第8話 再審請求

 翌日、和也は午前8時に、新宿のC&K法律事務所に着いた。

 広い待合室にはまだ誰もいない。

 受付の前に立ってキョロキョロと見回していると、奥から出て来た若い女性が声をかけてきた。

 澤田弁護士の名を言うと、廊下を通って部屋まで案内してくれた。

 ドアは開いていて、8畳ほどのスペースに男性が一人、机でパソコンに向かっていた。

 白いワイシャツに緩めたネクタイ。灰色のスーツの上着は無造作にソファーに置いてある。

「あっ、佐藤さん?」

 澤田は振り向いて和也を見た。

 歳は40代後半、黒縁の眼鏡をかけ、髪はボサボサ。昭和のドラマに出てくる勤め人のようだった。

「まだ、事務の人が来ないから、お茶もコーヒーも出ません。すみません」

 澤田は丁寧な言葉を使った。

 最先端のオフィスにおよそ似合わない人物に、和也は逆に信頼感を覚えた。

「お忙しいところすみません。早速ですがこれを……」

 和也は丸めた紙を拡げて澤田の机に置いた。

「あっ!」

 澤田は一枚目を見るなり声をあげた。

「川場弥彦が描いたものです。一人になって、施設に引き取られてから、絵の上手い先生から鉛筆画の書き方を教わったら、これを描いたんだそうです」

 慌てた手つきで見終わると、3枚目の絵を掲げながら和也の顔を見た。

「息子さんなら裁判の前に話をしましたが、彼はというあれですか?」

「はい、サバン症候群だそうです。ダウン症で知的障害があるのはご存知でしょうが、見た状況を写真のように記憶して、その記憶だけでこんな絵を描き上げるそうです」

「でしょうね。外国の話ですが、そういう人が描いた精密な絵が証拠として認められたという事例があります」

「先生、ヤヒコのお母さん助けられませんか?」

「まあ、座ってください」

 和也はソファーに座った。澤田は3枚目の絵を持ってソファーに移動し、向かい合った。

「結論から言います。息子のヤヒコくんが真犯人ということなら、クリアしないといけない問題はありますが、再審請求はできます。いや、やらなければいけない。そして、その仕事は、川場さんの弁護を担当した私がやらなければならないと思います」

「ほ、本当ですか?」

 和也は全身が総毛立つのを感じた。

 澤田は、のっけから聞きたかったことにストレートに答えてくれた。大人から、こんなに明白で強い言葉を聞いたのは初めてだった。

「説明しましょう。クリアしなければならない問題は大きく2つです。一つは、2人が真実を告白すること。もう一つは、ここのトップがやらせてくれるかどうかです」

 和也は真剣な面持ちで頷いた。

「お母さんは、息子が罰を課せられること、犯罪者として見られることを恐れている訳です。罰の方は説明すれば課せられることはないと理解してもらえるかもしれないけど、息子が人を殺したという事実は消すことはできない。でも、相手が極悪非道な人間で、母親を救うための避けられない唯一の行動だったことを納得させれば、見方は変わるんじゃないでしょうか」

「分かります」

「事務所がやらせてくれるかどうかについては、私が上手く関係先に根回しして、いかに上手く代表を説得するかにかかってきます」

「関係先とは?」

「刑事裁判は、裁判所と検察庁、それと私たち弁護士で進めて行きます。この3者は対立しているようで、司法界ということでは一緒です。そんな中においては、再審という案件は、犯人ではない人を犯人と見做して、しかも罰まで与えてしまったのですから、法曹界全体にとっての大失態です。だからそれをやるには、綿密な根回しが必要となります。いきなりぶち上げたら、皆、ひっくり返るから……」

 和也は何となく理解した。

「私や私の事務所は、過去の非を潔く認めて再審無罪を実現する。裁判官も、検察官も前の裁判と同じ面子でもって全力で無罪を立証する。隠しだては一切なしです。ですが、淡々と静かに進めます。敢えてマスコミにリリースすることもしません。彼らは、こういう過ちが大好物ですが、今は昔のように取材力のある記者はいませんから、専門家が騒がなければ気が付きません。まあ、気がついたところで不可抗力ですから大したことにはならないでしょう。ここを上手く納めれば、法曹界でのうちの事務所の株は上がります。裁判所や検察、警察にも貸しが作れる。お金には代えられません」

