カエルのうた

市原たすき

第1話 カエルを持った少年

 7月初旬、午後8時30分。

 朝から降り続いた雨はいつの間にか上がり、北東の涼しい風が吹き始めた。

 暗くなった空には、大きな丸い月と幾つかの星が見える。

 電車のホームには、家路を急ぐ大勢の人が溢れている。

 夏が近づいているせいか、サラリーマンやOLの中に夏を感じさせる色とりどりの若者たちが混ざり合っている。

 アナウンスが流れ、電車がホームに滑り込んで来ると人々は一斉に動き出し、規則正しく2列に並び直す。

 佐藤和也さとうかずやはそこにいた。

 列には並ばず、けばけばしい自動販売機に寄り掛かって立っていた。

 目まである前髪に、白いマスク。黒色のスーツに黒色のシャツ。背中にはアルミ色のクラリネットケースを背負っている。

 身長は175センチあるが、両手をズボンのポケットに突っ込んで立つ姿は、まるで中学生のように頼りない。

 

 彼は今日、プロオーケストラのオーディションに落選した。

 やはり身体の状態は完全ではなかった。

 ちょうど3か月前、練習中に息苦しさと胸の痛みを感じ、病院で精密検査を受けた。結果は肺気胸だった。

 比較的軽度のため安静にして自然治癒を待つこともできたが、再発率50パーセントと言われたため、将来を考えて手術を選択した。  

 胸腔鏡による簡単な手術で、3日後には退院できた。

 日常生活に支障は無かったが、最近になってもクラリネットの演奏、特に高音になると、ときどき息が続かないことがあった。

 高校生のころから天才クラリネット奏者と言われ、もてはやされて来た。

 音大の4年に上がると同時に国内の有名オーケストラから誘いを受けた。

 運営事務局の部長から入団を約束されたが、一応、オーディションには参加して欲しいという要請を受け、病気を理由に一度は断ったものの、形だけという約束で承諾した。

 ピアノの前奏に続き、クラリネットを吹き始めたが、すぐに息苦しさを感じて自分から演奏を打ち切った。

 審査といえども、他人の前で聴き苦しい演奏をすることは我慢できなかった。

 審査員席に座っていた部長が頷いてくれたので、お辞儀をして退こうとしたとき、真ん中に座っていた白髪の老人が立ち上がった。

「おい、君、どうしたんだ。なぜ途中でやめるんだ」

「ああ、はい……」

 和也は面食らった。どうして良いか分からず、目で部長に助けを求めた。

 彼は慌てて老人のところへ行き、何か耳打ちした。

「ああそうか、君が佐藤くんか。しかし、今日は吹けるから来たんだろう。差し障りの無い曲で良いから、何か吹いてくれないか。審査にならないから」

 和也は人と話すことが得意ではない。

 特に威厳のある大人にこういう物言いをされると緊張して縮み上がってしまう。

「ああ、あの……」

 案の定、言葉が出なくなった。身体が完全に固まり、身動きさえできなくなった。

「君ねえ、高校、大学でちょっと褒められたからってプロじゃ通用しないよ。うちの団員は皆、学生時代は天才って言われた演奏家ばかりだけど、毎日毎日、汗をかきながら切磋琢磨しないとついて行けないんだよ。次から次へと若くて優秀な演奏家が生まれて来るんだ。肝心なときに具合が悪くて吹けませんじゃ、使い物にならない。新しい人と交替してくださいっていうことになっちゃうんだ。厳しいようだけど、それが音楽でお金を稼ぐってことなんだよ。まあ良いや、早く体を治しなさい」

 まったくの正論に、和也はその場から消えてしまいたいような気持ちになったが、このまま退いて良いのかどうかすら判断できず、その場に立ち尽くしていた。

「次だ!」

 理事長が怒鳴った。

 舞台袖からスタッフが走り出て来て、和也の腕に手を掛けて退くよう促したので、慌てて譜面台を持ち、慌てて舞台袖に下がって行った。

 楽屋で帰り支度をし、他の参加者数名とともに客席の後方で座って待っていると、舞台上で結果が発表された。

 最終的にこのオーディションで選ばれたのは、名前も聞いたことのない女性奏者1人だけだった。

 最後に先ほどの老人が舞台に上がり、全体の講評について語ったが、和也が指摘されたようなことを少し丁寧に繰り返しただけだった。

 そこで初めて、その老人がこのオーケストラの理事長で、母体企業の会長ということを知った。

 すべてが終わり、和也がホールの玄関を出ようとしたとき、顔見知りのスタッフが走り寄って来て封筒を渡された。

 中には3万円が入っていた。

 

