港町ダミエッタ騒乱記:恋と本能とドワーフ
志乃原七海
第1話:潮騒と、ありえない依頼
男と女だけじゃ、世界の彩りは描けない。
ありとあらゆる種族が、それぞれの欲望と生活感を持って息づく、そんな物語を始めよう。
第一章
港町ダミエッタ。
世界中の海流が交わるこの街は、人も、物も、そして厄介事も、すべて呑み込んでは吐き出す巨大な胃袋だ。
潮の香りに、タールと、ドワーフの呷るエールの匂い。それに混じって、ただの魚ではない生臭さが鼻をつく。石畳を濡らすのは、昨夜の雨か、それとも誰かがぶちまけた酒か。
「……だから言ったんだ。最近の霧は、ただの霧じゃねぇって」
カウンターで杯を傾けていたドワーフのギムレットが、低く唸った。ずんぐりとした体に、編み込まれた赤髭。元は腕利きの鍛冶師だったが、今ではこの街の非公式な「何でも屋」だ。その節くれだった指が、オーク材の杯を鷲掴みにしている。
店の名は『大喰らいカモメ亭』。主人は小人族(ホビット)のミロだ。小柄で陽気、しかしその大きな耳は、街中のどんな噂話も聞き逃さない。
「またかい、ギムレット。あんたの『勘』は当たるから、余計にたちが悪い。そういや昔、街の古老が言ってたな。この土地の理(ことわり)が歪む時、音も光も喰らう霧が出るって。まさかとは思うけどね」
ミロが磨いていたグラスを置き、わざとらしく肩をすくめた。
ここ数週間、ダミエッタを奇妙な現象が襲っていた。夜更けになると、どこからともなく現れる「静寂の霧」。その霧に足を踏み入れた者は、二度と戻らないか、戻ってきても魂が抜かれたように無口になるのだ。
カウンターの隅で、一人のエルフがその会話に静かに耳を傾けていた。名はリリエル。長い銀髪を背に流し、尖った耳には小さな銀の耳飾り。彼女は、各種族の生態と文化を研究するために、森を出てこの混沌の街に住み着いた変わり者だ。手元の羊皮紙に、優雅な文字で何かを書きつけている。
「土地の理の歪み……ですか。興味深い伝承ですわね。この霧、既知の魔法や自然現象の記録には該当しません。精神に直接作用するとなると、これは極めて希少な研究対象です」
独り言のように呟く声は、まるで鈴の音のようだった。
ギムレットが、ちらりとエルフに目をやる。
「学者先生には面白いおもちゃかもしれねぇが、こっちは生活がかかってんだ。霧のせいで、夜の仕事がさっぱりだ」
その時、店の扉が勢いよく開いた。
ずぶ濡れの外套を着た男が、息を切らして立っている。いや、男ではない。
エラが張り、首筋には呼吸するたびに微かに開閉する鱗が見える。指の間には水かき。半漁人(マーフォーク)だ。魚の腐臭とは違う、湿った泥と異邦の匂いに、陽気な酒場の空気が一瞬で張り詰める。屈強な船乗りたちが眉をひそめ、誰もが酒を飲む手を止めていた。
店中の侮蔑と警戒の視線をものともせず、半漁人の男――スキルはまっすぐにカウンターへ向かった。そして、濡れた指で金貨を数枚、叩きつけるように置いた。
「……話がある」
乾いた喉から絞り出すような、しゃがれた声だった。
「霧だ。俺の仲間が、二人、消えた。水の中じゃない。陸でだ。波止場の倉庫街で、霧に呑まれた」
ミロが眉をひそめる。「衛兵には?」
「半漁人のことなんざ、まともに取り合うもんか」
スキルの濁った目が、ぎろりとギムレットを睨んだ。
「ドワーフ。お前、腕が立つんだろ。カネは払う。仲間を探し出してくれ」
ギムレットは鼻を鳴らした。
「断る。半漁人の依頼なんざ、後々面倒になるのがオチだ。それに、得体の知れねぇ霧に首突っ込んで、愛用の斧まで錆びさせちゃたまらねぇ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
割り込んできたのは、エルフのリリエルだった。彼女は席を立ち、優雅な仕草でスキルの前に立つ。半漁人の生臭さにも、顔色一つ変えない。
「これは、またとない機会ですわ。私が出資しましょう」
彼女は、懐から小さな革袋を取り出し、さらに数枚の金貨をカウンターに重ねた。
「記録係として同行させていただきます。もちろん、私の身は自分で守りますわ。森の民は、弓と短剣の扱いにも長けておりますので」
ギムレットは呆れて、赤髭を掻いた。
「おいおい、エルフの嬢ちゃん。こいつは森の散歩とはワケが違うんだぞ」
「あら、ご心配なく。あなた方が力任せに壁を壊すしか能がない時、私の知識が、隠された扉を見つけるかもしれませんわよ?」
ミロが困ったように両手を広げた。
「やれやれ。僕の店が、いつの間にか冒険者ギルドみたいになっちまった。だが、まあ……この街の住人として、霧は気味が悪い。スキル、あんたの仲間が消えた倉庫の場所はわかるかい? 僕なら、そこに繋がる裏道や、聞き込みできる相手に心当たりがある」
こうして、ありえないチームが即席で組み上がった。
頑固で腕っぷしの強い、ドワーフの「解決屋」。
好奇心旺盛で、時に傲慢なエルフの「記録係」。
情報通で、街の裏も表も知る小人族の「案内人」。
そして、依頼人であり、誰よりも必死な半漁人の「当事者」。
人間?
ああ、衛兵隊に若いのが一人いたな。アランという名の。霧の捜査を命じられたはいいが、何もできずに途方に暮れ、カモメ亭の噂を聞きつけて、この後すぐに泣きついてくることになる。だが、それはまた別の話。
今、夜の帳が下り始めたダミエッタの波止場に、四つの異なる種族の影が落ちる。
彼らの前には、じわりと、あの「静寂の霧」が音もなく広がり始めていた。霧に触れた肌が、ひやりと冷えるだけではない。まるで湿った絹で撫でられるような、粘つく不快感があった。周囲の音が、遠くなる。自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳の中で鳴り響いた。
ギムレットが、背負っていた戦斧の柄を、指の骨が白くなるほど強く握りしめる。
「……さて、と。クソみてぇな夜の始まりだ」
その口元に浮かんだのは、恐怖ではなく、獰猛な笑みだった。
彼の隣で、リリエルが羽ペンを片手に、輝くような瞳で霧を見つめている。
「ええ、本当に。――最高の夜の、始まりですわ」
男と女だけじゃ、足りない。
この混沌とした世界で問題を解決するには、これくらいのゴチャ混ぜが、ちょうどいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます