ、勝手に開ける勇気はないので当然中身はわからない。

他には、段ボールに野菜が入っているのが見える、


荷台の前側に背を向けて俺たちはトラックに腰かけた。


トラックのリアガラスからは、助手席の少女が乗り出して不安そうにこっちを見ている。この少女は何を思って俺たちを見ているのだろう。


ふむ、荷台に乗るのってよくなかった気はするのだが、まあ乗らせてもらっている手前そんなことを気にしている余裕はない。

トラックはすぐに発進した。


キャビンの真後ろの部分だからか風がまったく当たらない。暑すぎる。


荷台の床面は段ボールが敷かれていて少し生ぬるいような、ところどころに細かく土がついていて、ざらざらした感触が直接足に伝わる。


「ねぇ、」


すずがどうやらこちらを見ていたようだった。


「わたしってほんとにあの子の姉なのかな」


「知ってるか?この世には同じ顔のやつが3人」


なんだか少しだけ聞いたことのある、ドッペルゲンガーの話を出してみる。


「そっくりな顔の人はいても全く同じ顔の人はいないんじゃないかな?」


「それは、まぁ、そうかもしれないな」


「だったら家族なら似てる人との違いくらいわかるんじゃない?」


「でもあの子2年前って言ってたし、2年も経ってれば曖昧になっちまうのもしょうがないんじゃないか?」


「そうなのかな」


「どうしたんだよ、いきなり不安になったのか?」


俺はつきさっきまでこいつを心の中でノンデリ天然少女だと思ってたのだが……。


「だって、死んだ人にそっくりだなんて、なんか嫌だし」


「それは亡くなった人に失礼じゃないか?」


「それもそうだね、ごめん」


謝る相手は俺じゃない気がするが。


「海見て、ぼーっとしとこうぜ。問題は起きた時に考えるんだろ?すずがそう言ったんじゃないか。

じゃあ今別に考えなくてもいいだろ。

答えは時間が教えてくれるよ、多分」


「うん……」


見渡す限り海がずっと続いていて、太陽の光が反射して進むたびに光り方が変わってチカチカと目を眩ますようだった。


ところどころさびれたように砂浜には草が生い茂っていた。その雑草は整備された様子もなく、縦横無尽に生え、長く砂浜に誰も訪れていないことを示すように見えた。


視界の先、海の沿いにずっと道路が続いていて、反対側には木々や、畑が広がっている。

畑には夏らしくトマトが実っていた。真夏の太陽が反射してその実った深紅の果実は輝いているようだった。


目に入ってくる情報全てが綺麗で、自分の置かれている状況に反して心を湧かせるようだった。


俺たちはずっと無言で、その景色を眺めていた。




トラックは横道に入り、木々がはみ出す坂道を下っていた。


暫く木々が続き、また畑が見える。なにも植えられていない畑ともう誰も使っていなさそうな倉庫が見える。


それから家が見え始めた。築何年だろう、古い瓦の木造らしき家が数軒、ぽつぽつと見えてくる。窓が割れていたり住んでいる様子が見えない家もあった。


木々が開け横からその景色が開かれる。


そこには少し物静かな町が広がっていた。マンションやオフィスビルなんて、そんな建物は一切見えず、瓦屋根の家々が立ち並んで見える。


来たことがなくても懐かしさを覚えるような、田舎の港町の景色といったところだった。


家が両側に並ぶ道に入っていく。


道は整備されていたが車がやっと一台通っていける程度の幅で、都会にあるような整った十字の道はない。


通っていく間、家を何十軒も見たが人の様子がほとんど確認できなかった。


いくつかは風鈴が飾ってあったり、庭がきちんと手入れされていたが、3割ほどの家は空き家のように風化したような家だった。


その道を進んでいき、曲がってすぐの家の前でゆっくりとトラックは止まる。


「ついたぞ、降りろ」


おっさんが運転席からそう呼びかけてきた。目の前の家がこの人たちのものらしい。


「降りようか」


「うん」


俺は先に降りてすずを受け止める。

そうすると、助手席から少女が降りてきてこっちに向かってきた。


「雪華、お父さん隣にトラック止めてくるから、先にその子ら入れてあげといてくれ」


この少女は『せつか』というらしい。

てかお父さんだったのか、おっさん。考えてみれば結構当たり前の光景ではあるのだが、あまり風貌がお父さんらしくないというか。


「えっと、よろしくな」


と俺は手を伸ばした。


「……うん」


あまり気乗りしてないように顔を逸らしながら、不機嫌そうに雪華は握手を交わしてくれた。

うーん、人見知りなのかな。


「わたしも、よろしくね」


意を決して俺に続いたすずが手を伸ばしたが、迷ったように雪華は手を引っ込めてしまった。


「あれれ……」


そのまま雪華は気まずそうにそそくさと、塀の門から玄関の方へと足を伸ばしていった。

手を伸ばしたまま、餌を取られたチワワのような表情でこちらを見てきた。

この世界が漫画なら、すずの頭の右上あたりに「クゥーン」なんて擬音がついていることだろう。


「こんな短時間で嫌われちゃったのかなぁ」


「多分、違うと思うよ」


まだ心の準備ができてないだけ、そう思う。


「あの、どうぞ」


雪華が小さい声でそう言いながら引き戸の玄関を開けそこに待っていた。


「今行くよー!」


すずは真っ先に駆け出し、その元に走っていく。随分と元気なやつだ。

俺もその後を駆け足で追った。




「えっと、こっちが客間なので、ここに待っててもらっていいですか」


「あの!!」


すずがいきなり手を挙げた。


「な、なんですか」


「トイレどこですか!!」


ほんとに元気だなこいつ!!


