第四話 予兆④
帝国暦1014年10月14日朝
フジシマ子爵領領都アスカ
領主屋敷 カガセ・フジシマ
城塞都市アスカ。
円形の優美な外壁を侍らせ、帝国街道の分岐点に座すその姿は、まさに領都と呼ぶにふさわしい佇まいだった。
東西南北に伸びる帝国街道はアスカで交わり、再び散ってゆく。
往古より、多くの人々がこの街道に船のように人生を浮かべ、流れ去っていった。
アスカの中心には、街の要ともいうべき手入れの行き届いた森が広がっている。その中に、水堀で囲まれた石造りの城館があった。
決して大きくはない。だが時の試練に耐えた重厚な姿は、見る者にある種の畏敬の念を抱かせるものであった。
城館には中庭があり、朝には鳥たちの楽園と化しているが、しかし今、その空間を一つの黒い影が支配していた。
朝の清澄な空気を胸いっぱいに吸い込む。
心を研ぎ澄まし、絞り込んで、頂点に達した瞬間、白刃が閃いた。
ゆったりと振り上げ、雷光の如く斬り下ろす。重ねるたびに、無に近づいてゆく。
静寂に裂帛の気が満ち、神秘とすら見紛う結界が作られていた。
鎮守の森の鳥たちさえ、さえずりを忘れたかのような静謐さ。
どれほどの時間が流れただろうか。やがて荒ぶる刃は涼やかな金属音一つを残し、鞘へと吸い込まれていった。
鬼気が消え、さえずりの戻った中庭には一人の男の姿がある。
歳の頃は三十ほど。鍛え上げた肉体を黒色の軍装に包んでいる。瞳も髪も黒一色で、暗色で統一された外見はやや剣呑な雰囲気を放っていた。
益荒男。そんな形容がふさわしい偉丈夫であった。
「ミツキ、随分熱心に見ていたようだが鍛錬なぞ見ても面白くなかろう」
外見に違わぬ深い、だが愛情を感じさせる優しい声だった。
「兄様の剣はとてもきれいです。少しもつまらなくなんかありません!」
元気よく答えたのは、末の妹のミツキだ。今年で十になる。
親父殿が四十を過ぎてから出来た子供だが、年上の兄弟たちによく懐いている。
親父殿は、一昨年の流行り病であっけなく逝ってしまったがその分も含めて一族郎党から可愛がられている少女だった。
くりくりとよく動く、木の実のような瞳が愛らしく、今も子犬のようにまとわりついてくる。
「そうか、俺の剣はきれいか。ミツキにはそう見えるのだな」
「はい、まるでお空の彼方に挑んでいるように見えました」
二パッと笑って、俺の周りを楽しそうにくるくると回っている。
空に挑む、か。
まだ幼いのに、なかなか鋭いところがある。
よく見た褒美に撫でてやろうとすると、ぱっと飛び退いて距離を取られた。
「兄様……、少し汗臭いです。まずはお体をきれいにしてください」
べーと舌を出し、軽やかに踵を返し、館に戻っていく子燕。
少々、配慮が足りなかったか。子供とはいえ女子は女子。今後は気をつけるとしよう。
まずは館に戻って、水浴びするとしようか。
◆◆◆
頭から水を被り、服を着替えると、ちょうど朝食の頃合いとなった。
樫の木でできた頑丈な扉を開け、食堂に入るとすでに家族が揃っており、軽い非難の眼差しで出迎えられた。
どうやら少々遅れてしまったらしい。
年を経て深い艶を宿したテーブルにつき、右手を挙げ謝意を示す。子どもたちのお預けを食らった犬のような有様を見て、思わず笑いかけたが、咳払いでごまかす。
テーブルに着いている家族を見回す。
まずはお袋殿。
なかなかの良家の出で、しゃんと背筋を伸ばして座る姿には気品がある――ような気がする。
中身は肝っ玉母さんで、俺や下の弟のアコウは悪戯をするたびに引っぱたかれていた。
次に、弟のアコウ。
まもなく二十七になる。長身だが、少しひょろりとした掴みどころがない男だ。フジシマ一族は武門ゆえに厳しい訓練を課されるのだが、不思議と身につかない。
その代わりだろうか、俺なぞ及びもつかぬ悪知恵の泉を持っている。
子供の頃の悪戯は作戦立案アコウ、実行は俺というのがお決まりだった。
なぜか、お袋殿から折檻されるのは俺だったが。
そして、ミツキや俺とアコウの妻子が並ぶ。
いずれもフジシマの次代を担う希望の子どもたちだ。可愛くて仕方がない。
「おはよう。みな揃っているな」
「おはようございます。お館様」
一族の揃った挨拶が朝の食堂に響く。
「待たせたようだな。では朝餉としよう。天空神と祖霊に感謝を」
「天空神と祖霊に感謝を」
言い終えるや否や、子どもたちが芋とソーセージの煮込みに群がった。
わいわいと騒ぐ子どもたちをミツキが仕切り、順番に椀によそっていく。
芋とはいえ、子どもたちに腹いっぱい食べさせてやれることで心が温かくなる。
北方で栽培されていたこの芋は、ある隊商が持ち込んだものだが、寒さに強く荒れ地でも育つため、もう一つの芋と共に食料生産の主力となっている。
