曇り空の殺人
クフ
曇り空の殺人
沈黙する二人。頭上には黒とも白ともつかぬ雲が均質に広がっていて、彼らはその下で蠢いている、さながら蟲である。元来一つであったのだろうが、分裂し汚れた四つの足を鈍色の土に縛りつけているのはまぎれもなくその中心にあったオリーブの、リンゴの、イチジクの、麦の、隙間から漏れ出た蜜である。かつて重力と呼ばれていたそれは今や混濁した泉となって彼らの渇きを癒している。彼らが泉の水を嚥下する一瞬だけ言葉の原型ともいえる空気の揺れを持つが、すぐに沈黙が広がった。互いが互いの風景であった。用が済むとリンゴを捥いで、齧る。あるいは麦の穂をしゃぶる。その間の二人の距離は密着寸前といったところで、またもその隙間から熱が発生するようになっていた。いわば空気中の微小な粒が無我夢中で走り回っているのとほとんど同じことであり、互いの剥き出しの産毛が絡みつこうとつくまいと問題にはならなかった。彼らは互いに背景であったからである。また嚥下する。雲が流れる。そのようにして夜にさしかかる。夜もある。ただそれはすこし暗かったのがもうすこし暗くなったというだけで、はっきり夜とわかるわけではない。彼らはその暗さと自身の疲れを同期させた。眠るという行為に限りなく近いこと、つまり身体を横たえて瞼を閉じること、要するに自分の視覚の及ばない面を土と接触するようにして雲を一時的な世界と見立てたのちに本格的な暗闇を受け入れるということが、どちらかがどちらかの真似をしたことで始まった。しかしそれもまた彼らの問題ではない。夜のあいだ、遠い西の彼方から、火をともなった風が運ばれてくる。それが彼らのゆりかごとなって、あらゆる植物を一夜にして消し去った。泉は残った。赤い夜である。そうしてすこし明るくなり始めると、ふたたび樹木と穂が何事もなかったかのように立ちつくす。上体を起こした二人はそれに一瞥をくれることもなく、ただ二つの脚と地面とを垂直につなげることに努めた。これが一日と対応する。つまりすこし暗かったのがもうすこし暗くなって、すこし明るくなって、すこし暗いのに戻るという流れのことを指している。雲も流れている。しかし均質であるために流れと認識することはできない。これは、たとえば先に示した一日、またはリンゴ一つを食べ終わるまでにかかる時間が経過したとき、ある特定の位置に存在していた雲の形状や層の厚さが同様であるということに依る。雲が流れているということは風の存在から導かれる事実に近いような推論であっても、彼らには自覚され得ない。ただ方法がないわけではない。二人と泉を中心にして、黒い地面の高く隆起したものがその周りを取り囲んでいるが、それを登って頂点に立つと、雲のどこかに隙間を見つけることができる。それが変化の点として唯一機能する。彼らもじつはその黒い影を見上げることがあった。というより日ごと見上げていた。赤い風が吹いたあとの一瞥はその場で蘇った死者ではなくむしろ、元から死んだまま動かないものに向けられていたのである。ところがこの影は登るということに対して最悪の形状を有していた。彼らの脚のように垂直であればまだ良かったが、影は地面から離れるごとに円の内側へ向かって反り返るように聳え立っている。この視覚的、空間的な威圧が彼らをして曇り空の一日の中にとどめさせているのである。彼らはしかし見上げる。見るということについて彼らはまったく自覚的ではない。すべては背景である。そして雲が動く。つられてオリーブの黒い実が数粒落ち、彼らの一方がその一つを拾って口に入れた。もう一方も同じようにした。その強烈な苦味ゆえに進んで食すことはなかったが、地に落ちればそれは口にするべきものとして暗黙の規範が共有されている。双方の口内では渋さから大量の唾液が生成され、種とともに泉の中へ吐き出された。等量の唾液と唾液が混ざり、濁る。その様子もまた二人が背景として観測する。透明な濁りが完全に溶け合うのを確認し、彼らの身体が泉に対して背面を向いた。同時にイチジクの木の蔓延りを目にしたが、これには手をつけなかった。赤い夜を経て蘇ったこの樹木は、まるで死んだことなど初めからなかったかのように泰然と、かつ迅速に根を伸ばす。ほかの樹木に比すれば背景の背景というべきものである。いわば希少性の価値、まれであるということについて無自覚な揺れの及ぼすものであったが、彼らはしかし手をつけないことに関する洞察をどこかで拒まれていた。むろん影である。