「えっと、廊下を進んで曲がったところの扉に」


「わかった!ばいばーい」


呑気過ぎるのでは。すずはこちらに小さく手を振りながら、客間を出て行った。


「ありがとな、俺まで上がらせてもらって」


「いえ、二人とも記憶喪失なんですよね。でしたらそんなこと気にしてる場合じゃないと思います」


「あ、敬語使わなくてもいいよ。というか状況的には多分俺の方が敬語使うべき立場だし」


「いえ、年上の方なので」


「そ、そうか」


「……」


少し距離を感じてしまう。出会ってから間もないから仕方ないことではあるのだが。

しばらくの沈黙を破ったのは雪華の方だった。


「あの、二人はいつ会ったんですか?その様子だと私達以外に人に会ったことがなさそうな……」


「つい30分?40分前くらい?俺たちはあそこの砂浜で目が覚めたんだ。名前もその場でそれっぽく決めたんだ」


「え、」


驚くのが当然の反応である。自分も未だにわけがわかっていないのだから。


「先にあいつ、すずって名前で呼んでるんだけど、あいつが目覚めて横で寝てた俺を流木でぶっ叩いてきたんだ」


ええっ、と雪華が少し驚いたように笑う。


「だ、大丈夫だったんですか、それ」


「いや、痛かったなぁあれは。ゲームの世界だったらクリティカルって出てKOされてる。

せっかく目が覚めるところだったのに、即刻ログアウトさせられるところだった」


その言葉を聞いてまた少し雪華は笑った。


「会ってすぐにしては、二人は仲がいいんですね」


「まぁ初めて会ったのがあいつってか、その場にあいつしかいなかったわけだし

二人とも記憶喪失で、境遇が同じだったから、なのかな?」


単純に、あいつが人懐っこいだけかもしれない。


「でも、本当になんにも覚えてないんですか?砂浜に来る前何をしていたのか、とか」


「それが覚えてないんだよなー、なんでか抜け落ちたかのように全部記憶にないんだ。思い出せるような気もしない」


「そうなんですか、記憶が戻るといいですね」


「雪華さん、えっと雪華ちゃんは俺のことどっかでみたことあるみたいなことはない?」


「残念ながら、お役に立てずすみません」


「じゃあ、……」


一瞬すずのことを聞こうとしたが、やめた


「そっか」


と引き戸が開く。


「お、二人とも、女の子の方はどうしたんだ?」


「あいつなら、……お花を摘みに行ってます」


「そうか。そうだ、お前名前は?」


「本当の名前はわからないんですけど、汐音って今は名乗ってます」


「汐音か、じゃあ女の子の方は」


と廊下から、


「すずです!」


「すずって言うのか。にしても、本当に似てるなぁ。生き写しみたいな」


雪華に比べてなんとも思ってないように見える。


「おじさんは、あんまり姉に似てることに対して、気にしてないんですか?」


少しトゲがあるような言い方をしてしまったかもしれない。


「気にはなってるけど、別人なんだろ?あんまり人と重ねて見るのは失礼だと思うからな」


「それは、まぁ、そうですけど」


「それでお前らだが、警察にでもかけてみるか?多分それが一番早いと思うが」


現実的だ、例え自分の身元が見つかっても見つからなくても通るべき手段だろう。

でも、

「いえ、今は遠慮しておきたいです」


理由はただ、まだ自分のことを知りたくない。それだけだった。


「そうか、しばらくうちにいるといい」


おじさんは俺の気持ちを悟ったように返した。口ぶりからなんとなく俺たちのことを知っているように感じてしまった。


「すみません、お世話になります」


「お世話になります!!」


廊下でボケっと話を聞いていたすずも、そこでぺこりと頭を下げる。


「っと、今は……、2時過ぎか。うちにはとくになにもないし一旦お前ら外回ってみてきたらどうだ?町一人でも歩けるように知っておいた方がいいだろ」


「は、はい」


「雪華、まただがこいつらを連れてくれないか。店と、公園と、あと港くらいか?」


「う、うん」


「お父さん、少し休んで夕飯作っとくから」


「じゃあ、行きますか」


雪華ちゃんはこっちに振り向いてそう言った。


ここに来たばかりだがすぐに出ることになった。


玄関口で、


「そういえば、俺たち、靴ない」


「じゃあ、お姉ちゃんの靴いくつか残ってるので、その靴を貸しますね」


「いいの?」


すずがそう言った。


「ずっと置いてても意味、ないですから……」


「そっか」


とスニーカーを二つ出してきた。すずはピンク基調の、俺は青いストライプ線の入ったスニーカーを取った。


「少しきつい、けど履けるかな」


つまり、俺入らないのでは。

その通り、入らなかった。


「お父さんの靴、……はちょっと大きいですよね。じゃあ」


シューズのクローゼットが見える。引き戸で全部が丸見えになっていて目に入ってしまった。


中には左上におっさんのらしき大きい靴がいくつか、あとは右上にハイヒールや、普段使い用かスニーカー、左下にさっきのスニーカーと含めて3足ほど雑多に、右下には同じくらいのサイズの似た靴が4足並べてあり、だいたい4つの区域に分けてしまってあった。

と目当てを見つけたのかサンダルを出してきた。


「見つけました、これならサイズはあまり気にしなくていいはずです」


「おう、ありがとう」


誰のサンダルだろう?まあ余計な詮索はせずに履いた。


「これならいけるな」


「よかったです。じゃあ、出発です」


雪華ちゃんを先頭に、俺たちは後ろからついていった。

家をでてすぐ家の真横の道を挟んで少し向こうに公園が見えた。


「あそこが公園ですけど、もうあんまり使ってる人はいないと思います。遊具も錆びっちゃってますし、

たまに人は見かけますけど」


と公園を素通りしていく。


道なりに進んでいくと、頑張って車が4台止めれるほどか駐車場が見える。その奥に小さな店が見える。


「ここでお菓子とかなら買えると思います、あっちまでいくともう少し大きいお店はあるんですけど」


そう言いながら遠くの方を指さす。ここがどこなのかわからないから、あっちがどこなのかわからない。


「へぇ、いいとこだね!」


「そう?ですかね。

一応コンビニもあるんですけど歩いて行くとちょっと遠いです。もしどうしても欲しいものがあるならお父さんに車を出してもらったらいいと思います」


「ふーん、コンビニだったら何を買えるんだ?」


「うーん、文房具とか、ですかね?私はあまり行かないので」


「まぁまず何が足りてないかよくわかってないしその時考えるか」


「じゃあ次は港の方に出ますね」


道を左に曲がって、進んで行くと海とたくさん止まっている船が見えた。


「ここが港、まあ泊地です、多分そんなに寄る機会ないかもですけど。今は夏ですし、朝に散歩すると涼しいと思いますよ」


「そうなんだ!わたし朝散歩してみようかな!」


「でも、危ないので気をつけてくださいね、落ちたら冗談にならないですよ」


「わあ……汐音、落ちたら助けてね!」


「なんでお前が落ちる前提なんだよ、気をつけろって言ってんだろ」


「ねぇ、お父さんって漁師なの?」


「まぁ、そうですけど。うちはずっと漁師の家系なのでそれをお父さんが継ぐ形で」


「そうなんだ!凄いね!」


「凄い、んですかね。わたしは漁師がどんな仕事なのか知らないので語れないんですけど」


「凄いよ!みんなのために海に出てお魚を釣ってきてるんだから、誰にでもできることなんかじゃないよ。わたしできる自信ないもん!」


「そう、ですかね。そうかもしれないです」


今まですずと距離を取るように話していた雪華が、無邪気なすずに絆されてか、微笑えんだように見えた。


「ここから向こうにずっと続いてます、アスファルトの道にでて左に曲がったら、一周して家です。」


「みてみて!すぐそこに島があるよ!」


少し見上げるくらいか、港から少し離れたところに小さく島が見える。


岩肌に草木が生い茂っているようだ。


「あれは、正月とかにお祭り?えーっと、すみませんもうずっと、あんまり外出てないのであんまり覚えてないです」


「そっかー。また教えてね!お祭りとかわたし好きなんだ!」


「でしたら今度、確か8月の15日?でしたっけ、夏祭りがあったと思います」


「え!行きたい!15日っていつ?」


そう聞かれて雪華が斜め上を見ながら考える動作をする。


「えーっと、今日は7日の木曜日なので、来週の金曜日ですね」


「すぐじゃん!待ちきれないね!雪華ちゃんも一緒に行こうね!」


「私はいいです、行きたいのでしたら、二人で行ってみたらといいと思います」


「え!?俺も?別にいいけど」


「みんなでいこーよ、みんなで行った方が楽しいよ!」


「とにかく私はいいです、もし気が向いたらその時考えます」


「そっか、またお祭りあったらその時は行こうね!」


拒否され続けているのを感じるのか、空回りながらもすずの強引さがだんだん強くなってるように思える。


「すぐ回れちまったな、30分も経ってないんじゃないのか?」


「じゃあ避難路の方回りますか、山の上から見るとまた景色が違うと思いますよ」


港から少し戻って家が並ぶ道に戻る。左、右、左、道なりに進んで行くと、山を登る階段に出た。


「ここ上っていくんだね!競争ね!」


と言いながらすずがフライングして登って行った。


「俺は走らないが……って聞いてないし」


「ずいぶん、元気な人ですね」


「俺もそう思うよ、でも嫌がらせしたいとかじゃないと思うからあんまり邪険にしないでくれたら……」


「別に邪険にしてるわけじゃ……」


と言葉づまりに雪華が下を向く。


足を揃えて歩きながら階段を上る。


「雪華ちゃん、よかったら話せるだけでも俺に話してくれないか。知りたいこともたくさんあるし」


「知りたいこと…ですか」


「うん、顔立ちが似てるのだって、記憶がないのだってただの偶然なんて俺は思ってないからさ、あいつと俺が砂浜にいた理由も記憶がないことも自分で見つけてみたいんだ」


嘘は言っていない。

知ることが怖いと思っているのは事実。


だが、それは警察に行って雑に情報を見てしまって知りたくないかもしれない情報に殴られるくらいなら、自分の力で少しずつ気づいて、知って行って、受け入れたい、そう思っているからだ。


そこで、後ろからついてきていた雪華が階段の途中で立ち止まった。数段上にいた俺はそれに気づいて振り向いた。


「雪華、でいいです。話せる分だけ、話しますね。私もそんなに知ってること多いわけじゃないですし」


「うん、ありがとう」


「2年前の夏まで、私達は4人であの家で暮らしてました。


お母さんとお父さんと、お姉ちゃんと私で。世間から見れば別になんてこともない普通の家庭だったと思います。」


指を順々に折りながら、思い浮かべるような表情で雪華は話す。


「たまに旅行に出かけたり、お姉ちゃんとは3歳差だったのでそんなに学校では一緒にいる時間は多くなかったですけど、お姉ちゃんと私は陸上部で一緒に、こんな風に外に散歩に出たり、たまにこの町を一周する競争をしてたり、そんな日々だったんです。