非常に有用な植物だが、芽が出た部分を食べると中毒(あた)るため、他の領では栽培されていない。
もう一つの芋は、寒さに弱いため夏しか栽培できないが、放置していてもそれなりに収穫できるのが利点だ。
おまけに、岩室に入れておけば長持ちするし、干しておけば芋がらも食べることができた。これは南方の少領から入手したものだ。
この二種類の芋が、フジシマ領の食料生産を支えていた。
三年にわたる天候不良で多くの近隣領が飢えに苦しむ中、我が領には食料を輸出する余裕があった。
家臣や領民たちを食わせる――。
藁にも縋る思いで導入した新作物の恩恵は大きかった。
だが、その恩恵が大きいほど、周囲の妬みもまた大きくなるのは必定だった。
妬み、そして食いつなぐため食料と交易利権を奪おうとする近隣勢力との小競り合いは、増加の一途を辿っていた。
小競り合いの他にも、東辺境伯のシーカイ殿や西辺境伯のアウグスト殿から、折に触れて誘いがある。傘下に入れば庇護を約束するというものだ。庇護といえば聞こえはいいが、それを受けたが最後、全ての利権や食料を供出させられ、一臣下として扱われるのは目に見えている。
フジシマの血と慟哭で築き上げたこの領地を、一族の誇りを、そう容易く手放すことなどできようはずもない。
「そういえば兄上、そろそろではないですか?」
主語を省くのは、アコウの悪いクセだ。どうもこいつは、相手も分かっていて当然という意識があるようなのだ。
「アコウ、いつものことだが明確に話せ」
「おっと失敬」という表情で、アコウが話を続ける。
「東部、シンウィの件です。おそらく、もう決着がついている頃でしょう。マキシマ少佐は練達の指揮官ですし、魔導兵までついているのですから」
その通りだろう。
侵入と略奪を繰り返すシンウィの賊どもが、まとめて兵を動かすとの一報が入り、今回は見せしめとして壊滅的な損害を与える、と決めた。
そのために貴重な魔導三個小隊と魔晶石をマキシマに預けたのだ。ここで徹底的に叩き、他のネズミどもに見せつける。非情ではある。シンウィ兵もまた、帝国の民にほかならぬのだから。
だが、俺はフジシマの長なのだ。一族と領民、そして祖霊たちへの責務がある。今日を生きねば明日は来ない。
「ああ、マキシマならやるだろう。決着がついたなら、すぐに駅伝で知らせを送ってくるはずだ」
言霊になったというわけでもなかろうが、中庭の方が騒がしくなる気配がした。馬のいななきが聞こえる。
思わずアコウを見る。
「おや、想定外」という顔で、飄々としたものだ。
「どうやら待ち人が来たようだ。アコウ、一緒に来い」
口を拭い、すぐに執務室へ向かう。
アコウが食べかけのパンを口に押し込み、慌ててついてくるのが見えた。
◆◆◆
伝令証をかざしながら二名の兵が執務室に駆け込んでくる。
戦塵にまみれ、息を切らしながらも、その表情は喜びに輝いていた。
軍の伝令は常に二名一組で運用している。突発事態が発生しても、どちらか一方が生き残って職務を遂行するためだ。また、伝令証を持つものは誰何されることなく往来できるよう定めてもいる。
教範に即した、良い伝令たちだ。
「お館様、伝令にございまする!」
「うむ、申せ」
一つ頷き、報告を促す。年若の兵が報告するようだ。
大きく息を吸い込んだ後、一気呵成に言葉を吐き出した。
「発、東部防衛大隊司令部。宛、本営総司令官閣下。10月13日14時、ソナン丘陵付近の帝国街道上にて増強大隊規模のシンウィ軍と会敵。これを撃破いたしました。敵の損害は死傷およそ四百。味方は負傷二十名、死者はありません。戦況報告は以上であります!」
軍事的には敵は全滅と判定できる。味方はほぼ無傷であり、結果としては最上と言えるだろう。さすがマキシマ少佐だ。思わず執務机の下で拳を握りしめる。
だが、伝令には続きがあった。
「続いて、マキシマ少佐から文をお預かりしております。ご査読頂きますよう、とのことです」
恭しく、封印された包みを差し出す伝令兵。
わざわざ封緘して送ってくるとは。あまり良い予感がしないが、しかと受け取った。
「報告、大義であった。下がってゆっくり休め」
静かに退出していく伝令兵たち。
その二人に続いて、何気なく執務室を出ていこうとするアコウが目に入る。こやつは!
「アコウ、どこへ行く?」
「ええと、少々厠に……」
本当にこやつは……。
「こちらに来い。腕を貸せとは言わんが、知恵は出せ」
封筒をひらひらさせると、仕方なさそうにアコウが部屋に戻ってくる。
さて、封を開けるとするか。
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