黒い影である。そのうちに雲が流れた。これは火を運ぶ風を遮るのにまったく無価値であった。高低の基準として樹木のそれを用いれば、オリーブの木を数本タテに連ねたような高さであって、風と呼ばれるもの、いうなればある地点で押し込まれた空気の流れに緩やかな放物線をつくらせるのみである。すこしだけ持ち上がり、すこしだけ落ちる。その流れの先、二人の仰向いた身体が横たわっている。火の風は彼らの体毛の先端を焦がしながら進み、樹木や穂の一部に火の種を蒔いていった。燃え上がる麦がさらなる種を生み、彼らのうちどちらかの腹部に強いぬくもりを与え、仰向いたままのはずであった身体がどちらかの脇腹を地面と接触させた。ぬくもりとしての炎の夜である。黒い影の内に火があり、火の内に炎がある。また炎の内に彼らがあって彼らがそれに自覚的でないのと同様に、炎それ自体が火の内側にあることには自覚的であり得ない。これは火が黒い影を意識しないのと同じことである。ならばこその黒い影であったが、影は影自身を背景にしていたため、この側面においても無価値だった。雲が過ぎった。彼らはある一日とほとんど同じように瞼を開き、その直前にも植物がある一日とほとんど同じように、不可逆な蘇りを果たしていた。オリーブは苦く、リンゴは甘く、イチジクと麦はただの茫漠として。泉はそのままに、彼らは同時に黒い影を見上げた。その視線の角度を成立させるにあたって背面の髪の生え際を折らなければならず、そこまでは良かったものの二人のうちどちらかが、どちらかの瞼を瞬間的に閉じ、どちらかの手をその生え際に置いて、俯くという行動を強制された。つまりこの状況ではどちらかだけが黒い影を見据え、見上げているということになる。彼らはすぐにでもどちらかの行動を真似しなければならなかった。どちらかの手をどけて生え際の関節を背面に向かって反らせるか、どちらかの手を置いて生え際の関節を地面に向かって曲げるかである。しかしこの反るという行為は、どちらかには小さな組織の損傷にさらなる負荷を与えるものであり、結局どちらも黒い影から視線を外さなければならなかった。このとき真似をするには過剰な沈黙があった。かろうじて背景であったが、雲も流れた。オリーブの実の落ちる音を聞かなかったため、彼らは踵が地面につくのをすこし気にするような足取りで泉に向かった。両の手の端と端をつなぎ合わせ、指先から差し込んで、小さな器に水を満たした。隙間から水が漏れていくのを当然のこととしながら、器を持ち上げて口に流し込む。ところがこの動作においても、生え際のあたりを反らせるという段階が必須の条件であった。彼らのうちその日の最初に生え際の関節を曲げたほう、つまりそのあたりの組織に何らかの損傷を無自覚に与えたほうが、不自然な嚥下を行ったのである。まず手の付け根と下唇のあいだから、いつもより多量の水がこぼれた。これについて片方は気づいていなかった。続いて口内への侵入を許された一部の水は、喉奥の弁がいつものように作動しなかったことで気管に誘導された。しかしすぐに追い出すための機構が働き、喉奥の圧力が高まった結果、激しい勢いをともなって空気が外に押し出された。その口を通して。言葉でありかつ声の原型であろうものが強く空気を振動させ、その揺れがもう一方の身体に向かい、耳の奥をこれまでの平均よりも激しく震わせた。同時に肩を大きく上下させた。この二つの流れは双方の確実な背景として記録された。したがって、ふたたびこのどちらかの行為の真似、その実現可能性が彼らのあいだで暗黙のうちに検証されることになる。正確には双方の異なる行動を同時に再現するというものであったが、それでは同時に異なる行動をすること自体が永続し、真似をするということが成り立たない。彼らの身体は同時に固まるという結果に落ち着いた。しかし依然として無自覚である。雲はまだ動いている。リンゴの一つに炎が残っているのに気づいたのは肩を震わせたほうであったが、揺れは最小限にとどまった。それを捥ぎとって齧ると、途端に極度の熱をともなった冷たい蜜が口内を蹂躙し、吐き出すことを余儀なくされた。これは真似の対象となり、関節を曲げたほうも同様にリンゴを吐いた。齧りかけの赤い実が二つ転がる。流れる雲に沿うように、あらゆる抵抗を無視して転がり続ける。麦とイチジク、死と生の色を倒錯的に模した野を越えていく。やがて黒い影の根本にたどり着くと、二つの赤い実はあたかも止まったかのように見せかけた。