第2話 いつもの通学路

「「いってきまーす」」


 俺と陽菜ひなの声が、綺麗にハモった。

 これも、物心ついた頃から繰り返されてきた、俺たちの日常の一コマだ。


「陽菜ちゃん、行ってらしゃい。いつもカケルがお世話になってます」

「おばさん、おはようございます! こちらこそ、いつもお世話になってます!」


 俺の母親が、陽菜に声をかける。陽菜は満面の笑みでそれに答え、ぺこりとお辞儀をした。うちの母親は、俺よりも陽菜のことを娘のように可愛がっている節がある。


「陽菜ちゃんは今日も可愛いわねぇ。それに比べてうちの息子は……カケル、あんたまた寝癖ついてるわよ」

「うっせ、今直す」


 母親からの容赦ない指摘に、俺は手櫛で乱暴に髪をかき上げる。

 そんな俺たちのやり取りを見て、陽菜は「ふふっ」と楽しそうに笑っていた。その笑顔が、春の日差しを浴びてキラキラと輝いて見える。


「じゃあ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい。二人とも、気をつけてね」


 母親に見送られ、俺たちは並んで歩き出す。

 桜並木が続く、見慣れた通学路。数日前まで満開だった桜も、昨日の雨でだいぶ散ってしまい、ピンク色の絨毯がアスファルトを彩っていた。


「桜、もう終わりだね」

「だな。今年は二人で花見、行けなかったな」

「しょうがないよ。カケルは部活の練習試合だったし、私も大会前だったし。また来年行こうよ」


 来年の約束を、陽菜は当たり前のように口にする。

 その「当たり前」が、俺の胸を少しだけ温かく、そして少しだけチクリと締め付けた。来年も、俺たちはこうして隣を歩いているのだろうか。


 陽菜は少し残念そうに言いながら、ひらひらと舞い落ちる花びらを一枚、手のひらで受け止めた。その何気ない仕草が、なぜかやけに綺麗に見えて、俺は思わず目を奪われる。


(……やべぇな、俺)


 最近、本当にどうかしている。

 陽菜のふとした表情や仕草の一つひとつに、心臓が妙な音を立てるのだ。


 今朝だってそうだ。

 俺を起こしに来た陽菜の、ブラウス越しの胸の膨らみに、どうしようもなく視線が吸い寄せられてしまった。

 家族同然の幼馴染に、そんな邪な感情を抱いているなんて、知られたら軽蔑されるに違いない。俺は必死に頭を振って、雑念を追い払った。


「そういえば、今年も同じクラスで良かったよな」

「うん、ほんと! また一年よろしくね、カケル」

「おう。よろしく」


 そうだ。俺たちは、高校二年生になっても同じクラスだった。

 健太けんたれん、そして陽菜の親友である結城ゆうきまいも一緒の、二年五組。

 文化祭とかの面倒なイベントも、こいつと一緒ならまあ、なんとかなるだろう。


「健太くんも橘くんも一緒だし、賑やかなクラスになりそうだね」

「だな。陽菜も舞と一緒で良かったじゃん」

「うん! すっごく嬉しい!」


 陽菜が本当に嬉しそうに、くるりとその場で一回転した。

 その拍子に、ふわりと舞ったスカートの裾から、白い太ももが一瞬だけ覗く。

 俺は慌てて視線を逸らした。


 心臓に悪い。本当に、悪い。


「お前な、あんまりクルクル回んなよ。危ねぇだろ」

「えー、なんで? 別にいいじゃん」

「よくねぇよ。……ほら、足元とか見ろよ」


 俺がそう言った、まさにその時だった。陽菜が楽しそうに話しながら、ふと足元の桜の花びらが固まった場所で、つるりと足を滑らせた。


「うわっ!」


 短い悲鳴を上げた彼女の肩を、俺はとっさに掴んで支える。

 俺の腕の中に、すっぽりと収まる陽菜の身体。驚くほど細くて、柔らかくて、そして、甘い匂いがした。


「だ、大丈夫か?」

「う、うん。ごめん、ありがとう……」


 腕の中で、陽菜が顔を赤くして俯いている。

 支えた俺の手に、彼女の肩の華奢な感触と、ブラウス越しの体温がじかに伝わってきて、俺の顔にも熱が集まっていくのがわかった。


「……もう、離してくれていいよ」

「あ、あぁ、悪い」


 俺は慌てて陽菜から身体を離す。気まずい沈黙が、二人の間に流れた。





 心臓が、今にも口から飛び出しそう。

 カケルに抱きしめられた。


 ううん、違う。支えられただけ。不可抗力。わかってる。


 わかってるけど、彼の腕の中にすっぽり収まった瞬間、時間が止まったみたいだった。

  がっしりとした胸板。私なんかよりずっと広い肩幅。

 いつも隣で感じているはずなのに、こんなに近くで感じたのは初めてで。カケルの匂いがして、頭がクラクラした。


(ダメだ、私。顔、絶対赤い……)