お姉ちゃんは私にほとんど負けてました。運動音痴なのになんで陸上部に入ってたのかよくわかんなかったですけど、でもそんなお姉ちゃんのことが好きでした。


もういまいち、お姉ちゃんと遊んだこととかぼんやりしてて思い出せないですけど、

むしろ喧嘩した思い出とか、怒ったら凄く怖かったことばっかり思い出せちゃうんですけど、


それでもお姉ちゃんは私のお姉ちゃんで、好きだったんです。


2年前までは、ムカつくなぁとか、お姉ちゃんって私よりバカなんじゃないかなとか、あんまりお姉ちゃんのことよく考えたことなくて、


いつも世話焼きでくっついてくるし、その性格知ってたんで私もそれに付き合ってて、その時はむしろうざいなぁなんて思ってたかもしれないです。


でも、あの時お姉ちゃんと……と……を、見て、……」


「うん……」


「あんなにうざいなって思ってたお姉ちゃんにもう会えないって思ったら凄く苦しくなって、目にしたその時はもうなにも言えなくて。


家に帰るまではずっと苦しくて、何を考えていたのかも思い出せないです。


泣いたのは家に帰ってからでした。あの家の2階、あそこに私の部屋とお姉ちゃんの部屋があるんです。


でもお姉ちゃんの部屋を見たら、なんか、もう、


『なんで、いないの?』とか『なんでお姉ちゃんが?』とか、って言葉しか頭に浮かんで来ないまま、その日はずっと泣いていました。

……なんでなんですかね、お姉ちゃんと過ごした日々はそんなに思い出せないのに、お姉ちゃんが死んだって知った日はこんなに鮮明に覚えてるなんて」


「あとから、なんです。お姉ちゃんのことを尊敬していて、好きだったって気付けたのが、いなくなったあとで。


何もかもかもう遅くて、後悔しても後悔してもそんなことに意味なんてなくて、私はその日からずっと学校に行ってなくて、たまに友達が来てたような気がしてたんですけど、どうでもよくて、ずっと家にいました」