相対の視線を持たぬ彼らの目はそれをただ絶対的な停止とした。二人のあいだでも停止に近しいものが存在していた。幾ばくかののち、分離した二つの蟲の脚が黒い影に向かって伸びる。赤い実とほとんど同じ軌跡をたどる。脚を交互に動かしているうち、腕の産毛が絡み合うだけでなく双方の皮膚に接触したがこれもまた問題にはならない。産毛の根元の筋肉が収縮したことについて、どちらも自覚的ではないからである。しかし雲はそのあいだにも流れ、二つの脚は極限地点に到達した。彼らの視線は真正面にあった。そこにはただの黒が広がっているのであった。ただ黒いものを見るというのは瞼を閉じることよりも見ないという行為に近い。二人はほとんど同時にどちらかの腕を伸ばしたが、その瞬間に腕の感覚というべきものいっさいが失われた。つまり感覚というのは触れた対象からの反応があって初めて知覚されうるのであって、たとえ何もない場所に手を伸ばそうとそこに大気がある限りは接触である。この黒い影は大気すらも受け入れていない。リンゴが停止したように見えたのは、黒い影がその運動の源であったものを受け入れなかったからである。このまま身体すべてを影に預ければ、彼らは彼らの構造そのものを失う。構造をつらぬくには何もしないことが不可欠となる。何もしない行動とはまさに火の風が放物線を描いて抜けていったのとほとんど同質である。彼らの目は黒のただ中にあった。黒を見ることが見ないということに限りなく近いのであれば、彼らはそのままでいなければならなかった。雲は動き、赤い夜が訪れる。風は遠い西の彼方からやってくる。西は東のことでもあり、どれのことでもなかったが、そのときはちょうど彼らの立ちつくしている場所が西となった。彼らの身体はいつもとほとんど同じ動作を経由して横になり、すこし明るい暗闇を受け入れるはずだったが、ほかならぬ黒い影がそれを不可能せしめた。幾度目になるのか、火を纏った風が反り立つ影を乗り越えるようにして、かつて彼らの横たわっていた場所を侵した。炎は火の内にあるという事実をそのままに、一日前よりも高く燃え上がった。二人の炎に対する無自覚は無自覚としての臨界を迎えようとしていたが、それもまた黒が抑えている。かまわず炎は彼らの身長を越え、影の高さを越え、雲に到達せんと慎重に伸び続けた。広がるのでなく、細く、積み上げるようにして。しかし炎のその一方的な方向性は、自滅的でもあった。炎の下で火が蠢いていたのである。火は炎の目をかいくぐって地中深くをさまよい、さまよううちにかつて重力と呼ばれていたものを発見した。泉というものであった。泉は火によって押し上げられ、噴き上がり、炎とは反対に上空のある一点で四方に分散した。その一点に向かって収束しつつあった炎は、その構造を維持していた熱を泉によって奪われ、同時に結合するはずであった空気中のとある微小な粒をも奪われたことで、雲へ向かって伸ばしていたものを着実にはがされていった。熱を抱えていた大気はそれとは逆に上昇し、冷やされ、雲の中では巨大な水の塊がいくつも生成されつつあったが、しかし雲は動いている。地面に接着する何物よりも速く、何物よりも遅く。黒い影のうちでは水の塊はついに落下しなかった。その代償としてか、燃えた植物はその日蘇らなかった。泉の水によって灰塵が押し流され、黒い影に到達してそのままになった。あるいは消えた。雲はなおも流れ、赤く輝いた夜は暗がりの昼になった。二人はその夜のあいだも、今も、黒を見つめ続けている。濁った泉が彼らの足元に到達する。泉は黒い影のうちで嵩を増し続け、やがて彼らの身体、髪の生え際から下をすべて覆ってしまうと、地面と彼らの足をむすびつけていたものをついに引き離した。重力は雲へと向かっている。彼らも黒い影を見つめながら、無自覚に影の上へと向かう。そのあいだの沈黙は何よりも深いものであった。曇り空の下にあるということがここまで無自覚に受け取られることはなかった。雲が流れている。雲が動いている。雲はあたかも止まっているかのように見せかけている。彼らの頭頂が反り返った天井としての影に接触しかけると、泉はすべてを出し尽くしたかのように上昇をやめた。そこは臨界のすぐ近くであって、これ以上は何も受け入れられないのであった。彼らは頭上の影に向けて腕を伸ばした。地面と接着していたときと何も変わらず、すべての感覚が失われる。同時に泉が緩やかに渦を作り始めた。