 俯いたまま、カケルの顔が見れない。彼もきっと、困ってる。


 ただでさえ女子と話すのが苦手なのに、こんなことになったら、もっと気まずくさせちゃう。早く、いつもの私に戻らなきゃ。


「……もう、カケルは心配性なんだから。ちょっと転びそうになっただけだって」


 私は努めて明るい声を出し、誤魔化すように笑ってみせた。

 カケルは「お前がドジなだけだろ」とぶっきらぼうに返してきたけど、その耳が少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


(カケルも、少しはドキドキしてくれたのかな……)


 それだけで。沈みかけていた心が、またふわりと浮上する。単純な私。


 しばらく歩いていると、向かいから同じ制服の女子生徒が数人、きゃっきゃと楽しそうに話しながら歩いてきた。

 友人たちの楽しそうな声が聞こえて、私は少しだけホッとする。

 カケルと二人きりだと、どうしても意識してしまって緊張するから。


「あ、陽菜おはよー!」

「みんなおはよー! 今日、委員会だよね? よろしくね!」


 私は友人たちに気づくと、パッと表情を明るくして手を振った。

 彼女たちの視線が、私の隣にいるカケルに向けられ、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべているのがわかる。


(……絶対、また勘違いされてる)


 カケルが居心地悪そうに、私から一歩距離を取ったのがわかった。 さっき、あんなに近くに感じたのに。

 たった一歩。ほんの数十センチ。

 でも、その距離が、今の私にはまるで、深くて渡れない川のように感じられた。


(……まただ)


 カケルのこういうところは、今に始まったことじゃない。

 学校で他の子たち、特に女子がいる前だと、彼は決まって私と少し距離を取る。


 きっと、彼に悪気はない。ただ照れくさいだけで、私たちが付き合っていると勘違いされるのが嫌なだけ。

 わかってる。頭では、ちゃんとわかってるんだ。

 でも、心が勝手に痛くなるのは、どうしようもなかった。


 まるで、「お前とはただの幼馴染だから」って、たくさんの人の前で線を引かれたみたいで。


「陽菜ちゃん、また桜井くんと一緒なんだ。ほんと仲良いよねー」

「付き合っちゃえばいいのにー」


 友人たちのからかうような声に、私は笑顔で「もー、違うってば!」と答えながらも、内心では泣きそうだった。

 違う、なんて言いたくない。本当は、「そうなれたらいいな」って、喉まで出かかっているのに。


 友人たちと別れ、再びカケルと二人きりになる。

 さっきまで賑やかだった空気が、少しだけ気まずいものに変わった気がした。

 沈黙が怖い。何か話さなきゃ。


「……今朝もいったけどさ、カケルはさ、もうちょっと身だしなみに気を使ったら、絶対もっとカッコよくなるのに」


 絞り出したのは、そんな言葉だった。

 本当は、今のままの、無頓着なカケルが一番好き。他の誰にも、彼の魅力に気づいてほしくない。でも、そんなの、私のただのワガママだ。


「は? なんでだよ」

「だって、素材はいいんだから。その無造作な髪とか、ちゃんとセットしたら、絶対みんな見る目変わるって。彼女とか、できるかもよ?」


 お願い、ここで「別にどうでもいい」って言って。

 「陽菜がわかっててくれればいい」なんて、そんな都合のいい言葉は望まないから。

 せめて、他の女の子の視線を、気にしないで。そんな祈るような気持ちで、私はカケルの横顔を見つめた。





「……いらねぇよ、別に」


 俺はぶっきらぼうに答える。

 他の奴らにどう見られるかなんて、どうでもいい。

 そもそも、陽菜以外の女子に、カッコいいなんて思われたいとも思わない。


 俺の隣には――。


(俺の隣には、お前がいれば、それで……)


 そこまで考えて、俺はハッとした。

 今、俺は何を考えた? まるで、陽菜が俺の彼女であるかのような、そんな独占欲にも似た感情。

 それは、これまで感じたことのない、ドロリとした熱い何かだった。

 心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。

 自分の内側から湧き上がってきた、得体の知れない感情に、俺は狼狽えた。


「……カケル?」


 俺が急に黙り込んだのを、陽菜が不思議そうに覗き込んでくる。

 その大きな瞳と目が合って、俺はさらに動揺した。


「あ、いや、なんでもねぇ」


 俺は慌てて誤魔化すように、歩くペースを少し早めた。

 これ以上、陽菜の顔を見ていられない。自分の汚い独占欲を、この澄んだ瞳に見透かされてしまいそうだったから。


 やがて、学校の校門が見えてきた。

 昇降口を抜け、俺たちは二年五組の教室へと向かう。廊下を歩く間も、俺の心臓はうるさいままだった。


 教室のドアの前で、陽菜が立ち止まる。


「じゃあ、また後でね」

「おう」


 陽菜は「舞ー!」と声を上げながら、教室の奥で手を振っている友人たちの輪の中に、ぱたぱたと駆け寄っていく。

 その小さな後ろ姿を見送りながら、俺は自分の席へと向かった。


 たった三十分ほどの、いつも通りの通学路。

 それなのに、今はまるで、一キロを全力疾走した後のように心臓がうるさく、息が上がっている。


「……はぁ」


 これから始まる長い一日に、俺は早くも疲れを感じていた。

 同じ教室で、俺は陽菜の顔を、まともに見ることができそうになかったからだ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る