「だからあの人を見た時に一瞬嬉しくて、でも心はそんなわけないって思いながらあなたたちに話しかけたんです。なんとなく、話しかけなきゃだめだって思って。

勝手に話しかけたのに勝手に突き放して、ごめんなさい」


「うん」


俺の返事を聞くと、雪華は、少し俯いていた顔を俺の方に向けて、切り替えるようにハッキリとした口調で続けた。


「すみません、ちょっと自分視点の話ばっかりだったかもしれません。

えっと、……今の私が言えるのはここまでが限界です、あとはまた心の整理がついたら話します」


「いや、うん、話してくれてありがとう、俺は同情の言葉を言える立場じゃないと思うけど、今までよく頑張ったんだな」


「こちらこそ、ありがとうございます」


「もし、できるならすずにも、声をかけてあげてほしい」


「はい、あとで謝っておきます」


「よし、俺が始めちゃったことだけど、終わり!走って上ろうか!」


「はい、……


と言いかけて首を振り、雪華は言い直した。


「うん!」、と。


自分の真横まで階段を登って来た雪華は、こちらを向いて今まで見せてなかった笑顔を見せた。




上りきると、木のベンチにすずは座っていた。


風に長いワンピースはなびいて、綺麗だった。


このまま絵になるんじゃないかってほどに美しく、すずは自分たちには見えないなにかを見つめているような、いつもとは違う目をしていた。


とこっちに気づいてその雰囲気は一瞬で朗らかなものになった。


「もう、おそーい。おーそーすーぎー。ずっと待ってたんだからね」


「あ、あの、すずさん」


「ん?なあに?雪華ちゃん」


「さっきまで意地の悪い態度取っちゃってごめんなさい!」


「……ん?よくわかんないけど気にしてないよ!それより綺麗だね!ここの景色、教えてくれてありがとう!」


そう返すすずを見て、雪華の顔は満足さを見せるかのように笑みが零れていた。


「ど、どうしたの!?なにかわたしおかしかった?」


「お前がおかしくなかったことなんかないだろ」


俺がおどけて二人の間に入る。


「え、ひどい、わたし普通の一般女の子だと思うんだけどー」


「普通の人は自分のこと普通って言わないですよ」


雪華が、調子を取り戻した様子で会話に入ってくる。もう自分たちとの間にあったわだかまりはなくなったように感じられた。


「え、じゃあ普通の人はなんていうのさ」


「ここに普通のやつがいないとわかんないだろ」


「え!?私もおかしい人の一人に入れられてるんですか?」


「雪華ちゃんが普通の人の回答用意できなきゃ雪華ちゃんも、おかしい人だよ!」


「正解があったとしてそんなの誰が知ってるんですか」


思ったよりすぐに打ち解けて、ずっと俺たちはベンチに座って話していた。


~~~


「あのさ、わたしずっと思ってて、なすって夏野菜じゃない?なのになんで縁起のいい初夢を一富士二鷹三茄子って言うのかなって

三餅じゃだめなのかな、鏡餅がちょうど三段だよ!」


「俺考えたことなかったな、富士山は縁起良さそうな感じするけど、てかそもそも二鷹もよくわかんないし」


「なんでだろう、家に帰ったらまた調べてみようかな……」


気付くと日が暮れてきていて風もだんだん冷たくなってきていた。


「綺麗な夕日だねー」


太陽が山に隠れてきていて、辺りの空が黄昏色に染まってきている。


木の隙間を、そよそよと抜けてくる風が夏の暑さを少し紛らわせてくれるような。肌で自然を感じる、心が洗われていくような情景だ。


三人で夕日が沈んでいくのを静かに眺めていると、ふと、雪華が切り出すように言った。


「そろそろ帰らなきゃいけない時間……すずさん、汐音さん」


こっちをみて笑顔を見せる。すずもそれに呼応してこっちを見てくる。

少し嫌な予感がする……


「え、俺やだよ、歩いて帰るよ俺」


その声を聞いていないかのように俺の台詞を遮ってすずが言う。


「一番最後に帰った人は夕ご飯の準備ね!」


「え、えぇ…てか階段走って降りるの危ないって」


二人はもう聞いていなかった。走り出して階段を駆け下りていく。

はぁ……まぁここでの初仕事だと思えばいいか。

そう思いながら少し駆け足で、俺は先を行く二人を追いかけた。




家につくと玄関で、すずがバテていた。


「あんなに……、走ったのに……、二番」


息切れ気味にすずが言う。


「元陸上部を……、舐めないでください、こんな距離全然疲れません」


そう胸を張り、言いつつも、雪華の額には汗がにじんでいて、息も切れ切れだった。


「お前ら、仲いいな……」


この二時間くらいで、あの微妙な状態からよく持ち直したものだ。


「俺は夕飯の支度手伝うからお前らは汗でも拭いとけよ、そのままエアコン効いた部屋行くと風邪ひくぞ」


「はーい」「ん」


俺は廊下を通ってそのまま真っすぐ進んだ。


家を出る前少しチラっと見た時にこっちにキッチンがあることはわかっていた。


「おっさん、エプロン似合わないっすね」


もう使い古しているらしいピンク色のエプロン姿で卵焼きを作っていた。


「ん?生意気言うようになったな少年、外出て元気出たか」


「俺も手伝うっすよ、なにしたらいいっすか」


腕まくりをしながら俺が参戦。なんでもやってやる気迫で満ち満ちている。


「お前は魚、捌けるか?」


oh……、記憶喪失関係なく出来ない、知らない、わからない。


「えー、……無理です」


「じゃあ皿とか用意しとけ、ご飯は炊けてるからもうよそいでていいぞ。魚は、……まぁ今度教えてやるよ。

時間が余ったら、そうだな風呂洗っててくれ」


「おっさんは、さっきまでなにしてたんすか」


「さっきまでか?掃除が終わったあと、お前らが帰ってこないからテレビ見てたな」


「そ、そうすか、まぁ頑張るっす」


おじさんに、置いてある皿の場所を教えてもらいながら、指定された皿をとってそれを台所に準備していく。

傍目に見ていておじさんは料理の手際がよく、その姿は意外に見えた。


「この辺っすかね、お風呂ってどこっすか」


「トイレの扉の一つ奥だ、洗い方は流石にわかるよな?」


「っす、行ってきます」


扉を開けて、洗面所があり、その奥に風呂の扉があった。

洗剤とスポンジはわかりやすいところに置いてあり、シャワーを使いながら念入りに洗っていった。


自分は几帳面なのか、作業を始めると自分が終えたと納得するまで掃除したくなるもので、ずいぶんと時間がかかってしまった。


「おっさん、こっち終わったっすよ」


「おお、ちょうどこっちもだ、夕飯食べ終わったら順に入るからもう湯入れ始めてていいぞ。200リットルくらいだ」


「うっす」


とすぐ逆戻り、湯を入れる、蛇口を捻りそこからお湯が流れて溜まる、最近のものではない。

ボタンをポチ!でなんか聞いたことあるクラシック音楽が流れる。とかの概念はない。メーターが200のところで捻る手を止める。


使ったことがない気がするのにやり方がわかる、シンプルなものはいいな。

……そんなことはさておきキッチンへと戻る。


もう夕飯を運んでいるようだ。どこだろう、ここまででリビング的なのは見なかった気がするが。


とりあえず自分も刺身の皿と醤油の瓶と小皿を乗せたお盆を持って、台所を出る。


「お、少年。客間に用意して行ってるからそれをそのまま運んで行ってくれ、次が最後だからあとは待っててくれよ」


「了解っす」


廊下を真っすぐ行き客間に行く、二人はゲームをしていた。赤と青の2つのコントローラーがついている某アレ、だ。


「お前ら、飯だぞ。ゲームは一旦やめだ」


「「えー」」


と声が揃う。


「てか俺が頑張ってる間遊んでたのかよ、ずるいな」


「最下位になる人が悪いんですぅ」


「そーだそーだ!」


雪華なんか口調ちがくない……?二人はコントローラーを置いてゲーム機のスリープボタンを押した。


「っと、箸と、ご飯、小皿を二つとこれを人数分」


そういいながら四人分の準備を整えていった。

刺身に、卵焼き、ミニトマトとキャベツのサラダ、と、なんだろ、……魚の天ぷら?

なにかよくわからない天ぷら。


「おっし準備はできてるな」


「じゃあみんな、


「「「「いただきまーす」」」」

残すなよー」


凄く楽しい。こんな食事今まであったのか知らないくらいに楽しく食事が進んでいく。

食事がこんなに楽しいものだとは思っていなかった。少なくとも自分の中ではこんなに楽しい食事という記憶は存在していなかったと言っていいほどに目の前の光景は賑やかだった。


「おっさん、これなんの天ぷら?」


「鮎の天ぷらだ、釣ってきてすぐのやつはその辺に売ってるのとは味が違うぞ」


と天ぷらを大皿からとって塩をかけてみる。

口にいれるとまず天ぷらの衣に歯が入り、そのあと鮎に歯が入る、食感が段になっていて、薄い衣のサクッと小さい音がしたあと、しっかりとした魚肉をガブッと行く。


最初に振りかけた塩が舌に伝わってきてそのあと揚げた衣と鮎の味が直に舌に伝わってくる、噛むほどに鮎の旨味が増して最初の塩の刺激に中和されていくのだ。


天ぷらなのに油を微塵も感じさせないほどすごくさっぱりしていて、魚なのに臭みなんて全くと言っていいほどにない。これが白身魚本来の味なのかというのを感じる。

