音の理由

@saikokuya

音の理由

私がこの団地へ越してきたのは、

妻と別れてすぐのことだった。

築40年、エレベーターのない5階建て。

もちろん家賃は安い。


部屋に入るとすぐにわかった。

壁が薄い。

隣の部屋で鳴っているテレビの音が、

まるで自分の部屋でついているかのように聞こえる。

それだけじゃない。

上の階の足音や、話し声、

それどころか、朝の目覚まし時計の音まで。

プライバシーなんてものは、

最初から存在しないかのようだった。


ある夜、私はいつものように

ベッドに入り、うとうとと眠りにつこうとしていた。

深夜の2時を回った頃だろうか。

隣の部屋から、妙な音が聞こえてきた。

トントン、トントン……。

何かが壁を叩くような、

一定のリズムを刻む音だ。

最初は気にしないようにしていたが、

その音は一向に止む気配がない。

むしろ、次第に強く、速くなっていく。


ドンドン、ドンドン、ドンドンドン!


心臓が締め付けられるような恐怖を感じた。

壁を叩く音は、明らかに私に

向けられているように思えた。

何かの嫌がらせだろうか。

それとも、助けを求める声なのだろうか。

私は布団を頭までかぶり、

ただひたすら、その音が止むのを待った。


どれくらい経っただろう。

壁を叩く音は、やがてぴたりと止んだ。

代わりに聞こえてきたのは、

静かなすすり泣きだった。

ヒック、ヒックと

か細い声が、壁の向こうから聞こえてくる。

その声は、泣いているというよりも、

何かに怯えているように聞こえた。


私は怖くて、その夜は一睡もできなかった。

翌朝、団地のゴミ捨て場で

隣の部屋に住む男性とすれ違った。

まだ30代前半くらいの、

少し不愛想な印象の男性だ。

少し迷ったが、私は勇気を出して話しかけた。


「あの、すみません。

昨日の夜、何があったんですか?」


男性は一瞬、きょとんとした顔をした後、

すぐに表情を曇らせた。


「ああ、聞こえてましたか。

すみません、うちの母親が……」


聞くと、彼の母親は重い認知症で、

夜になると壁を叩いたり、

叫んだりすることがあるという。

彼は申し訳なさそうに頭を下げた。


「母親は昼間はデイサービスに行ってるんですが、

夜はどうしても目が離せなくて。

特にここ最近は、夜になると壁を叩くんです。

隣の部屋から聞こえてくる、

変な音に反応してしまって……」


私は背筋が凍るような感覚に襲われた。

隣の部屋から聞こえてくる変な音。

昨日の夜、壁を叩く音が止んだ後、

聞こえてきたすすり泣きの声は、

一体誰のものだったのだろう。


私が彼の話を聞いている間、

彼は一度も私の目を見なかった。

そして、その顔はなぜか、

ひどく憔悴しているように見えた。

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