火によって無理に押し上げられた重力が引き戻されようとしているのである。その流れとともに彼らの身体が円の中心に向かって後退するあいだ、影の天井が途切れ、そこでようやく彼らの目は、黒ではなく黒い地平となるものを認めた。もはやただの黒ではなくなった。それは曇り空と濁った泉との境界に位置しているのであった。二人はほとんど同時に、ふたたび腕を伸ばす。とらえられなかったはずの影の縁に指がかかった。それは接触ではなかったが、黒い地平の上には指を受け入れたうえで押し返す何かがあった。その何かこそ影である。彼らはついに黒い影の、その上の黒い地平に片足をかけ、もう片方の足も渦にとられそうになりながら、とうとう両方の足を地平に並べるに至った。ほとんど同時のことであった。二人は元来一匹の蟲であったかのごとく立ちつくしていたが、見ているものがまるで異なっていた。それはすこし前から続く、後ろ髪の生え際で発生した小さな組織の損傷が成したことで、損傷のあるほうは飲み込まれていく濁った泉を、損傷のないほうは曇り空を見つめていた。互いにとっての背景。背景であらねばならない。背景というのは特別に見ているものの奥からじっと見つめ返してくるようなものである。これまで彼らの見ていたのは何もないことそのものであり、無自覚そのものであった。それが今や、泉の奥にあるものと雲の奥にあるものそれぞれに見つめ返されている。皮膚が接触する直前の距離で隣に立ち、産毛を絡ませ、熱を生んでいることももはや無自覚ではなくなってきている。その熱は、身体の内部を身体の外形に沿うように上昇したが、彼らと同じように到達する寸前で立ちつくした。黒い地平の上で、あるいは彼らの肩の上で、何かを待っている。彼らも熱もそれなしには上昇できなかった。雲は流れ、泉は渦巻く。いずれもほとんど同質のものである。ただ最初からそこにあるという性質。終わりがないように見かける演出。視線の上下すら違いにはならない。あるとすればただ一点、その奥にひかえる背景が何物かということだけである。どちらも正体を明かすまいと動き続けていたが、大気の揺れが先の炎の反乱によって大きくなり始めている。それは空気を振動させるより前の、空気自体の引き起こした振動である。雲と泉、二人の視線にとらえられぬところで、どちらにも微小なさざ波が立った。そうして夜が訪れぬまま、次第に視線を固定することに疲れた二人。とくに一方はその視線を支えるに必要な組織を損傷していたために、片方の手を損傷した箇所に置いて、またもう一方は手の動作なしに関節を動かし、視線の角度が逆に交差した、その瞬間のことであった。
頭上の雲に隙間があるのを彼は発見した。雲と雲のあいだが途切れているから、隙間である。非常に小さな隙間であったが、彼はその中に明瞭な色を見て取ることができた。それは彼がこれまでに見てきたものより遥かに鮮明であり、寸分の濁りも許さぬような厳粛さをもって存在していた。影の黒もリンゴや炎の赤も樹木の葉の緑もそれには比肩しない。泉では透明が混じりすぎている。あれは異常な色である。この曇り空の下にいる限りは決して見ないものである。彼は言葉を持たぬまま、はじめてそう思うということを強制された。問題は色に限らない。その隙間は彼に見られるという感覚を与え、白い明るさの元にさらされるということを知らしめ、そのことによって彼のうちに走る血液という血液をざわめかせた。これを不安と呼ぶこともあるが、名前は問題ではない。否、そのうち問題になるであろう。この瞬間、黒い影のうちにあった構造が彼を呼んだのだから。その構造には自覚的になり得ずとも、彼は彼となってしまったからして、それの破壊されることを忌避しなければならない。あの隙間はこの身体というのを見ている。この身体とは今、生え際より下にある自覚的な異物にほかならない。彼はどうしてもその両手を見ずにはいられなかった。見られていることのざわめきを抱いたまま、彼は隙間に手の甲を重ねた。長い突起がいくつも生えた黒い何かの向こう側から、白い明るさが突起のあいだをすり抜けてくる。なんと奇妙なことであろう。白い明るさから彼を守るため、突起と突起のあいだの距離を縮めることも彼には可能であった。その黒い何か、いわば手というものを、彼はあまりに自覚的に操れるのである。この奇妙な事態は自覚的な運動にとどまらない。彼の肩の上でくすぶっていたはずの熱もとうとう上昇を許され、生え際を越えて頭部に侵入し、やがて前頭のあたりで強烈な違和感に変容した。彼は雲の隙間から視線を外さずにはいられなかった。横というものを見た。
