第9話 誰かのためじゃなく、自分のために泣きたかった

「……最近、佐倉さんと青木さん、話してなくない?」


同僚の由美がぽつりとこぼした。


たしかに、話していない。


あの階段の出来事から、私と青木さんは、必要最低限の挨拶しか交わさなくなった。


彼が避けているわけでも、私が避けているわけでもない。


でも、どちらからも距離を縮めようとはしていなかった。


間に、目に見えない壁ができたみたいだった。


◇ ◇ ◇


家に帰ってから、鏡の前に立つ。


髪をほどいて、メイクを落として、パジャマに着替えた自分の姿。


そこには、誰の期待もまとっていない“本当の私”がいた。


私は、泣きたくなった。


誰かに見せるためじゃない。


誰かに慰めてほしいわけでもない。


ただ、自分のために、泣きたかった。


自分のことを、ずっと後回しにしてきた。


嫌われないように。

好かれるように。

怒られないように。


そのたびに、感情を飲み込んできた。


でももう、そうやって生きるのは、ちょっとだけしんどい。


そんなふうに思い始めている。


◇ ◇ ◇


次の日の昼休み。


スマホをいじっていたら、ふとカメラロールに、誰かに撮られた笑顔の自分の写真があった。


多分、送別会のときのもの。


写っている自分の笑顔は、どこか他人のように見えた。


「このときの私は、誰のために笑ってたんだろう」


そう思ったら、胸が痛くなった。


でも同時に、ふと思った。


「これからは、自分のために笑いたい」


それって、きっとわがままなんかじゃない。


生き方を選ぶって、そういうことかもしれない。


◇ ◇ ◇


退勤後。


エントランスで青木さんとすれ違った。


目が合った。


一瞬、なにも言わずに通り過ぎようとしたけれど──


「佐倉さん」


呼び止められた。


「……このあと、少しだけ時間ありますか?」


心臓が、ドクンと鳴った。


その一言に、何かが動き出す予感がした。


(つづく)

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