天ぷらの衣と鮎で二層になっている、それだけのこの単純さなのにこんなに合っているなんて。


その辺のやつってのは俺はそもそも知らないが、これが段違いに美味しいのであろうことはわかるほどに美味しい。


「俺これ好きかもっす!」


「そりゃよかった、残さず食えよ」


「はい!」


美味しい食事に、今日会ったばかりだけれどいい人たち、これ以上の出会いはないだろうってくらいに充足感で満たされる。


「にしても、やっぱり人が多いと食卓も賑やかになるってもんだなぁ」


「いつもお父さんと二人だったから、こんなのは久しぶり」


「ご飯食べるときは楽しい方がいいもんね!」


半分ほど進んだ茶碗を持ちながらすずが返し、三人が嬉しそうに会話する。


「そういえば、今日は帰りがずいぶんと遅かったが、随分とゆっくりしてきたんだな」


「はい!雪華ちゃんともこんなに話せるようになっちゃって!」


「今日外に出したのは正解だったってわけか」


そう言いながらおじさんがハッハとビールを飲みながら豪快に笑う。ちょっと酔っているのか、口調はあまり変わらないが頬が少し赤い。


「夕日が綺麗でしたよ!とっても!」


「久しぶりにこの時間に外に出たからなんだか新鮮だった」


「わたし写真撮りたかったなぁ」


「そうだ、今度スマホ買うか?」


合点と握りこぶしを手に当てながら、おじさんが言う。

この人は一体いつまでいさせてくれるつもりなんだろうなんて思いながら、おじさんがその人相に合わないくらい優しい人だということを再認識する。


「ほしい!可愛い色のやつが欲しいな!」


とすずが手を挙げた。

遠慮がないのか、ただの天然なのか、ノリがいいやつだ。やっぱりこういうやつが意外と人に好かれやすいんだろうか。


「少年も、いるか?」


「え?俺はいいっすよ、申し訳ないですし」


「てか汐音、なんか変な喋り方だね、わたしたちに話すときもっとずけずけ言ってくるじゃん」


「多少の敬意みたいなもんがあんだよ、相手は居候の俺ら見てくれる大人なわけだし。むしろお前の方がおかしいんじゃないか?」


「そう、なのかなぁ」


と少し上を向きながら、すずは考える表情を見せる。


「人のことおっさんって呼ぶ割には、そんなしょうもないこと気にしてんだな。

別に俺はそんなに尊敬されるような人間ってわけでもねぇし、もっと言ってくれて構わねぇぞ。

そうだなぁ、イメージするなら少し歳の離れた先輩とかか?」


と少し前かがみに俺を見ながら言う。この距離まで近づかれると酒臭いのがにおってくる。


「全然少しじゃねぇ……」


「ああ、そういや、お前ら自分がいくつとかわかるのか?」


「ほんとになんも覚えてないんすよね、言葉の意味とかはほとんど通じると思うんすけど」


「すずも!」


「そうか、まぁ見た目は高校生、くらいか?

怜奈が成長してたらだいたいこんな感じになるのかね」


その「れな」が誰を示すのか、文脈ですぐに理解することができた。二年前に亡くなったであろう、すずに瓜二つの人。


気にしていないかのような変わらない口調で話すが、初対面の時よりは会話を重ねている、流石にこのくらいの変化には気づける。


口が笑っていない。思うところがあるのか、その台詞には詰まりが見えた。


「怜奈さん?」


わからなかった様子のすずがそう聞いた。


「ああ、話してなかったのか。うちの長女でな。今頃は高校一年生になってたんだろうな」


その怜奈って人の話をするたびにおじさんの声が震えてぎこちなくなくなっていく。


「お父さん、別の話しよっか」


それを察したのか雪華がこの話を終わらせようと会話に入ってきて、おじさんの肩に触れる。気づいておじさんは慌てて次の話題を探すように、目線を斜め上にして考える仕草をした。


「そ、そうだな。あー、えっと、今日の風呂順は誰にする?女子優先だ」


風呂を洗ったのは俺なんだが、これくらいはまぁいいか。


「わたし一番!」


すずがまた手を挙げた。


「雪華ちゃんも一緒に入らない?」


「え?私?私はいいよ、二番目に入るね」


「そっかぁ」


「少年、男二人は狭いと思うが」


「えぇ……、洒落にならない冗談はやめてくださいよ」


「はは、三番目に入りな。若い奴から入ればいい」


「あざっす、ほんと世話になるっす」


と、食べ終わったのかすずが一番に「ごちそうさま!」と言い、元気に立ち上がって出ていく。


「随分と食べるのが早いんだな、一番風呂行ってこい。多分大体湯が溜まってると思うから」


おじさんはもう廊下に出ていたすずに向かって言う。


すずは「いえっさー」と返しながら廊下を歩いて行った。


「少年、残りは全部食っていいぞ。俺は最近食べた分だけ太ってきてな、歳のせいだなこりゃ」


「ういっす、今日は動いたんでこのくらいなら」


大体最初大皿にあったぶんの4分の1ほど、刺身や天ぷらが残っていた。

天ぷらが少し胃袋にはきついかもしれないが、今食べておきたい。

皿のものを順に平らげて行こうとまず刺身の皿に手を出す。


と、

「で、お風呂ってどこ?」


すずがステテテとすぐに戻ってきた。


「そういえば教えてなかったなトイレの扉の奥だ、行ってみたら多分わかるはずだ」


とおじさんがまた振り返って話す。


また、すずが「いえっさー」と既視感のある光景を再生しながら廊下を歩いて行った。


刺身を醤油につけて食べ、それが食べ終わるころに、おじさんと雪華がほぼ同時に食べ終わって箸を置く。


おじさんは立ち上がってテレビをつけ、雪華は客間を出ようとする。


「ってゲームやってたのか、お父さんこれ止め方わからんぞ」


雪華が振り返りトテトテと戻ってきた。


ゲーム機をドッグから外して持って行った。

と、画面左上には18時55分を示し、ニュースらしき番組が映った。


あまり知らないが地域情報番組らしきものだ。


おじさんが「よかったのか?」と聞くが二つ返事で雪華は答えてすぐ客間を出ていく。


俺はその光景を見ながらむしゃむしゃと一人天ぷらをむさぼっていた。


ちなみにサラダはすずが完食したのでもうない。今日の食事は割とバランスの偏った食事になってしまった気がする。


雪華の言っていた朝の散歩とやら、自分もしてみようか。


ようやく食べ終わり、

「おっさん、これ片づけないんすか?」


「ん?片づけるけど、まとめたほうが早いだろ。4人分くらい1回で運べるさ」


「じゃあ、俺やっとくっす」


「お、気が利くな少年、任せたわ」


寝そべりながらバラエティー番組を見ていたらしきおじさんがこちらを一瞥することもなく、そう答えた。


自分は茶碗や大皿小皿など種類を合わせて重ねて、置いてあったお盆にまとめて運んだ。


大きい四角いお盆で、運びやすいものだ。


台所まで運ぶと、シンクに水につけながらとりあえず全部突っ込んだ。

洗った方がいいのだろうか、そう思うが見渡す限りに洗剤がない。

一応水につけたしあとで聞いておこう。

と、台所を出ると雪華に会った。衣服をもってお風呂に入ろうとしているところのようだ。


「なんだ?やっぱりすずと一緒に入りたかったのか?」


と茶化しながら聞いてみる。


「ち、違うけど、すずさん出たあとの服も気にせずお風呂入っちゃったので、私のパジャマを貸してあげようと思って」


よく見ると2着分持っている……気がする。あんまりジロジロ見るのは良くないと思って、そちらに視線をやっていない。


「そっか、気が利くんだな雪華」


「汐音さんも、食器運んでくれてありがとうございます」


「いや、居候の身だしこれくらいは。そういや食器用洗剤って知らない?見当たらないんだけど」


「んー?すぐ見えるところに置いてたと思うんですけど」


「あれ、俺見落としたかなぁ」


「ほんとだ、どこ行ったんだろ。

……ああ、気にしなくても大丈夫ですよ。私があとでやっておきます」


「なにやら申し話ないけど、そう言ってくれるなら。代わりに置いてくるよ」


と手を伸ばす。……が、


「え!?脱衣所とはいえ、女の子が風呂に入ってるところに行くんですか?」


失念していた。「意識が洗剤の方に持っていかれたせいだ」と、自分の中で言い訳をする。


「ち、ちが。ちょっと話の流れ的に俺も動かなきゃなって思っただけで」


「ふーん」


雪華が疑心暗鬼にこっちを見てくる。


「誤解だって」


「……まぁ、いいです。そうですね、そういえば今日まだ洗濯物取り込んでなかったのでお願いできますか?

2階に干してあって、窓を開けてすぐですからわかると思います。とりこんだら2階の廊下においてあるかごにいれて1階の階段下にもってきておいてください」


「あ、ああ!任せてくれ」


と握りこぶしを胸に当てて頷く。


そそくさと俺はすぐ横に見えていた階段から2階へ上がって目の前にかごがあるのを確認しそれを持った。

外に出るともう暗くなっていて少し星が見えるようだった。風は夕方よりも冷たくなっていて心地よく肌に当たった。


洗濯物は竿にかかっていてそれほど数はないようだった。


「……」


パンツとかあるんだけど……。これは俺がやってもよかったのか?

