第21話
時間になり、舞台の幕が上がる。
まるで、水槽の中にいるような感覚だ。
浮遊感のある視界に、ぬいぐるみの魚、海藻、岩、上下左右と方向感覚が狂う。
これが最後の試練だと予感がある。ただ最後という実感は湧かない。あくまで夢の中での出来事。
この世は蝶の見ている夢のようだと、昔の人は言った。自我というものは、本当は存在していなくて、過去、現在、未来など時間の連続体を無理矢理仕分けしているに過ぎない。
眼前で炎柱が上がる。前回の火のステージ配置そのものだった。
それはまるで炎の龍のように、大きくうねりを上げながら、炎そのものが黒薔薇の騎士に突進していく。騎士は盾で防ぐが衝撃を受け止めきれず、遥か遠方へと連れていかれていった。
炎の尾を引き、流れ星のように消えていく。あっという間の出来事で反応する間もなく、静寂が訪れる。
イグニスは参加者だった。しかし、今見た炎の魔人は理性のある存在とは思えなかった。
二頭の獣に喰われ、存在が変容してしまった者の元の人格、人間はどうなってしまうのか、先の光景を見るに想像に難くない。
「どうする? 追いかける?」
グラスが問いを向けてくる。プレイヤー対モンスター。離れてくれるのであれば、わざわざ首を突っ込む必要はない。
「いや、ややこしくなりそうだ」
「わかった」
グラスはその場に留まり、周囲を見回す。水中にいる魚を探す。
足にブレードを装着し、ステージを駆け始める。
見た目は水中にいるので、移動速度が低下すると思いきや、そんなことはなく、今までと同じは速さで景色が流れる。
偶に体当たりをしてくる魚を捌きながら、ステージを滑る。
水族館の通路を無邪気に走る子供のように、優雅に踊りながら、演目を奏でる。
雪の華が舞い散る。グラスの力が溢れ、水中に雪が降る。
さながら、宇宙に広がる星の海のように、きらめく星が宇宙を泳いでいく。
彼女には人を引き付ける演技をする魅力がある。
どうしてグラスは前に進むのだろう。目の前で人が変わる瞬間を目撃したと言うのに恐怖はないのだろうか。
「わたしはこれまで色んな人に支えられてきた。色んな人と競ってきた。戦って、勝って、負けて、落ち込んだり、喜んだりしてきた。才能や環境も違う人たちが切磋琢磨して、評価されるために勝負してきた」
彼女は空を見上げて。思いを馳せる。
「足を引っ張られたり、根回しされていたりしても、諦めずに努力を絶えず続けること。手が届きそうになくても、手を伸ばし続けること」
一度は諦めてしまった過去の憧憬をなぞるように。
「歩みを止めてしまったら、今まで関わってきた人たちの想いを裏切ってしまうから」
色んな人の想いを背負っていける強い人だった。
「ゆっくりでもいいから一歩ずつ確実に」
アルには、急にその背中が遠いものに思える。一緒に試練をクリアしてきたから勘違いしていた。
アルと彼女は別の人間なのだ。当たり前のことを忘れていた。
それは紛れもない強さなのだ。どんな重い荷物でも、気にせず持っていける人。
昨日よりも今日、今日よりも明日。流れ行く風のように、自然な速度で歩み続ける人間はいつだって美しい。
痛みも苦しみも全ては自分だけのもので、他人には理解のされないもの。
「グラスは強いね」
「そんなことないよ。私は一人だと歩けない。弱い人間だから」
自分の弱さを認められる事こそ強さの証だ。
「それに強いことって、本当にいいことなのかな? そもそも弱いってなんなのかなって思うんだ。数字として比べられるものがいっぱいある世界だけど、目に見えないたくさんのモノってあるはずだよね」
アルは考えてみたこともなかった。自分は無いものだらけで、無いものねだりがやめられなくて、失くしたものを追いかけ続けてきた。大事だったモノの面影をずっと見続けていた。
「わたしはわたしのままでいい。そう言ってくれる人がいるだけで十分。ありのままで進んでいける」
終ぞ自分には得られなかったものだ。今、この瞬間、ありのままを受け入れる。言葉にすれば簡単で、実行すると難しくて、どこまでも底抜けの穴に落ちていくようで、自分で自分の墓穴を掘っている気分になる。
アルは自分で無くなることが怖い。変わってしまうことが怖い。あんなに大事だと思っていた大切な記憶が日々薄れていくことが怖い。学生生活が終わり、大人の世界で生活することが怖い。何かを得て、何かを失う。そんな当たり前のことが僕の歩みを止める。
ただ真っすぐに進んでいくグラスの背中に引っ張られる。グラスの足を引っ張らないようにすること、それだけに集中するしかなかった。
試練のボス。ニーズヘッグ。巨大な紫色の蛇。龍が宙に浮いていた。
星の海を泳ぐ姿に圧倒される。
アルの左眼は行動パターンを把握する。
噛みつき、突進、尻尾、ブレス範囲攻撃、毒設置攻撃。
能力の強化が進み、未来予知の領域まで迫っている。パターンの分析ではなく、最善の方法への最短距離が光の道筋で照らされていた。
相手を見るのではなく、数ある未来を自分で選んでいく。
自分の能力と相手の能力を照らし合わせ、トップダウンとボトムアップで未来を模索していく。
もつれた情報の糸を解いて、計算し事象として確定していく。
そこに然したる危機はなく、全ては予定調和。既視感。
答えを知っている選択問題を解き続けているようなものだ。
それは戦闘ではなく、ただの試験だ。攻撃に対する解答をパターン化している。
感情の揺らぎはなく、淡々と処理をしていく。
結果を選んでいるのか、結果に選ばされているのか、境界が曖昧になる。
ニーズヘッグの身体が傷つき終わりへと近づく。
空間に氷の華が満ち、龍の身体に霜が纏わりつく。
雪が星の輝き、宇宙の海で踊る姿は、幻想的で空間を支配していた。
「終極ニブルヘイム・エリューズニル」
星の光が龍の身体に集まり、大きな氷塊となる。
それは氷の棺となり、相手を葬る手向けの華。
砕け散り、粒子が空間へと溶けていく。
終わりは呆気なかった。こうなることが必然であり、導かれているものである。
見上げた空が罅割れ、世界が落ちてくる。
天使が空から降りてくる。純白の翼をはためかせ、僕たちの前に降臨した。
夢の中で会った天使が目の前にいる。と言うことは、これは夢の中なのか?
「よく試練を乗り越えました」
空想の中でしか存在しない生物が微笑みを讃えて佇んでいる。
「ですが、これが最後ではありません。地、風、火、水、を治め、空に至る」
いままでクリアしてきた試練の属性を口ずさみ。
「アーカーシャ。願いを叶えるのはひとりだけ」
聖歌のように、祝福のように、連綿と紡ぐ歴史のように。
「本当の最後。アーカーシャの地でもう一人と戦って、勝利してください。それであなたの願いは成就されるはずだから」
暗転する世界の中。天使の歌声を聴く。
アルは自分の願いの輪郭ですら掴めずにいた。
雨夜の星が見える空 @mianya
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