そこには手と同じ数の突起と熱を持ったものが立っていた。彼の視線にはまるで気づかぬまま、雲に向かって伸びた丸い突起を前かがみにさせた、異常な何かである。彼はいつもこれを見ていたはずだったが、それはまぎれもなく背景としてであり、こうして特別に見るとあまりに奇特である。彼はそこにいるものが彼と似たものであるとはしなかった。彼と似ているとは彼と同じものを見るということであって、いまだ無自覚をつらぬき泉を見つめ続けるものが彼と同質であるはずがなかった。ならば何が最も近いかといえば彼の手になるであろう。しかし彼の手とは違い、彼の自覚によって操れるものではなかった。彼とそれは分裂しているのである。
彼はしばらくそうしていた。しばらくというのは泉の水が元の量になるまでの時間を指す。一日という物差しは風とともに黒い影の向こうに連れ去られた。オリーブもリンゴもイチジクも麦も、すべて灰塵となって泉に導かれている。かつて重力のいた場所へ。かつてというのが幻想であったのか、今と地続きの耐え難い過去であったのかは泉と曇り空だけが自覚している。火と炎の関係、そして発生についても同様である。
泉のあるほうに対して傾き続ける異常なものもやがて疲れてきたのか、彼の手と似たもの、とくに指にあたるものを小さく動かした。彼はその動きを的確にとらえた。この動きは隙間からもたらされる白い明るさによって、鈍色の地面に投影されている。黒い影の上に二つの影がある。
彼の身体を走るざわめきが大きくなった。隙間ができる前までは白い明るさなどなかったはずが、黒い影は最初から影としてそこにいる。このことは泉も曇り空も自覚していない。
彼に見られている異常の指は、すこしずつ持ち上がっていった。その動きと連動するように彼のざわめきも膨れていく。
黒い影はすべてを受け入れぬまま沈黙している世界の原型である。
自覚ということについて自覚するのは黒い影に限られている。
異常の指がふたたび黒い地平をとらえて平行になり、
彼の視線がそれをとらえてざわめきを増す。
雲の隙間もその事態をとらえようと、
下方からもあの色で侵食する。
それはなんという名で
あっただろうか。
異常の指
が空
を
見上げた瞬間、手がその背面を強く押した。あるべき場所へ戻っていった重力に吸い寄せられるようにして、一つの影が落ちていった。その途中で影そのものは黒い影に飲み込まれたが、その実体となるものは白い明るさによって維持され、リンゴか炎の色にすこし似た、泉の状態によく似たものを鈍色の地面の上に広げた。その様子はまるでイチジクの木が無造作に蔓延るがごとく、しかし背景というにはあまりに鮮烈であったから、黒い地平に立ち続けた影のほうは空のことなど忘れてそれに見入らざるを得なかった。特別となったのである。特別というのはひどく相対的で、場合によっては絶対的にもなる。あの異常に見つめてくる色に対して、死んだものの流す色は無自覚であること、見てしまうことを柔らかく受け入れるものであった。それはこの黒い影という世界の原型の内側で唯一生まれた、やさしさというべきものだったのだろう。しかし今や動く可能性をはらむ影は一つとなって、その頭上では隙間という構造すら保てなくなった空が均質に広がっている。白い明るさが完全に開放され、黒い影もその存在を維持できなくなってきている。黒い影は明るさによってではなく、暗いということによってしか構造を保てないのであった。矛盾した世界の原型は、地面と接着したように見せかけたところから次第に消えていく。泉と同じように雲のあったほうへと上昇し、黒を失い、そしてついには黒い地平へと到達した。一つの影の立っている地平の縁も当然例外でなく、地平が完全に消えた瞬間、最後の影も地に落ちて血を流した。やさしさとぬくもりの色が広がり、かつて唾液を混ぜたように、血と血が混ざりあい、混濁した泉に溶けて消えた。その泉もとうとう湧き出ることをやめ、残りの水は蒸発して大気に溶けていった。あとに残されたのは言うまでもない。しかしあえて口にするというのなら、まずはじめにこの一文字が必要になる。
「あ」
青空である。
曇り空の殺人 クフ @hya_kufu
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