逡巡のあと、任された仕事はこなすべきだな、とあまり気にしないようにスピーディーに洗濯物を取り込んだ。


2階のベランダへの戸を閉めて、かごをもってすぐに俺は1階に降りて行った。


「んーっと、雪華は……」


キッチンから水音がする、キッチンにいるようだ。


「取り込んでおいたぞ、畳めばいいか?」


「いえ、そこまでは大丈夫ですよ、階段の前に置いておいてくれますか?私がやっておきます、それにこれから洗濯物は増えますし」


「あ、ああ」


「そういえば、洗剤使い切ってて捨ててたみたいです、いつもここに予備おいてるので」


とシンクの下の棚を開いて右下の空いている空間を指す、新しく出したであろう食器用洗剤はシンクの蛇口の横のスペースに置かれていた。


「なんかやっておくことってあるか?」


「特に……ないと思います、なにかあったらまた言いますね」


雪華はこちらに振り向き、笑顔でそう言った。




「やることないとなんか虚無だな」


客間に戻った俺はおじさんの見ているバラエティ番組を一緒に見ていた。


なにも考えずに見るには楽なもので、目に入ってはいたが、なにひとつ内容は頭に入ってなかった。


しばらく経って、意識が突然ふっと戻ったように考え事を始めた。




今日は8月7日の木曜日のようだ。夏祭りは8月15日、来週の金曜日。


俺たちが目覚めた砂浜には俺たち以外に姿も見えなくて、たまたま通った二人に拾われた。


怜奈さんにすずが似ていたおかげだろう、これが偶然似ているだけなのか本人なのか、記憶喪失なことに関係があるのか、そもそも俺たちはなんであの砂浜で目覚めたのか……。


そして、俺は誰なのか。


不安点はここまでで唯一俺自身の情報が全くと言っていいほどにないことである。すずというか怜奈さんの話は出てくるのだが自分のことは一切関わってきていない。これほどに何一つわからないと不安にもなる。


もし、すずの記憶を戻すことができたら、自分のこともわかるのだろうか。


「おっさん、今更なんすけど、怜奈さんの仏壇って」


「んあ?隣の部屋だが、線香焚くなら言ってくれ。この家は木造だから放置して火事になったら全部燃えるから」


笑いながらおじさんは言うが、あんまり冗談になっていない。


「っす、線香もやらせてもらいたいっす」


「ライター持っていくから先に行っててくれ」


「あざっす」


隣の部屋、廊下を挟んで向かいに障子で閉じられておりその先に仏壇が見えた。

見ると二人遺影が飾られていた。


ちょうどすずを少し幼くしたくらいの容姿、本当に瓜二つで見間違えるくらいだ。


唯一違いがあるなら、怜奈さんは雪華と同じく髪色が日本人らしい黒みがかった茶髪ということくらいか。すずは金髪である。


もう一人は……


「隣のは、エリ。二人のお母さんだ、エリにも線香あげてやってくれ」


ライターをもってきたらしい、おじさんは部屋に入りながらそう言った。


「……はい」


返事をすることしかできなかった。


かける言葉が見つからない。こんな部外者が言える言葉なんて簡単に思いつくほど、俺には経験があるわけでもない。


俺の隣に正座したおじさんはろうそくに火を灯して、仏壇の横にあった線香を手に取って先をろうそくにかざした。倣って自分も線香をあげた。


「特に、聞かないんだな。いつだとか、どうしてだとか」


「それは、……まぁどんな理由なんてあんまり聞くものじゃないですし」


「そうか」


線香を香炉に三本さし、目を閉じて手を合わせる。


(エリさん、怜奈さん、少しの間お世話になります。もし、すずが……)


と隣で畳の軋む音がした。誰かが隣に座ったようだ。


すずがもし怜奈さんだとしたら……そんなことを考えたが、部外者の自分がするには勝手すぎると思い、その思考を中断した。


(しばらくお世話になります)とだけ伝えるようにした。


そうして目を開けると隣にはすずが座っていた。


さっきまでの自分と同じように合掌していた。


実際に写真と見比べても本当に似ていて、奇妙な感覚に襲われていた。


「この人が怜奈さんで、隣の綺麗な人がお母さん…?かな」


「知ってたのか?」


俺はそれに質問で返す。


「んーん、なんとなくだけど」


「そっか」


おじさんはずっと合掌していた。俺たちは先に部屋を出て客間に戻った。


「自分にそっくりな人に手を合わせるって変な感覚じゃないか?」


「まぁ、そう思うけど、でもいざ目の前にしたらそんなこと気にすることじゃないかなって」


「大人、なんだな」


大人という表現が正しいのかわからないが、咄嗟にそう思い、それを口にした。


「汐音は、わたしが怜奈さんとなにか関係があると思う?」


かなり曖昧な質問だ。

その質問に真正直に答えてしまうのならば、全く関係がないとは思えない、思えるわけがない。これは本人もわかっていることだろう。もしこれが本当に偶然なら幾億の確率だろう。


「俺には、正直わからない。すずと怜奈さんは同じ人なんじゃないかって少し思いつつも、それはあり得ないと思ってる自分もいる」


本音を交えて話すならこの回答だろう。


雪華の口ぶりからして、何かを隠しているのでなければ、失踪とかではなく、あの時階段で曖昧にした言葉は2年前に死体を見たということで、明確に怜奈さんは亡くなっているということを示す。


そう、「いなくなった」や、「帰ってこなくなった」だとかの消息を絶ったこと表す言葉ではなく、「死んだ」と断言していたのは、その死体を見てしまったから。そう理由づけて差し支えないだろう。


でも、怜奈さんが実は失踪していてそのまま2年を経て記憶を失ったが戻ってきたかのような、そんな容姿で立っているのが、目の前にいるすずだ。


これがたとえ奇跡だとしても、二年の空白が謎だし都合がよすぎるとも思う。


「そっか、記憶が戻ったら、なにかわかるのかな」


「さあな、俺も戻ってないからその後のことなんてわからないかな」


そう返して前を向くとすずと目が合う。すずはまた、最初にトラックで見せたような不安な顔をしていた。


「大丈夫、なにか問題が起きたらその時考えればいいんだから。今はこの家に世話になってて楽しい、それだけだ」


「……うん」


あの時と同じ言葉をかけたが、すずの表情は戻らなかった。


「出たよ」


後ろから雪華の声がした。


「雪華ちゃんすっごいはやい!ちゃんと身体洗ったの?」


さっきまでのどんよりした空気はまるで存在しなかったように、すずはその表情を明るいものに変え、そのまま驚くような表情をする。

無理をしていないのか心配になるほどに彼女は、雪華には、気丈な振る舞いの面を見せていた。


「私はいつもシャワーなので」


そんなすずの面を露ほども知らぬように、雪華は少しだるそうに、でも少し嬉しげに返事した。


「湯舟に使った方が健康にいいって聞くよ?」


とすずが立ち上がって畳をギシギシ、ギシギシと言わせながら雪華に駆け寄る。


「じゃあ俺いくけど、替えの服って」


「もう置いてます、従弟のお下がりのジャージですけど、多分サイズは問題ないはずです」


ああ、あの時2着じゃなくて3着あったのか。

ふぅ……、自分はきちんと目を逸らせていたようだ。自分の中でしか発生していなかった気遣いの問題であったが、解決した。


「ありがとう、雪華」


「はい」


すれ違いの会話が今発生した気がするが、それはさておきゲームの続きをしようとする二人を背に俺は廊下をでた。


ふと横目に見るとおじさんはまだ仏壇の前にいるようだった。


脱衣所に行くと、洗濯機がありそこに服をそのまま乱雑につっこんでいるようだった。


白いワンピース、これはすずが着ていたものだろう。もう一つは雪華が今日着ていた服とスカートだ。ふと下着が目に入るが見なかったことにする。


うーん、さっき汚名返上したはずなのに、全てを台無しにする俺。


……えーっと、自分が脱いだ服を観察した。


俺はただのその辺に売ってそうなデザインの半袖半ズボン。よく考えればこの服はいつから着ていたものなのだろう。


海水に濡れていたからか、服からは少し潮の匂いがするが特に傷がついているというわけでも……。


「ん?」


青を基調としたデザインの半袖Tシャツだったのですぐには気づかなかったが、よく見てみると襟の部分、少し色が違って血が染み込んだ色のように見える。


『事故』……?そんな言葉が脳裏によぎる。


この位置をたどるなら、と首から頬、目尻、額と手をなぞり頭に触れる。特に傷もなく至って健康体だ。

ふと目の前の光景に唖然とする。これまで自分を鏡で見てなかったから気付かなったことだった。


俺の髪色は真っ白だった。


ただ色素を失ったような色ではなく少し輝いてみえる、言うなれば銀髪である。

自分にとっては異質なことだった。先入観か、自分はてっきり黒髪だと思っていた。またわからないことが増えてしまった。


少し情報が増えるだけで、頭を悩ますことが増えてしまう。うーん、流石に考えるのがめんどくさくなってきたな。


俺は追究するのをやめた。


「問題が起きたらその時考えればいいんだよ、あいつがそう言ったんだ。

俺が銀髪だって、服に血がついてたことだって、別に俺の中で疑問になってるだけで別に誰も困ってないじゃないか。

