第4話 病院と警察
救急車は5分ほどで病院に着いた。
「救急口」と書かれた入り口から入ると、少年は診察室へ連れて行かれ、和也は待合室で男性警察官から質問された。
警察官は、さらに矢継ぎ早の質問を繰り出し、和也が面食らってしどろもどろになると、矛盾点を探して突っ込んできた。
もはや質問というより、テレビドラマで見た取り調べのようだった。
和也が「あー」とか「えー」と言いながら的外れな回答を続けていると、救急隊員が白いハンカチのような布を持って診察室から出てきた。
警察官がその布を受け取って拡げると、住所と電話番号らしき数字に加え、
「ひかり学園」
「川場弥彦」
という文字が見えた。
救急隊員と警察官は和也から離れ、その布を見ながら3分間ほど話をしていたが、再び戻って来た。
「佐藤さん、このあと時間ありますか? これ、ひったくりからの事後強盗事件ですので、署の方へ来てもらうことになりますが」
男性警察官が言うと、和也の返事を聞くまでもなくポケットからスマホを取り出し、通話をしながら外へ出て行った。
待合室に放置された和也は、警察官や救急隊員がいないことを確認してトイレに行き、スマホを取り出した。
誰かに助けを求めたい。しかし、父や母というわけにはいかない。大学の教授や講師はなおさらだ。音楽の知り合いや友達の中には、こういう状況で頼れる人間は一人もいない。
迷っていると、突然、ベートーベンの着信音が鳴り響いた。
慌てて音を消しながら表示を見ると「田中さん」と表示されていた。
一瞬、誰か分からなかったが、通話ボタンを押すと聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。
「あっ、佐藤くん? ごめんね。いま大丈夫?」
「ああ、はい」
「あのね、今度、コンサートやるんだけど、クラが一人欲しいのね。それでね、もしもし、聞いてる?」
「はい」
通話の相手は田中聡美だった。
電車で一度会っただけにも関わらず、すでに親しい先輩のような話し方をしている。
とはいえ、今は自分にとって最も大切な人だ。
和也は、昨夜の母との電話を思い出しながら、
「分かりました。喜んでやらせていただきます」
と、いつになく語尾まではっきりと言った。
「よかった。じゃあ時間とか場所とかは、決まり次第メールするね」
「はい」
返事をしながら、待てよ、この人ならこういう場合どうするのだろうと思った。
話をしたのは昨日が初めてだったが、今現在、頼れるという意味ではこの人が一番という気がした。
「あ、あの、田中さん。僕、今、ちょっとまずいことになってまして……」
和也は状況をかい摘んで説明した。
「えー、それって佐藤くん何も悪くないじゃん。ちゃんと話せば、帰っちゃっても良いんじゃないの?」
「でも、警察署に来てくれって。それに、その子もちょっと可哀想で……」
「分かった、分かった。ていうか、あんまり分かんないけど、オケのことも話したいし、時間あるから行ってあげるよ。代々木署でいいのね」
「えっ、ほんとですか?」
全身に鳥肌が立った。
と同時に、やっぱりこの人は自分の運命の人なのかもしれないと思った。
治療が終わり、措置室から出てきた少年は、頭にネットを被せられ、顔や体の至るところに絆創膏を張られていたが、怪我は軽く、外傷だけということだった。
すでに警察官も、少年がひったくり事件り被害者で、和也は単なる通報者に過ぎないことを理解してくれた。
玄関の前にパトカーが止まり、先程の警察官から乗るように促された。
「川場さん!」
受付の女性から呼び止められた。
「お薬があります。あと、お会計も」
「えっ?」
女性は和也の方を見ている。警察官を探すと、もう外でバイクに股がりヘルメットを被っている。
「ああ、分かりました」
少年と並んで椅子に腰かけた。
「名前、ヤヒコくんっていうの?」
和也が話しかけても、少年は無言でキョロキョロと周りを見ている。
話をしたくないのかと思い、ぼんやりしていると、突然、
「カワバヤヒコ、14歳です」
と、独り言のように言った。
「あ、ああ、そう。僕は佐藤和也、22歳です」
「ヌシ、帰ってきますか?」
「ヌシ?」
「シニイケのヌシです。昨日、見せたカエルです」
「ああ、あのカエルのこと?」
「母ちゃんのお土産です」
「母ちゃん? お土産?」
何が何だか分からなかったが、ヤヒコが普通の少年でないことは察しがついた。
「川場さん」
「は、はい」
和也はカウンターの前に行った。
女性は一通り薬の説明をした後、
「診察、治療費に診断書一通で、48,000円です」
と言った。
和也は一瞬ポカンとして女性を見た。
「事件や事故だと保健が効きませんから……」
玄関の方を見ても、もうバイクの中年警察官はいない。
