ありえんとアキレスと亀

クフ

第1話

あたりには霧が立ち込めている。そこが森の中なのか、川辺なのか、朝方の村の中なのか、アキレスはよくわかっていなかったが、自分が何を追っているのかだけは身体の中心で理解していた。

 アキレスは亀を追っている。

 アキレスは俊足である。

 亀はアキレスの目と鼻の先にいる。

 亀は鈍足である。

 これだけの条件が揃っていて、アキレスはいっこうに亀に追いつけなかった。あの亀、のっそりと前足と後ろ足を交互に動かしているあの亀は、直進し続けるのみで、振り返りもしないし、横に反れることもない。アキレスは川の中も山の急斜面も常に同じ速度で走ることができたから、場所によって亀に引き離されてしまうということもない。アキレスは、なぜ、亀に追いつけないのだろうか。



 最初の状態を思い返した。アキレスは最初、ワインレッドの広大な水たまりの中で平泳ぎをしていた。だが偶然にも、五十三回目のストローク中に己の足首があのノロノロとした亀にぶつかって、こう言われたのである。


「どうかわたくしの不注意をお許しください、英雄アキレス様。お詫びに貴方様をわたくしどもの城、リューグジオへご案内いたします」


 アキレスはその水たまりの中に城があるのを知っていた。しかしそれは、ここの奥深く静謐な場所に君臨する神ポセイドンや、母テティスが所有すべきもので、このように取るに足らないただの亀が勝手に訪問者を選別できるものかと、アキレスは痛む足首を左右に回しながら指摘した。

 亀は慇懃な態度を変えることなく、丁寧にアキレスに説明した。


「リューグジオはポセイドン様やテティス様の所有するお城ではありません。オトイメ様という美しいお姫様のおわすお城でございます」


 「美しい姫」と聞いて飛び込まぬはずもない。表情を変えたアキレスを見るやいなや、亀は「早く私の背中にお乗りください」と言って催促した。今日は宴の開かれる日で、特別に外部の人間を招待できるのだと。

 アキレスはもはや流れに乗る以外の選択肢を失った。だが硬い甲羅に乗るのはごめんであった。今しがたそれにぶつかった足首がアキレスの小さなトラウマとなった。彼は、猛スピードで水たまりの最深へと向かう亀の尻尾を追いかけ、リューグジオに向かったのである。



 そこでアキレスは思い至った。もしかすると自分は今走っているのではなく、泳いでいるのではないかと。目の前の亀はのろのろ進んでいるのではなく、実は水中で見せたような猛スピードで泳いでいるのだと。つまり最初の前提であった「亀は鈍足である」の条件が崩れるわけである。

 謎解きとしては単純明快かつ退屈極まりないものであった。それだけでなく、その説自体がごく可能性の低いものに思われて、アキレスはすぐに考えを一新した。

 第一に、走っている感覚と泳いでいる感覚の区別もつかぬほどアキレスはぼんやりしていない。第二に、仮に水中であろうと、テティスの息子として亀ごときに追いつけないというのはあり得ない。そもそも疑う余地のないものであったが、アキレスは一つ一つ可能性を潰していくことで、自分がなぜ亀に追いつけないのかを明らかにする決断をしたのであった。

 先ほどよりも若干縮まったような気がしなくもない距離を見て、アキレスは回想の続きを再生した。



 リューグジオはアキレスの思っていたのと大分異なる様相をしていた。いわゆる神殿に見られるような、ドーリア式の膨らみを持つ柱もなければ、神々の彫刻が施されているわけでもない。とはいえそのイメージは人間の建てた「神殿」であって、神々自身が建築物を造ろうとするとまた違うのかもしれない。という考えにまでは残念ながら行き着かなかったアキレス、亀にとっては都合良くも、「オトイメとは一体何なのだ」という疑念が生まれた。

 亀は上手く答えをはぐらかした。「今しばらくここでお待ちください」と言う。静かな色のアーチ型の門の前にアキレスを残して、自分だけ豊かな緑色の建物の中へ自ら吸い込まれていく。アキレスは特別憤慨するでもなく、亀を待つ間にその建物の様子をもう一度よく観察した。

 暗い屋根は先端が反って上を向いている。屋根に細かい段があるのは馴染がないではないが、これもまたへりの反っているのが印象的である。アキレスが普段見ている神殿の上部の色彩に比べると、いくらか単調であったが、建物全体で見ると緑※と暗い色のコントラストによって少し派手な印象になる。しかし派手すぎないのは、両者が落ち着いた深い色のせいであるのか、空白の色が添えられているせいなのか、それとも水底の暗いライトアップによるものか、ともかくアキレスの目にはなかなか心地よいものがあった。

 だがやはりどこを見ても、アキレスにはほとんど馴染みのない建物であった。アキレスはこういうことを何と形容すべきか知らなかったうえ、少しばかり圧倒されてもいたので、「あり得ん」と呟いた。のちにこれが訛って「おりえん」になり、「オリエント」となったが、彼の使い方はあまり広まらず、今では非常に複雑化した単語となっている。



