2件目
カラン――。
金属製の細い音が、冥界不動産の薄暗い空間に冷たく響く。
黒住は書類に目を落としながら、ふとペンを置いて顔を上げた。
今日の来訪者は、どんな未練を抱えているのだろうか。
「いらっしゃいませ。“未練”付きのお客様ですねぇ」
扉の前に立つ女性は、華奢で細く、まるで風に吹かれそうだった。
長い黒髪は乱れ、目の下にはくっきりとした隈があり、どこか虚ろな眼差しをしていた。
「……わたし、死んだの……?」
その声はか細く、まるで自分自身の存在を疑うようだった。
「えぇ、残念ながら。自殺ですね。電車への飛び込み。……ご自身では、死ぬつもりはなかった、と思っておられるようですが」
黒住は淡々と告げる。だが、その声にはわずかな哀れみが含まれていた。
「……あいつが私のこと、捨てたから。私はただ……ちょっとだけ、脅かしたかっただけなのに……」
ナナの声は掠れて震えていた。彼女の唇がわずかに震え、堪えきれない感情が零れ落ちる寸前だった。
黒住は優しく頷きながら、棚の奥から一枚の資料を取り出した。
「こちら、“監視部屋”でございます。あなたの“未練”の対象である、かつての恋人の生活を、24時間観察できる部屋です。音声も聞けますよ」
ナナの目がぎらりと光った。
「見られるの? あいつのことが」
「えぇ。ただし、“触れること”も“語りかけること”も許されません」
ナナは静かに頷いた。
「それでもいい。見てるだけで……いいから」
監視部屋は無機質な空間だった。
モニターが幾つも並び、そこに映し出されるのはナナが想い続けた男――ケンジの部屋だった。
ケンジは初めの数日は、ナナの死を嘆き悲しんでいた。
深夜に酒をあおり、涙を浮かべ、写真立てを抱きしめる姿もあった。
しかし、日が経つにつれ、ケンジの様子は変わっていった。
三日目の夜、彼は別の女性を部屋に招き入れた。
笑い声が壁を揺らす。
ナナの胸に刺さる鋭い痛み。怒りと悲しみが入り混じり、彼女の手は震えた。
「ふざけんな……私がこんなに愛してたのに……!」
叫びそうになりながらも、声は出ない。
ただモニターの前で、凍りついたように座り続けるだけだった。
―――――――――――――――――
五日目の夜。
黒住が静かに部屋を訪れる。
「ご契約の満了が近づいていますが……延長はお考えですか?」
ナナは苦い笑みを浮かべる。
「もう、とっくに歪んでる。これ以上いると、私、呪いになりそうだ」
「長期滞在は魂を蝕みます。未練が“執着”に変わり、あなた自身が“彷徨い”になってしまうのです」
黒住は冷静に諭す。
「……わかってる。でも、まだあいつを見ていたいんだ。ずっと」
ナナの瞳は濁り、焦点が定まらなかった。
ケンジは新しい彼女と笑い合い、楽しそうに過ごしている。
ナナの胸に渦巻くのは、嫉妬、憎悪、そして深い孤独。
「……あんな女、私より先に死ねばいいのに」
その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
ピシリとひび割れるような冷たい気配。
黒住は真剣な面持ちで告げた。
「それは“未練”ではなく、“呪い”です。あなたがその一線を越えると、魂は“彷徨い”になり、仮住まいではなくなってしまいます」
ナナは沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……帰るよ。あの世に」
―――――――――――――――――
チェックアウトの時。
ナナは最後にもう一度、窓の外のケンジを見つめた。
「……幸せになんて、ならないで」
呟いたその言葉は風に溶けて消えたと思われた。
しかし、その瞬間、ケンジが不意に背中を振り返った。
誰もいない空間に。
―――――――――――――――――
ナナの姿はゆっくりと光に包まれ、消えていった。
黒住は眉をひそめ、静かに呟いた。
「……あれは“成仏”ではなく、“封印”ですね。あの部屋はしばらく“空室”にはできません」
彼は棚の奥に、ナナの資料をそっとしまい込んだ。
そこには「要注意:再利用不可」と赤い文字が記されていた。
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