「なるほど、皆が幸せになれるということですね」

「幸せ? ああ、そうです、その通りです」

「じゃあ、先生、僕にも何かできませんか?」

「そうですね、まずは川場さん親子が真実を証言することが大前提です。佐藤さん、明日は空いてますか?」

「はい」

「今日中に上を説得しますから、明日、府中に同行してくれませんか? あの絵を川場さんに見せてみたいんです」


 翌日、和也は府中駅で澤田と待ち合わせた。

 澤田は昨日と同じ服装で、背広の上着と黒い手提げ鞄を抱えてやってきた。

和也は、その姿にとても親近感を覚えた。

 府中駅からタクシーに乗り、刑務所へ向かった。車中で澤田は、上司を説得した状況について話してくれた。

 事務所の代表は、最初、自分達の非を晒すことに強く抵抗したが、「依頼人はC&Kがやらないなら別の事務所に依頼すると言っており、そうなるとリカバリーは効かなくなる」と申し向けたところ、「事実調査の結果次第」ということで、無報酬での活動を認めてくれたとのことだった。

 もっとも、それは澤田が事務所にとって不可欠な弁護士だからこそだろう。澤田は、とても頭が良く気も回る。弁護士としても優秀に違いない。

 事件を担当した弁護士が来たということで、ヤヒコの母親は面会に応じた。

 先に面会室に入って座って待っていると、分厚いアクリル板の向こうの部屋に、青色の作業服を着たこじんまりとした女性が入ってきた。

 丁寧にお辞儀をして2人の前に座る。上目使いに上げた顔は、色が白く、ふくよかな普通の女性だった。まだ30代のはずだが、だいぶ老けて見える。和也には、大それた事件を起こすような人にも、大きな嘘をつき通せる人にも見えなかった。

 澤田が女性の顔を見た。

「しばらく、川場さん。少し太ったかな?」

 女性は下を向いて、少しはにかんだ。

「川場さん、今日はお願いがあって来ました。これね、あなたの息子さんのヤヒコくんが描いた絵なのね。これをちょっと見て欲しいんだけど。この絵がね、何を意味するのか、教えて欲しいんだけど」

 澤田は3枚の紙を、アクリル板越しに並べて見せた。

 すると突然、女性の目が大きく開き、見る見るうちに顔が赤くなった。

「弥彦は、話したんですか?」

 澤田は何も答えなかった。

「言ったんですね、あの子……」

 澤田は引き続き黙っている。

 女性は両掌で顔を覆い、うつむいた。手が異常なほどに震えていた。

 少しの間を置いて、澤田が口を開いた。

「もう、嘘をつく必要は無いんですよ。弥彦くんは当時13歳で罪にならないし、完全な正当防衛です。ああするしか、あなたを救う方法は無かった。人として当然のことをしたまでです。検察にも、世間にも一切非難なんかさせません。あなたたち2人が困らないように、私が最後まで一緒にいます」

 諭すように言った澤田の力強い言葉に、女性は呻くような声を出して泣き出した。

 隅にいた女性刑務官が立ち上がり、心配そうに様子を伺っていた。

「再審請求、しましょうね」

 澤田は少し大きな声で言った。

 女性刑務官が慌てて下を向き、バインダーに何か書き留めた。

「再審請求」の声に反応したのだろう。囚人の動静としては、最重要報告事項に違いない。

 女性は泣きながら何度も頷いた。

 弥彦に会いたい。

 弥彦の面倒を見たい。

 口には出さないが、和也にはそう叫びながら頷いているように見えた。


 澤田は、その日のうちにひかり学園に行き、ヤヒコの説得を試みた。

 ヤヒコの部屋に入る前、澤田は刑務所の面会室で母親に書かせたメモを和也に渡した。 

 和也が澤田の真意を計りかねていると、ドアを開け、和也を先に押し込んだ。

「えっ?」

 和也が中に入ると、ヤヒコは椅子に座りいつものように絵を描いていた。

「ああ、ヤヒコくん、今、良いかな」

 ヤヒコは無視したように黙々と絵を描き続ける。傷はほぼ治ったらしく、額には絆創膏だけ貼っている。

「あの、澤田先生は知っているよね。今日、先生と一緒にお母さんと会って来たんだ」

 ヤヒコの手が止まり、無表情のまま和也の顔を見た。

「それで、これ、預かって来たんだ」

 メモを差し出すと、ヤヒコは一瞬躊躇ちゅうちょするような表情をした後、和也の手から受け取った。

 ヤヒコの母親が書いたメモには、丁寧な文字で次のように書かれていた。


  弥彦へ

   お母さんは澤田先生と佐藤さんに本当のことを話しました

   この2人は信用できます あなたのことも助けてくれます

   だからあなたも この2人に本当のことを話してください

   そうすれば また私と2人で暮らせます

   あなたならできます

   がんばって

                           母より


 ヤヒコは、一分ほど黙ってメモを見つめていたが、そのうち母親と同じように顔を赤くした。

「お母さんは元気そうだったよ。そして、正直に本当のことを話してくれたんだよ」

 ヤヒコの目から涙が溢れそうになっている。

「約束したんだよね、お母さんと。でも、お母さんは刑務所に入れられた。それを何とか助けたくて、君はあの絵を描いたんでしょ」

「母ちゃん、どこにも行かないって言ったのに……」

 ヤヒコが唸るような声を出した。

 細い目から涙がほとばしった。

「君が黙っていたのは、自分が罪を免れたいからじゃない。お母さんと約束したからだよね。君は、こんなことなら本当のことを言って、自分が罰を受ければ良かったと、ずっと思ってたんでしょ」