ってああー」


あとで服は別で洗っておこう。血のついた服なんて他人の服と一緒に洗うものじゃない。


洗面台で石鹸を使ってよくゴシゴシと襟を往復させる。血というものは水で簡単には取れない。色がだいぶ薄くなったのはわかるが、これでは取れたとは言えない。


しばらくやって、諦めた。


「多分そういう道具、ホームセンターか百均にあるよな」


良く絞って使ってなさそうな籠にいれた。


ズボンや下着類はそのまま洗濯機に突っ込んでおいた。


浴室のドアを開ける、開き戸だ。一回掃除のときに見ているので大抵のものの場所はわかる。


自分の身体を洗いながらその部分部分におかしいところがないか見る。


「特に、おかしくねぇよな」


髪色が明らかに違和感があること以外とくに身体的特徴として人間の特徴と相違ある部分は見えなかった。


……。


「他の人のを知らないけど、もしかして小さ……」


やめよう、そんなわけないさ。標準くらいだろう、そうだ、多分、きっと。


頭、身体、足と上から順に洗って、俺は湯舟に浸かった。


「ふああああ」


湯舟が心地よい、疲れていたのもあって眠くなってくる。


湯舟に浸かると疲れが取れるような気がする。夏とはいっても日本人が湯舟に浸かるのはやっぱりこれだろう。

むしろ湯舟に浸からないと違和感があるというものだ。


ただ、ずっと浸かっていると考え事をしてしまう。さっきの出来事がまた蘇る、まてよ、銀髪って最初は驚いたけど思い返せばかっこいいんじゃないか?


ちょっと手をかざしてみる。特に何も起きなかった。


指を鳴らしてみる。特に何も起きなかった。


手に力を込め、放つ。特に何も起きなかった。


うーん、予想していたことは大概起きない。能力者だから記憶が消されたとかそんなことを考えたのだが至って普通。なんでもない中二病の一般人である。


やっぱり事故に遭ったとかそんなのだろうか。それでショックで髪色が抜けたとか。


浅いことを考え続けて時間が経っていった。


「そろそろ出ないと」


湯舟から出る、夏なのでそこまで湯舟から出ることに抵抗はない。むしろこの空間は少し暑い。


雪華が用意していたらしい下着と赤色のジャージがあった。


「よし」


ジャージに着替えて俺は洗面所を出た。


廊下を進んで客間に戻ると、二人がゲームをしているのをおじさんが後ろから座ってみていた。


「出たっすよ」


「おう」


おじさんはすぐさま立ち上がり客間から出て行った。


「っと、二人はなにやってんだ?」


「ゲーム!」


いや、ゲームなのは見りゃわかるが……。自分はゲームに聡くないが某配管工だろうか。えー、2Dのやつしかしらない、なにこれ。


「俺外の空気吸ってくるよ」


「ばいばーい!」


ゲームの画面を見たまま、すずがそう返す。


やることが、ない。スマホがあればぼーっと時間を過ごしていたのだろうか。


現代人娯楽に溢れているものだと思っていたが、スマホも本もなければ寝るくらいしかすることが思いつかないのは、ある意味娯楽に欠けているとも言えるのだろうか。


玄関から、外に出る。


外は涼しくて、海から吹いてくる冷たい風が当たる。自然ならではの風だ、匂いも違う。今度は山にでも行ってみたくなるものだ。


月が出ていて、少しだけ1等星だか2等星だか眩しい星だけぽつぽつと空に見える。


夏の大三角ってどれだろう、よくわからない。夜空の星を嗜む感性は持ち合わせているのだがあいにく知識を持ち合わせていない。


門から外に出て、今日チラっとみた公園に向かう。


公園にある遊具というものは、ばねで前後に動くパンダのスプリング遊具とブランコくらいのものだった。


俺は右に見えた植物に屋根で覆われている椅子に腰かけた。


今は20時くらいだろうか。見渡すと、真っ暗で街灯もあまりなくぽつぽつと家の窓の光が漏れているのが見える。


座っていると夜の風の冷たさというのは歩いているときと違って、そのままささやかに感じるものだ。夏だがいい気温で心地よい。


そのまま時間を過ごしていると、ふと人の気配がしてそちらに向く。


「お前……」


制服の少年が公園の入り口に立っていた。


「こ、こんばんは」


誰だがわからないが、挨拶を返してみる。


「どの面さげてノコノコと、何しに来たんだよ」


初対面からキレられるようなことをした覚えはない。

が、入口からそう大声で少年はこっちに言ってくる。


「?……俺を知ってるんですか?」


「は?何言ってんだよお前、とぼける気か?あの日のこと俺はお前のせいだと思ってるから」


そういいながら俺の方に歩いてきた。


「あの日のこと?」


「おまっ、殴られたいのか?」


「ちょちょ、俺記憶喪失なんだ。俺のこと本当に知ってるのか?」


「はあ?記憶喪失?はあ、別に、いいけどよ。なんで帰ってきたんだよ」


「帰ってきたもなにも目覚めたらここにいて、俺のこと知ってるのか?知ってるなら何でもいいから教えてほしいんだが」


「思い出したくねぇよ、お前らのことなんか、……あの日のことなんか」


そう少年は言いながら少し下を向き目を逸らす。


「お前ら?俺以外に誰が」


「あー、もう、うるさいうるさい!俺は帰るから。じゃ、二度と話し掛けんなよ」


「あ……」


向こうから話し掛けておいて二度と話し掛けるなとはどういうことだろうか。


少年は怒りを露わにしながら帰って行った。今なら間に合うがああ言われてしつこく言い寄れるほどの精神は俺にはない。


でも、情報が確かに手に入った。俺のことを知っている人間がいる。お前らなんてと言っていたから多分複数人、あいつと誰か。その誰かは定かではないがこの町にいるんだろうか。

同年代?これは偏見か、決めつけは視野を狭くしてしまう。俺を知っているであろう誰かは、そもそも男か女かすらわかっていないわけだし。

いや、そもそもその第三者はすずの可能性がある。真っ当に考えればすずの可能性が一番高いだろう。


それに……、あの日っていつだろう、あの日と言っている以上今日昨日の最近の話ではないと思うのだが。


まとめるとあの日、俺と誰かとあいつがいて、なにかが起こって、それは俺のせいだった、多分。そのことであいつは俺を恨んでいる、ということだろうか。


うーん、全部が曖昧すぎるな……。本を探したいのにタイトルどころか内容も思い出せないみたいな状況だ。


この町に自分のことを知っている存在がいる以上、明日にでもその誰かってのに会えるかどうか、歩きまわって聞いてみると進展があるかもしれないな。


考え事をしていたら、かなり長くここにいた気がする。そろそろ帰るとするか。


俺は、思考をかき混ぜるように髪をくしゃくしゃにしながら椅子から立ち上がり、公園を出た。




何事もなくおじさんの家に戻り、客間の電気がまだついていることを確認する。


俺は玄関から戻り、サンダルを脱いだ。


客間にいくと、みんながくつろいでいた。ゲームは疲れたのかもうやめていて、21時から放送しているらしいドラマが始まっていた。


「ただいま」


「おかりー」


と真っ先にすずが振り向いて言う。


「どこに行ってたんだ?」


おっさんが今日の朝刊か、新聞を見ながらこちらに問いかける


「そこの公園っす、なんか変なやつに、俺のこと知ってるって」


「そりゃあ、良かったじゃねぇか。何がわかったんだ?」


「いや、俺のこと知ってる人がもう一人いるのかな?ってくらいで……」


「それ以外聞かなかったのか?」


「なんかあいつ怒ってて」


「お前がなんかやったんじゃないのか?」


「記憶失う前のことなんて知りませんよ……」


「まぁ、いいが。一応進捗だな」


「っす」


「汐音さん、ほかは本当になにも聞けなかったんですか?」


「あ、えーっと、そういやあの日のことは俺のせいだって。それで怒ってるみたいで。

俺ここに来た事があるみたいなんだ。雪華、本当に俺のこと見たことがないのか?」


そう言われて10秒ほど雪華は考える仕草を見せた。が


「思い返しても私は見たことないと思います」


「そうか、ありがとう。明日また町の人に聞いてみるよ」


「頑張ってください、汐音さん」


そう言いながら雪華は手をグーにしてファイト!と向けてくれた。


「話変えるけど、寝床ってそういやどうすればいいんだ?」


「それなら、和室の方に布団を敷いておいたので、そこで今日は寝てください」


「了解、本当に世話になるな」


「いえ、私も少し楽しいんです。いつもお父さんと二人だったので」


「これから少しの間かもだけど、賑やかにしてやるよ」


「あんまり騒ぎすぎないようにしてくださいね」


と少し笑いながらそう雪華は返した。

そのあとドラマを見ていたのだが、途中からでそこまで内容が理解できなかった。


恋愛系で、見ていて飽きはしなかったのだが知らないエピソードがどんどん回想されて、ヒロインが悲しんでいるシーンが流れたり、ヒロインの友達らしき人が恋愛観を説いたり。


ストーリーものを途中から物語を見るのは難易度が高い。感想はそれだけであった。




テレビを見ていたら時間はもう23時を回っていて、雪華はもう寝支度を始めようと立ち上がっていた。


