最後の夏

日暮ひねもす

最後の夏

 平成最後の夏は、高校最後の夏だった。


 八月。夏休みも後半に差し掛かった、ある日のこと。太陽の光を受けたアスファルトには、ゆらゆらと蜃気楼が浮かぶ。ただ、その暑さすらも飲み込んでしまいそうな空の青さと、入道雲とのコントラストが目に眩しい。片耳につけたイヤホンからは、今年の記録的な猛暑への注意喚起が流れ続けていた。

 十分ほど前にコンビニで買ったアイスとペットボトルの水が、自転車の籠で揺れる。

「暑っ……」

 思わず口をついて出たその言葉は、僕の周りの気温を更に数度上げたかのようだった。言わなければよかった、と悔やんで、ペダルを強く踏む。

 昼間の筈が、どこか日暮れのように薄暗いトンネルを抜け、人気のない道を漕いで行く。いつから手入れがされていないのか、バス停の時刻表示は伸びきった雑草に隠され、とても読めそうにはない。確か、ここは学校の最寄りの停留所だったと思うのだが。

 そんな、田舎にはありがちとも言える光景を横目に左折すると、僕が通っている高校の校舎が視界に飛び込んできた。


自転車を停め、コンビニのレジ袋を持ち上げる。ガサガサと音を立てた袋からは、少しだけ冷たさが伝わってきた。

校門から、校舎全体を見渡してみる。これだけ暑い上に立地も悪いのだから当然かもしれないが、生徒は一人しかいないようであった。まあ、予想通りだ。

 校舎の正面に位置する花壇では、園芸部が育てているのであろう向日葵が、眩しいくらいに咲き誇る。向日葵から視線を下ろすと、カメラを構えて低い姿勢をとっている、たった一人の生徒がいた。

 白いセーラー服が汚れてしまう心配もよそに、夢中で這い蹲っている女子生徒。僕はその背後に回る。

「何撮ってるの」

 僕が声をかけると、彼女は後ろで束ねた長い髪を揺らし振り向く。

「何って……」

 パシャッ、と、カメラのシャッターを切る音が響く。

「君だよ」

 彼女は意地悪そうに微笑んだ。

「そういう答えを求めてた訳じゃないんだよ」

 僕はぶっきらぼうにそう告げる。それを見ながら、彼女はあははっ、と軽やかに笑った。

「ノリが悪いなぁ、君は。まあいいけどさ」

 僕は溜息をつく。このノリにはどうもついていけない。

「そういうのいいから……」

 呟きながら、花壇の近くにあったベンチに腰を下ろし、レジ袋からペットボトルを取り出した。

「あ! いいねアイス! 私これ好きなんだー」

気づけば彼女は、レジ袋の中を覗き込んで、アイスに手を伸ばしていた。僕が買ってきた、二つに割れるタイプのやつだ。

僕は何も言っていないんだけれど。何故当然のように袋を開けているんだろうか……。

「……僕の分は残しといてよ」

「わかってるって」

彼女は僕の隣に座る。一瞬、髪が肩に触れる。こんなに近くに座って、暑くないのだろうか。猛暑で感覚が狂ってしまったのかもしれない。

「こっちは君の、でしょ?」

 ふふ、と笑いながら残り半分を渡してくる。仕方がない。彼女に逆らうことはできないのだ、と自分に言い聞かせ、何も言わずに受け取った。


「……」

 じわじわと蒸し暑い空気の中、蝉の鳴き声がよく響く。とけたアイスが一滴地面に落ちた。

「誰もいないね」

「そりゃ夏休みも後半だからな、みんな受験勉強だろ」

 教師もいるんだかいないんだかわからない。敷地の一部が外と区切られていないので、校庭には誰でも出入りできてしまうのだ。全く、セキュリティなんて言葉を忘れた呑気な田舎だ。

「それはそうだけどさ、図書室とかあるし、来ればいいのに」

「わざわざこの暑い中、こんな所に来るのはただの馬鹿だ」

「じゃあ私は⁉︎」

「馬鹿ってことだよ、僕もな」

 来いと言われれば猛暑日でも素直にほいほい呼び出されてしまう僕はひょっとしたら彼女よりも馬鹿かもしれない。そう思った。

「そうかあー」

 うわあーとかなんとか言いながらのけぞる彼女は少し愉快だ。ふと、手に持っているカメラが気になった。毎日撮ってるんだったっけな。

「それにしても、熱心な写真部員だな」

「うん、私さ、学校の写真撮ってたんだ」

 僕は何も言わず、手元を見つめる。ちらりと覗いた彼女の横顔に含まれた感情を知っていたから。ぽつり、と彼女が本音をこぼす。

「来年もこんな風に、学校に来たかったなあ」

 ぱたりと蝉の鳴き声が止んだ。何も知らない顔をした向日葵がゆらゆら揺れる。

「卒業しても、後輩に会いに来たりさ、先生に近況報告したりさ」

 彼女のカメラには映されているのだろうか。部員が引退して誰もいないグラウンドや、まとめられた書類の束、閉鎖された教室、撤去された備品が。

「それは……」

「無理だって知ってる、わかってるよ……」

 彼女はふるふると首を振り、僕が口にしかけた言葉を止める。

「それでも私、この学校が好きだったんだ」

 そんなことは僕もわかっている。そうじゃなきゃ、夏休みにわざわざカメラを持って来るものか。

「なくなっちゃったら、何も残らないのかな……」

 寂しそうに笑った彼女の横髪を、生ぬるい風が撫でる。どうしようもない事実が、僕達を孤独な夏に放り投げた。

 少子高齢化が進み、定員割れを繰り返していたこの高校は、来年統廃合されることが決定した。建物の老朽化が激しく、立地も悪いこの校舎は使われなくなる。僕達のいた証は、夢のように消え去ってしまう。平成の終わりに、僕たちの高校は終わるのだ。

 それでも、と僕は口に出す。

「それでも、思い出は残したいよな」

 はっ、と彼女がこちらを振り向いた。真夏の暑さを忘れるような、澄んだ瞳と長い髪が空を透かした。

「僕も部員にいれてよ。写真は得意じゃないけど、手伝うからさ」

 部活に入ってよ、と彼女に散々誘われていたのを、面倒だからと理由をつけてこれまで断り続けてきた。正直に言えば、僕は面倒臭さよりも彼女の眩しさに向き合える自信がなかったのだ。

「三年の夏から入部なんて、馬鹿みたいだね」

 きらきらと太陽を反射させる、向日葵にも似た満開の笑顔で彼女は僕を見ていた。今なら、この眩しさに向き合える気がする。

「そうなんだろ、僕も君も」

「……あはは! そうだったね。うん。馬鹿は馬鹿同士さ、一緒にやろう、思い出づくり」

 思い出したかのように蝉が鳴き始めた。失われてしまっても、忘れないように。二人で写真を撮ろう。学校中に張り出してやろう。賞状もトロフィーも、誰からの評価だっていらない。僕たちだけの、最後の夏が始まろうとしていた。

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