パトカーの方には2人乗っているが、彼らに話は通じそうにない。
とりあえず払うしかないのか。
財布を見たが、現金は昨日の3万円と小銭しか無く、仕方なくクレジットカードを取り出した。
「良いですよ、カードでも……」
女性は笑いながら、和也の手から素早くカードを抜き取った。
後で母が明細を見ると色々聞かれるだろう。言い訳を考えておかなくてはならないと、和也は思った。
支払いが終わりパトカーに乗り込んだ。
パトカーに乗るのは初めての経験だったが、ヤヒコはこういうことに慣れているのか、自分でシートベルトを締めて、じっと前を向いて座っていた。
ダメもとで助手席の警察官に治療費のことを聞くと、診断書は被害届に添付するため警察から料金が出るが、あとは原則として自腹ということだった。
代々木警察署に着くと、ヤヒコと和也は「相談室」という表示がある部屋に通された。
しばらく待っていると、先ほどマンションに来た若い女性警察官が入って来て麦茶を出してくれた。どうやら、もう犯人扱いはされていないようだ。
その後、30歳前後の太った私服の男性刑事が入って来て前に座り、名刺を差し出した。
「山中と言います。被害者調書を録らせていただきます。佐藤さんも参考人としてつき合ってもらって良いですか?」
「は、はい」
「川場くんは14歳だね?」
ヤヒコは黙って頷いた。
「昨日の朝、茨城の『ひかり学園』を出て、東京に来たんだね」
「はい」
ヤヒコはキョロキョロと下を見ながら返事をした。
既に、あのハンカチのような布に書かれてあった「ひかり学園」という場所に連絡を取り、事情を把握しているようだ。
「後で高橋先生が迎えに来るから、それまで話を聞かせてね。高橋先生、分かるよね」
「はい、タカハシヨシオ先生です」
目は合わさないが、ハキハキと答える。
「うん、その先生が迎えに来るから」
「はい」
麦茶を出してくれた女性警察官が、スケッチブックと本を持って来て、山中の隣に座った。無骨な刑事の調べでも、若い女性警察官がいてくれるだけで随分と雰囲気が和らぐ。
ヤヒコと山中刑事の話を聞いているうちに、和也にも事件の概要が分かってきた。
昨夜、ヤヒコは駅から和也を追ってマンションまで来たらしい。しかし、オートロックに阻まれて中には入れず、非常階段に座って夜を明かした。
早朝、目が覚めて、カエルに水をかけてやろうと道路に出たとき、背後から来たバイクの男に袋をひったくられたが、その際にヤヒコは道路に倒れ込み、顔や体を負傷した。
その後、どうしたら良いか分からず、玄関で待っていたところに和也が出て来たということらしい。
「あのカエルって、何なの?」
和也もそれが知りたかった。
「母ちゃんのお土産です。母ちゃん、昔、ウシガエルの唐揚げを食べておいしかったって言ってました」
ヤヒコの細い目から涙が溢れそうになった。
「じゃ、じゃあ、ヤヒコくんが袋を盗られたときのことを聞くよ。どんな奴だった? オートバイかな?」
泣かれたら面倒だという感じで、山中刑事は焦って話題を変えた。
「オートバイに乗った男の人です」
「オートバイはどんなの?」
女性警察官が机に本を拡げた。色々なタイプのオートバイの写真が載っている。
何枚かページをめくっているうちに、ヤヒコはその中の一台を指差した。
「これの赤色です。このマークも一緒です」
スクータータイプの原付バイクだった。
「えっ、このマークまで見えたの。ナンバーは? 数字が書いてなかった?」
「数字が書いてあるものは付いていませんでした。乗ってた人は覚えています」
「顔が判るってこと? じゃあ、ヘルメットは被ってなかったの?」
「はい」
女性警察官がスケッチブックの白いページを拡げ、聞き取って描こうとすると、ヤヒコが両手を差し出した。
「描きます」
女性警察官は山中刑事の顔を見た後、スケッチブックのページを切り取り、鉛筆とともに手渡した。
ヤヒコは紙と鉛筆を受け取るやいなや、紙の左下隅から細かい線を何本も描き始めた。
しばらくは何を描いているのか分からず、諦めムードが漂ったが、5分ほど経つと道路の路面が見えてきた。
「川場くん、乘ってる人から描けないかな?」
山中刑事が言うが、無視して黙々と道路を描き続ける。しかし、少しずつ現れてくる絵は、写真のようにリアルなものだった。
「少し様子を見ましょう」
女性警察官が言った。
「私、こういう能力を持った人がいるというのを聞いたことがあります。そう、例えば山下清画伯とか。一度見た景色を完全に記憶して、コピー機みたいに正確に再現できるんだって。だから構図も何も考えずに、いきなり端から正確に描いていくんだそうです。でも、実際に会ったのは初めてだけど……」
女性警察官はうっとりとした表情でヤヒコを見つめた。