 そうしてオトイメと、この妙ちきりんな建物への純粋な興味が膨らんでいくうちに亀が戻ってきた。亀はこう言う。


「貴方様をお迎えする準備が整いました。オトイメ様はおザシキにいらっしゃいますが、誠に勝手ながらわたくしどもの決まりに従い、外にはお出でになられません。それゆえ…」


 と、亀は初めて言葉を濁した。しかしながら英雄アキレスには察する能力がなかったので、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。この男にとって苦手とするのが皮肉と嫌味、それから曖昧な表現である。アキレスはそれなりに思考するのが好きだが、言葉の裏を読んだり相手の言わんとすることを察したりするのは不得手、というより無駄に感じるのであった。

 したがって亀はその沈黙を破るべく、すべてを言葉にしなければならなかった。それゆえ、あなた様の御御足を運ばせてしまうこと、どうかお許しいただきたいのです。英雄アキレスはやっとのこと理解した。しかしなぜ亀が濁したのかは理解できぬ。何を躊躇う必要がある?ただ言えばいいではないか。まあどちらにせよアキレスにとってそんな些事はどうでもよいことであったので、無言で頷いた。

 亀はアキレスの寛大さに震撼しているように見えたが、そうでないふうにも見えた。よくわからぬ。本当によくわからぬ。アキレスはこのときから少しずつ亀に対する苛立ちを募らせていった。



 そうだ、とアキレスは思った。そういえば自分はなぜ亀を追っているのだろう。泳いでいないのだとすれば、今彼が亀を追う理由はないはずだ。あまつさえ亀にはさほど良い感情を持ち合わせていないというのに、アキレスの足はあらゆる思考と論理を飛び越え飛び越え、まるで今宵の晩御飯にでもしようかという勢いで、そう、文字通り突っ込んでいる。

 晩御飯。アキレスは目の前の亀を茹で上げているところを想像した。しかし味が想像できなかった。そのうえ亀のつぶらな瞳がアキレスの身体の奥深くに沈み込み、やがて縛り上げてくるような感覚を覚えた。いや、頭の中の話だろうに何を。そうだ、何を躊躇っている?今度は亀ではなくアキレス自身に向けてである。己はそもそも亀に追いつこうとしているのか?己は何を目的に走っているのか?そして亀は、この霧の中どこに向かっているのだ?

 アキレスはその質問に答えられなかった。ただ身体が理解している。追いかけねばならないことをただ身体のみが知っている。その後ろを走るアキレスの脳はまず、「目的」を明らかにしなければならない。



 ようやくかと期待に鼻を膨らませて入場したリューグジオの内部は、これまたアキレスの目に新しかった。左右に動く扉によって部屋が細かく区切られており、妙な厚着をした女たちがその中を忙しく往来している。しかしよく見ると、人間の女の形をした者だけでなく、中にはただの魚やら貝やらありとあらゆる水たまりの動物がそれぞれ物を運んでいた。どう見ても何らかの仕事をしている。彼らはアキレスを認めた途端頭部を軽く下げ、そしてまたアキレスの存在など無かったかのように仕事に戻った。いや、「無かったかのように」というのは語弊がある。みるみるうちにアキレスと亀の左右にあった扉が閉じられ、先ほどまでの忙しさが嘘のように静かになった。この間、二秒と少し。二秒も消費したらしい。期を見計らって、亀が前方の部屋の連なりを指しながら、アキレスに声をかけた。


「こちらの道を真っ直ぐお進みください。ただし道中くれぐれも、閉じているウスマを開けないようお願いいたします。お目汚しになるやもしれませんので…」


 ウスマとはなんだ、とアキレスは念の為尋ねた。そしてやはり左右に動く扉であったことを知ると、彼は自分の前方以外には目もくれず大股で歩き出した。さながら鋭い眼光を持つ女神アテーナーのごとく。亀など知らぬ。両隣の扉など知らぬ。アキレスには今緊急の課題が迫っている。それは恙無くオトイメに出会いあわよくば自分のモノにしてしまうこと。彼は確かにいろいろなものに興味を持つことが得意なのだが、一番の目的が目前に迫るとまずそれ以外のことは考えられなくなる。

 見るなと言われて見たくなるようなことは一切なく、とうとう最後のウスマの前まで来た。取っ手らしき黒い丸の凹凸に触れると、いつの間にやら回り込んだのか亀がそれを制した。


「オトイメ様のご準備が整い次第自動で開きますので、今しばらく」


 アキレスは初めてムッとした表情になった。理由は複雑である。まず己の最優先事項に向けての行動が阻害されたこと、それをやったのが亀であったこと、走っていなかったとはいえ大股で歩いた自分より先回りされていたこと、そして少し腹が減っていたこと。彼は自分が苛ついている理由を認識しても尚、それを内面で処理する方法を取らなかった。


「向こうの準備など知ったことか。それよりお前以外に俺を案内するヤツはいないのか。もうお前の甲羅は見飽きたのだ。もっと美しい甲羅を持ったヤツを連れてこい」


 すると亀は初めて口答えした。

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ありえんとアキレスと亀 クフ @hya_kufu

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