「汐音さんとすずさんも今日は疲れたでしょうし、早めに寝た方がいいと思いますよ」


「あ、ああ。そうするよ」「はーい」


すずはもう眠いようで、声に覇気がなくなってきている。俺たちもテレビを消して立ち上がった。


「おっさん、今日は一日ありがとうございました」


「良いってことよ、二人ともおやすみ」


すずは俺の隣で会釈をして廊下から和室に向かった。


和室は1階廊下の途中にある部屋みたいだ。丁寧に引き戸が開けられていて、布団が敷かれ……


「え、俺たち一緒の部屋で寝るの?」


「ん-?」


すずの返答はもう内容が空っぽだった。


「しょうがねぇかもだけど、まずくないのかな」


すずはもう寝ようとしていた。


「おい、歯磨きしてないだろ」


「あー……」


思い出したようにすずは洗面所の方に向かった。俺もすずの後ろを追いかける。


「あ、汐音さん、すずさん」


雪華がすでにいた。


「旅行セットがあったので今日はこの歯ブラシを使ってください、ただこの2本しかないので、明日にはきちんとしたもの買ってこないといけませんね」


「あー、明日か。明日どうすっかなぁ」


聞きこみもしたいし、生活必需品も揃えないといけない。


(色々とやることが山積みだな)、なんて考えていると、すずはもう旅行セットの袋を開け歯磨きを始めていた。旅行セットには歯ブラシ以外にもコップ、歯磨き粉が入っている。


すずは歯磨き粉を使わず歯磨きをしているようだった。


よほど眠いのか全然磨けていなかった。


「ああ、私がやりますよ」


少し呆れたようにもう歯磨きを終えたらしい雪華が、すずの歯磨きを持って丁寧に磨いていく。人の歯磨きをするってしたことないけど難しそうだな。


俺はそれを眺めながら、普通に歯磨き粉を付けて磨いていた。旅行用の歯ブラシ、これが単純に使い捨てなのか、自分の力加減が強いのかブラシの毛がたまに取れる。

これは、生活必需品が先だな。


「じゃ、じゃあお先に」


「あ、はい、おやすみなさい」


雪華は歯磨きを終えたあともすずの髪を梳いて束ねていた。すずはそこそこ髪が長く確かに寝るのには不便そうだった。


俺は先に和室に戻って布団に入っていた。


「これから、どうなんのかなぁ」


ずっといるのも申し訳ないし、いつかはなんとかしないといけない。


とにかくここにいる間は家事や手伝いを頑張って役に立つか。


疲れていて気付いたら俺はすぐに眠っていた。




何時間が経ったのか、ガラガラっと玄関の引き戸が開く音で目が覚める。


隣にはすずが寝ていた。あの長髪が束ねられて団子にされている。綺麗な寝相で、雪華が連れてきてくれたのだろうか。


スース―と静かな寝息を立てていた。


俺は起きて玄関から外に出た。


そこには先客がいた。


「おっさん、どうしたんすか」


「んあ、少年悪い起こしちまったか」


「いや、たまたま目が覚めただけっす」


とおじさんが煙草に火をつけて口につける。


「おっさん、煙草吸うんすね」


「いや、全く」


とおじさんがゲホッゲホッと咽せた。


「いや、なんで吸ったんだよ」


目の前の光景が自分にとって予想外すぎて、心の声のままにツッコんでしまう。


「同僚に貰ってな、全く吸えないんだが。もったいねぇなと」


「漁師でしたっけ、あんまり俺知らないっすけども」


「まぁ、お前らを受け入れたのはな、まぁ思ってる通りの理由もあるが、雪華を一人にしたくないってのもあるんだ」


「一人に…」


そこでおじさんが大きく深呼吸をした。


「ああ、2年前の話を、しようか」


その瞬間、風が向きを変えたように感じられ、周りの空気が冷たくなる。一言一句を聞き逃すな、と潮風が言っているようで、無意識におじさんの方に顔が固定させられる。


「2年前、突然だった。8月18日金曜日の夜、怜奈と絵里香が帰ってこなかった。俺はその日は夕方から漁にでてたんだが、19日の朝にそれを知った。


帰ってきたら雪華が不安そうに家にいてな。


俺はとりあえず周りの仲間に連絡したりと、人を増やして探したんだ、8月19日は夜までずっと探して、山も探したが全く見つからなかった。

他のみんなは夜に一旦探すのやめて寝に帰ったが、俺たちはずっと探していた。


20日流石に疲れて少し仮眠を家で取ったんだ。

あれは大体昼前だったな、少しだけ体力を回復させてまた探しにでるつもりだった。起きたらもう後だったんだ。


14時水死体として漂流している二人が見つかったと報せがあった。浜からそんなに遠くなくて、いつも釣りをしているじいさんたちが見つけてくれたらしい。


俺は15時過ぎたころか、その話を聞いてすぐその場所に行ったんだ。雪華が先にいて、ブルーシートに怜奈が包まれてた。


俺が先に行けば雪華に直接見せることなんてなかったんだ。俺は間違いを重ねてしまったなんて後悔した。


そうだな、唯一の救いがあったなら、怜奈は意外にも綺麗なままで、安らかな顔だったんだ。そのあとは葬式手続きとか、まぁ周りの言うままだ。


ただ、もうそれ以降はそんなに覚えてない。


で、葬式が終わってから雪華は部屋から出て来なくなった。


責任を取るべき理由はいくらでも思いついた。だから父親である俺が頑張らないとなって、仕事を一旦休ませてもらって雪華の面倒をしばらくみてたんだ。


ずっと同じ日々が続いて、雪華は会話してくれるくらいに立ち直ってくれたんだが。


もう後悔しても、……遅いけどな。


まぁそんなでうちにはお母さんと姉がいなくて、雪華には俺しかいないんだ。


俺はあの家を継いだが、絵里香があの家の血縁でな。

俺自身は山から出てきた身で、残念ながら頼れる親戚も特にいなくてな、俺がいなくなったら今度は雪華は一人になるかもしれない。


それ関係なしでも、漁師ってのは丸々家を空けることも多くてな、特に忙しい時期はな。


だからお前らにいて欲しいんだ。すずは、お姉ちゃんの代わりになってやれるかもしれないし、お前も俺の代わりに守ってやれるだろ?」


「……」


「都合がいいのはわかってる、いてやってくれないか?」


「俺は、全然構いませんけど……、でも代わりじゃないです。

俺は俺で、すずはすずです。雪華自身もそれはわかってるんじゃないんですかね」


「そ、そうだな……、なんか過去に囚われてたのは俺なのかもしれないな」


「じゃあ、俺、配達員かなんかの仕事しようと思います」


「ん?なんでだ」


「俺は、俺なんです。ここでの俺の役割が欲しいんです。

だから家計の足しにでもなれたらって、俺、汐音としてこの家での役割です」


「あ、ああ。知り合いに確かいたから掛け合ってやる」


「助かります、戸籍がわからないやつなんて自分で言っても雇ってくれる人いるかわからないですし」


「汐音、他は聞きたいことはあるか?気にせず聞いていいぞ」


少し考える。ここまでで知り得ない情報。


「そういえば、すずはどこまで怜奈さんに似てるんですか」


「髪色以外、全部だな。声も性格も怜奈だ。

意識的に別人だと思うようにはしているが、正直本人としか思えないくらいには怜奈のままだ」


「じゃあ、あの白いワンピース、見覚えありますか?」


これを聞いて、予想外の質問かのような驚いた表情をおじさんが見せる。


「……ある。怜奈が、ちょうど2年前のあの夏の頃に気に入って着ていた服だ。

誰だったか覚えてないが、誰かが褒めてくれたって喜んでてな。あの夏、あの日までほとんど着てたワンピースと同じものだ。

で、あの見つかった日もその服を着てる状態で見つかったな」


それを聞いて自分の中で繋がれた事実があった。

それに対して疑問点は多くある。だが、これから集められていくであろう情報を照らし合わせていけばいずれ答えは導かれていくはずだ。


「俺は、ただの偶然じゃないと思います。

まぁ『今は』、すずはすずで、怜奈さんは怜奈さんですけど」


「でもそんなことあり得るのか?俺たちは目の前で怜奈を見てるし、火葬だってしたんだ。すり替えられたなんてこともない」


「この世には、多分わからないこともあり得ないことも、見つかってないだけで確かに存在してると思うんです。


誰かが誰かのために願って、その誰かのための奇跡が起きるんです。

その奇跡が必ずしも、誰かにとって幸せになる結果を呼ぶかは、わからないですけど。


でも、奇跡が起きるなら。奇跡が起きた結果が目の前にあるかもしれないなら、俺はそれを信じたい。証明してやりたい。


だから、すずが望む限りは、すずの記憶を取り戻してやりたいんです。


もしかしたら、それは予想外の結果を呼ぶことになるかもしれないですけど。それでも、その時はいつか来るんで」


「その時?」


「いや、こっちの話です、ありがとうございます。今日はもう寝ます」


「あ、ああ。おやすみ、汐音」


「うん。おやすみ、親父」


俺は少し驚いた表情見せる今日会ったばかりの家族を背に、寝床へ足を向けた。


その背には驚きに加えてもうひとつ、優しい微笑みが向けられていたような気がした。

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