ヤヒコと女性警察官を部屋に残し、山中刑事とともに廊下の長椅子に移動した。
「あの子、14歳で、見ての通りダウン症で、知的障害があります。お母さんは過ちを犯して、今、府中の刑務所にいるんです。あの子、身寄りがないから茨城の児童養護施設に入ってるんですけど、会いたくなって来たんでしょうね。施設の先生によると、前にも何度か駅まで歩いて行って電車に乗ったことがあるそうなんですが、いつも1、2日で警察に保護されて連絡が入るんだそうです。だから、今日もこれから通報するところだったらしいです」
山中刑事が目を潤ませながら説明した。
彼の顔を見ていた和也も目頭が熱くなった。
その後、和也が昨日の成り行きを話していると、事務服の女性がやって来た。
「あのう、佐藤さん……」
「えっ、はい」
和也は立ち上がった。
「弁護士さんが来ているんですけど。何でも、有名なバイオリニストの田中さんという方の代理の方とかおっしゃって……。意味、分かります?」
「は、はあ、何となく……」
山中刑事の顔を見ると、涙目のまま頷き、右手で「どうぞ」というように合図をした。
女性の案内でロビーに行くと、スーツ姿の地味な感じの男性が長椅子に座っていた。
「あのう……」
「あっ、佐藤さんですか?」
男性は立ち上がって、いきなり名刺を差し出した。
名刺には「C&K東京法律事務所 弁護士 河上規夫」と書かれていた。
「聡美さん、いや、田中さん、急に来れなくなって、私に行ってくれないかと言うもので…」
「わざわざ弁護士さんが?」
「いや、ちょっと、知り合いなもので。ちょうどこっちの方に用事もあったし……」
目を合わせず、妙に自信のない話し方をする。
「あ、ありがとうございます。でも、もう僕の疑いは晴れまして」
「ああ、そう。でも聡美さん、いや、田中さんから、大切な後輩だからくれぐれもよろしくって……」
態度もおどおどして、何か隠しているようにも見えるが、逆にこういう相手だと気持ちが落ちつき、普通に話ができる
「あの、間違ってたらすみません。先生、もしかして、田中聡美さんの彼氏さんとか?」
河上は一瞬で赤面した。
「いや、そんな。まだ、いや。でも誰が、えっ、聡美さんが言ったの?」
彼は分かりやすく狼狽えた。
「あっ、そうだ!」
「えっ、何? 違うよ、彼氏だなんて言わないでよ。そんな、事務所的にもまずいし……」
「先生、刑務所の面会って出来るんですか?」
河上弁護士は急に真顔になった。
「刑務所、何で?」
和也は河上にヤヒコの身の上を話した。
そのうえで相談室に戻り、山中刑事と女性警察官に河上を紹介した。
「C&K東京法律事務所の弁護士、河上です」
河上は、警察官を相手にすると急に鷹揚な態度になった。
しかし、頼りなさは変わらない。
その間もヤヒコは黙々と絵を描いている。
「私、この佐藤さんから依頼を受けて、こちらの川場弥彦くんをお母さんに面会させる手続きを取りたいのですが……」
「ああ、弁護士先生ですか。それは、それは。先生が手続きをしていただけるんなら大丈夫かと……」
山中刑事は言いながら、女性警察官にヤヒコを連れ出すよう目で合図をした。
女性警察官は「着替えをしよう」と言って、ヤヒコの手を引っ張って外へ出たが、紙と鉛筆は放さずに持って行った。
2人が出ていくと、山中刑事は声を低くして話し始めた。
「あの子の母親というのは、殺人で服役中だそうです」
和也と河上は黙って山中刑事の顔を見つめた。
「ちょうど一年前、再婚した旦那、つまりあの子の義父を包丁で刺殺したということです。義父は、日頃からあの子を嫌い、ちょくちょく暴力を振るっていたそうで、事件の日は、酔っ払ってあの子の首を絞めようとしたものだから、母親は逆上して台所の包丁で刺してしまったらしいです。で、情状は認められたんですが、懲役4年。府中に入っているそうです。実の息子だし、弁護士先生が一緒だから大丈夫だとは思うんですが、罪名が罪名だから、果たして会えるかどうか。会えたとして、母親も会うかどうか……」
和也は、今まで経験したことのない重苦しさを感じた。
河上もしばらく沈黙していたが、思い出したように言った。
「あっ、そうだ。ところでもう昨日の電車の騒ぎというのは、お咎めなしということで……」
「ああ、はい。JRも、鉄警隊も何も言って来ないし、誰も被害者はいませんから……」
「電車賃も、おそらく払ってないようですが?」
「もう、それは……」
山中刑事は、答え難そうに言葉を濁した。
河上はしばらく回答を待っていたが、やっと意味が分かり、右手で山中を制した。
「ああ、分かりました。そうですか、そうですね。了解、了解」
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