 ヤヒコはボタボタと涙を落としながら大きく頷いた。


 和也の背後から状況を見ていた澤田は、今後の手続きを進めるために急いで東京へ帰った。

 和也はひかり学園に残って、しばらくヤヒコと一緒に過ごすことにした。

 澤田の説明によると、母親のさらに詳細な供述聴取を行う一方、ヤヒコについても事情聴取や精神鑑定などが必要になるとのことだった。

 そのときにはまた和也が必要になるだろう。

 それにもう一つ、彼にはやりたいことがあった。

 それは、ヤヒコと一緒に行ったあの池で思い浮かんだ旋律を曲にすることだった。

 本格的な作曲をした経験は無かったが、あのとき感じたものを曲にするためには、ここにいなくてはならないし、演奏するならばあの池の傍でなくてはならないような気がしていた。


 翌日から、和也は毎日ヤヒコと一緒に池に行った。

 宿泊場所で迷っていたところ、副園長から学園の当直室なら自由に使って良いと言われた。しかも、安価な費用で食事まで出してもらえることになった。

 折り畳み椅子を持参し、池の畔で鳥やカエル、虫の声などを聴きながらイメージをつくり上げ、部屋へ帰ってから、持ち込んだキーボードとパソコンを使って曲を作り上げていった。

 一週間後、曲のイメージがほぼ固まった頃、澤田から電話が入り、2日後に水戸の大学病院でヤヒコの検査を行うことになったとの話を聞いた。

 高橋に話すと、当日は休暇をとって車で一緒に行ってくれることになった。

 検査は何日かかるか分からないが、和也はずっとヤヒコに付き添うつもりだった。 

 彼とともに、母親が戻るときを待ちたかった。

 そして、その日までに曲を完成させ、2人に聴かせたいと思った。

 この曲は、この街以外では作ることはできない。演奏することも、聴くこともできない。だから当然、この街から持ち出せない。聴きたければ、演奏したければ、ここに来なくてはならない。

 和也はこの曲にそんな強いこだわりを持っていた。


 水戸の大学病院では、ヤヒコはいろいろな検査を受けた。

 院内を一日中歩き回り、いろいろな部屋で、いろいろな医者から検査を受けた。 

 帰宅の車中では、ヤヒコも和也も疲れて眠り込んでしまった。

 これが、3日続くと思うとうんざりする。ヤヒコにとってはもっとも苦手な状況だろうが、一生懸命我慢して何も言わずに従っていた。母に会いたい強い気持ちで耐えていたのだろう。

 最初の2日間は、健康診断のような医学的な検査、心理学的な検査、知能や記憶力に関する検査など、通常の精神鑑定で行われるという種々の検査が行われた。

 3日目は、大学の心理学研究室へ行き、今回の再審請求の鍵となるヤヒコの記憶力や描写力などの特殊能力に関する検査が行われた。

 この日は澤田も合流し、和也、高橋とともに立ち会った。

 ヤヒコは知り合いが一緒にいることと、今日で解放されるという安堵感からか、心持ち浮かれた様子だった。

 リンゴや花瓶などを一瞬見せられ、それを鉛筆で紙に描く検査では、検査官を唸らせるような見事な絵を描いた。途中から検査官も興味本意で色々な絵を描かせ、最後は自分の顔まで描かせていた。

 3日間の検査が終わり、駐車場で澤田と別れた。

 検査結果が出るには数日かかるが、今日の様子だとヤヒコの能力に疑いはないとのことだった。

 帰りの車中、ヤヒコは寝入っていたが、突然目を開けると、

「母ちゃんは、いつ帰ってきますか?」

 と聞いた。

「そんなに簡単には帰って来れないと思うけど」

 高橋が首をかしげながら言った。

 和也は、この先の見通しについて澤田に聞き忘れたことを後悔した。

「僕ね、君のお母さんが帰ってきたら聴かせようと思って、シニ池の生き物たちの曲を作ってるんだ。でも、まだ出来てないからね……」

 話題を変えようと、助手席の和也が言うと、後部席からヤヒコが身を乗り出してきた。

「すごい、すごい。じゃあ、和也さん、母ちゃん帰るまでいてくれるんですか。シニ池にまた行きますか?」

 ヤヒコは興奮ぎみに言った。

「うん、いるよ。お母さんが帰ってきたら、池の前で演奏しよう。そうだ、町の学生とかに手伝ってもらって野外コンサートやろう。そこでお母さんにも聴いてもらおう」

「わーい、うれしい。がんばります」

 ヤヒコはすっかり元気を取り戻した。


 

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