短編集
mk-t
理科室の彼女
うなじだった。
顕微鏡を覗き込んだ彼女の、静かなそのうなじに、言いようのない熱が生まれた。
セーラーの襟元からすべり出た肌。白く、細く、かよわくて――触れたら壊れてしまいそうだった。
それなのに、見ていた。
いや、見ずにはいられなかった。
髪が片側にだけ流れている。肩をなぞるように垂れたその流れに、もし頬を埋めたら――
どんな匂いがするのだろう、と、ふと思った。
石鹸のような、いや、それとももっと、彼女そのものの匂い。
その想像に、自分の背中がぞくりと冷えた。
こんなこと、思っていいはずがない。けれど、止められなかった。
指が、顕微鏡のピントノブをそっと回していた。
骨ばらず、なめらかで、器具に寄り添うような指先。触れているのは金属なのに、その動きがどこか――優しくて、艶めいていた。
そして、口元。
わずかに開いていた。観察に夢中なだけの、気の抜けた開き方。
けれどその隙が、喉の奥をじりじりと焼いた。
あの口で名を呼ばれたら、どんな声が漏れるのだろう。
いや、そうじゃない。ただ、その唇の温度を、ふいに味わってみたくなっただけだ。
胸元には、藍色のリボンが結ばれている。
息づかいに合わせて、わずかに上下する。
結ばれているはずのその中心が、なぜか、ほどけかけて見えた。
中身を見せるつもりなどないのに、どこか、誘うような気配を纏っていた。
馬鹿だ。
オレは何を見てる。何を考えてる。
理科室の隅で、彼女はただ観察しているだけなのに。
それなのに、自分の視線は――這うように、そこから離れられなかった。
ふいに、彼女が顔を上げた。
目が、合った。
その一瞬で、何かが体内で焼きついた。
咎めるような――いや、そんなはずはない。ただの偶然。
……でも、彼女の目は、少しだけ長くこちらにとどまった。
何かを、探るように。
視線を逸らさずにいれば、言葉をかけられたかもしれない。そんな気がして、余計に動けなかった。
それでも、目を逸らせなかった。
責められているはずなのに、余計に見たくなってしまう。
その感情が、自分の奥底からずるりと這い上がってきた。
*
昼休み、教室。
ざわつく音のなかで、オレの耳が拾うのは、たった一つの声だった。
彼女がいた。あの、理科室の彼女。
やわらかくて、湿り気を帯びた声。
笑うとき、ほんの少し息が混ざるのだ。その響きが、耳の奥を甘くくすぐる。
ただ話しているだけなのに――
その声だけで、思考の芯がじんわりと溶けていくようだった。
彼女が立ち上がった。
その動きにあわせて、スカートがふわりと揺れた。
ただの制服、ただの布なのに、目が奪われる。
理科室の熱がまだ抜けきらないまま、喉が鳴る。息がうまくできない。
まさか、まさかこっちには来ない――
そう思ったときにはもう、目の前まで来ていた。
彼女が、しゃがみ込んだ。
制服の袖が視界を掠める。髪が揺れて、耳にかけられる。
何でもない仕草のはずなのに、その一連の動作に、また呼吸を忘れた。
伏せたまつげ。頬の線。ふと見えた、つむじ。
その小さな一点までもが、妙に美しく見えて、ぞっとした。
机の下に落ちていた、ひとつの白い消しゴムを拾い上げて、彼女が言う。
「これ、あなたの?」
見上げた彼女の唇が、艶をまとっていた。
さっき塗り直したのか、グロスの光が唇の上でわずかに反射して、また沈む。
その動きに、目が釘付けになる。
「あなた」と呼ばれた瞬間、心臓が妙な跳ね方をした。
それは呼びかけというより、試すような声音だった気がした。
もし、気づいていて――確かめるために、わざと訊いてきたのだとしたら。
彼女の手が、消しゴムをそっと差し出してくる。
見た瞬間、これはもう“心”だと思った。
それを拾われてしまったような、あるいは、手のひらで心臓を撫でられているような、そんな錯覚に襲われた。
喉が焼けたまま、言葉が出ない。
頷くだけで、ようやく意思を伝えた。
手を伸ばす。受け取る。
――指は、触れなかった。
けれど、触れなかったからこそ、想像が走った。
もし、あのとき少しでも指が重なっていたら。
オレはきっと、その手を離せなかった。
彼女の体温に、自分を溶かしてしまっていたかもしれない。
……でも、違う。
ただ見つめているだけじゃ、もう足りない。
彼女の目に映るだけでなく、声をかけてみたい。名前を呼びたい。
そんな気持ちが、胸の奥でじわじわと膨らんでいる。
消しゴムをポケットにしまいながら、オレは初めて、声の出し方を考えはじめた。
短編集 mk-t @mk-0808
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