蛇と天秤 ―Solid ghost, Liquid roses―

夜未一白杜

序 氷霧都市

 ユストゥスは、夏を知らない。

 彼の住むこの街には、冬しか存在しないからだ。

 凍てつく白煙に包まれた氷霧の都市ゼニス。その空は鈍色。


(なつ、か)


 ユストゥスが想う”夏”とは、遠い国の名のようなものだ。

 伸ばす手も届かぬ、切れることなき雲向こうには、本当に光が溢れているのか。

 鉄の蓋が覆いかぶさったような天を、ユストゥスは見上げた。

 

 違う――あの子は、こんな重い空にはいない。

 

 鬱屈に少年は瞼を半分伏せる。とたんに胸の奥へと、冷たく硬いものがことりと転がり落ちた。

 午後が深まり、湖の水面に都市の影が映りこんだ。虚像を裂いて船は西へ東へ、円環湖は大陸を巡りまた戻る。


 湖の内陸部に霧の森があった。そこは虚妄が孕んだ幻影の棲む、人のことわりが通じぬ異界だ。

 滾々こんこんと。

 いまや万象に浸透する“霊昿れいこう”は、かの森の最奥より世界へと溢れ出ていた。


 ぴゅるるぅ。

 掠れた笛を思わせる音が、ユストゥスに顔を上げさせた。

 碧い瞳に映る空に、小さく光るものが見える。空を泳ぎ渡る小さな魚たちの群れ。ユストゥスは細い眉根を寄せた。


雨魚あまうおだ。そろそろ、戻ったほうがいいかな)


 現象種。この都市では珍しくもない霊昿生物だ。

 誰かの願い、影への恐れ――そうしたものが、“霊昿れいこう”に触れると形を持つのだという。脆い幻が、ときとして現実にひびを入れ歪める。

 空を泳ぐ魚、歌う獣。霊昿がもたらす虚な“現象きせき”。


 世界は補完されていた。


 氷雲の向こうの光を映した霊昿が、ひそやかに夜と昼の狭間を引き裂く。幻陽を受けた湖は、金と橙が入り混じる帯となり流れていく。

 下の広場から、子供に帰宅を促す声が次々と聞こえてきた。ユストゥスはつい、膝を抱えて背を丸める。

 

 一番好きな色、一番嫌いな時間。

 首に巻いた帯布から下がる小さな琥珀石を、彼はそっと握りしめた。こうすると不思議なことに、心安らぐ香りが石から立ち昇ってくるのだ。


「ねぇ、君は今どこにいるの。夏の空?」


 ユストゥスは脳に刻みついた記憶を黄昏に重ねる。

 風を孕んだ旗のごとく膨らみ、世界を幾重にも包み込んだ、大きな薄布のような翅。それは夕陽と同じ、澄んだ琥珀色をしていた。

 

(ずっと。ずっと探しているのに、見つからない)


 推定四歳、夢か現実かすら定かではない記憶だ。

 だが、記憶に棲む琥珀の翅の持ち主を、ユストゥスはずっと追い求めていた。

 

 ベッドの下、地下を流れる水路、廃棄された塔。

 こんなところにいるはずもないと思い、何度も足を止めた。

 それでも、ユストゥスはまだ彷徨い続けている。失った宝玉を求める竜のように。


 本当は知っている。

 この冬の街には、もういない。

 きっと、“夏”に帰ってしまったのだ。


(僕を置いて)


 その考えは少年の心臓をきゅっと締めつけた。ユストゥスは眩しすぎる記憶を、そっと胸の底へと沈める。

 

 小さな琥珀とその色の記憶。

 それだけが自分のもの、ほかは何も持っていない。


 ユストゥスの最初の記憶は、重い靴音と金属の管に覆われた天井や壁に始まる。

 朧な人影、重なり響く声、そして溢れかえる光。思い出すなり、目の奥に刺されたような痛みを感じ、ユストゥスは眉間に二本、指を押し当てた。


「この街に確かにいたんだ、間違いなく。僕は」


 とても美しい生き物と出会った。

 それは、まだ彼が「ユストゥス」になる前の物語。


「あのとき、僕は――亡霊だった」


 風が塔群を抜け、金の髪をなぶる。

 幼い少年は小さな手に琥珀を握りしめると、夕霧に包まれ始めた街を見つめた。


 そこに彼女がいるかのように。

 黄昏の空を切り出したような、琥珀の翅をまとうもの。


「僕は、本当は知っているのかもしれない」


 君の名前を。

 吐いた息が白く散る。

 頬を刻む北風から、仄かに花の香りがしたことに、ユストゥスは気がつかない。




 三年前――星環暦1717年冬。

 天秤は、すでに傾いていた。

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2025年12月12日 12:12

蛇と天秤 ―Solid ghost, Liquid roses― 夜未一白杜 @siraz

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