 楽器ケースを体の前に抱え直し、列の最後から電車に乗った。

 車内は満員ではないが、椅子は埋まり、立っている人も多かった。

 乗ると同時に扉が閉まり、電車はゆっくりと走り出した。

 和也はドア付近のコーナーに立ち、ガラス越しにぼんやりと外を見ていた。

 駅を出て窓が暗くなると、ビルや家々の灯りが見えた。

 今までは電車に乗ったときも景色などは見ず、音符や曲のことばかり考えていた。しかし、今は建物の灯りしか見えない。

 この一つ一つの灯りの中には、それぞれに人がいて、それぞれの人生を送っている。そして、その人たちは皆それぞれの人生を持っている。

 審査で撰ばれたあの女性も、審査員の人たちも、あの理事長にしても、きっと分厚い人生を持っているのだろう。

 そう考えると、自分が生きてきた時間など、本当に希薄でちっぽけなものにしか思えない。

 なぜか幼い頃からピアノが弾けて、中学からはクラリネットも吹けた。

 自分はそれだけだ。それ以外は何も無いし、何も持っていない。

 そんなことを思いながらボーとしていると、車両間の扉が乱暴に開き、突然、場違いな少年が現れた。

 五分刈の坊主頭に日焼けした顔。汚れた生なり色のTシャツに膝丈のジーパン。素足に汚れたビーチサンダルのような物を履き、背中に古びたリュックサック、左手には大きな麻袋のようなものを持っている。

 背は140センチくらいしかないが、顔はそれほど幼くはなく、13、4歳くらいには見える。

 全身に乾いた泥のようなものをつけ、まるで泥沼にでも落ちたように汚れている。

 乗客たちは一斉にこの少年に顔を向け、注目した。

 近くに立っていたOLは足早に移動し、座っていた中年女性は威嚇するような目で凝視した。

 少年はそんな乗客たちの反応をよそに、キョロキョロと車内を見回した。

「水、あるところ、知りませんか?」

 大きなはっきりとした声で言った。

 しかしそれに応える者はいなかった。

 すると少年は、左手に持っていた袋の口紐を緩め、中に右手を突っ込んで抜き出した。

「ギャー!」

 車内に女性の悲鳴が鳴り響いた。

 少年の右手には、巨大なカエルが掴まれていた。

 だらりと伸びた足まで入れると30センチ以上はある。

 グロテスクなまだら模様の腹がパンパンに膨らんでいる。

「水、無いですか?」

 少年はカエルを突き出したまま、ゆっくりと歩き始めた。

 電車内はパニックになった。

 椅子に座っていた客は一斉に立ち上がって逃げた。

 慌てて転ぶサラリーマン。泣き叫びながら走るOL。まるで雪崩に追われるように人が掃け、少年が歩く先は見る見る空席になっていった。

 少年は次第に和也の方へ近づいて来た。

「水のあるところ、知りませんか?」

 そのとき、電車がスピードを落とした。

 その反動で少年が前のめりになって倒れ、床に手をつくと、驚いたカエルが手から離れ、和也の方へジャンプした。

「あっ!」

 和也は声を上げながら後へ飛んだ。

 そのとき、ちょうど電車が駅に着いた。

 ドアが開くと、既に連絡が入っていたのか、ホームに待機していた駅員3人が慌てて乗り込んで来た。

 1人が少年を見つけて近寄ろうとしたが、あまりの異様さに戸惑っている。他の2人は、床にいる大きなカエルを囲んでどうするものか躊躇している。

 少年に近寄った駅員が振り返り、カエルの方に駆け寄った。

「早く捕まえろ!」

 命令が飛び、2人は足でカエルを追い詰めようとした。

「手でやるんだよ!」

 強い口調で言われると、2人の駅員は同時に恐る恐るカエルに手を伸ばした。

 次の瞬間、カエルは大きくジャンプし、和也の前にいた女性のハイヒールの上にドサッと着地した。

「ギャー!」

 女性は両手を上げて後ろに倒れて来た。

 手で支えようとすると、女性が背負っていたバイオリンケースが、和也のクラリネットケースに当たった。

 差し出した両手はそのまま女性の脇をすり抜け、背後から胸の辺りを掴んでしまった。

「あっ」

 和也はびっくりして手を引っ込めたが、周囲はそれどころではなかった。

 車内は騒然とし、乗客は我先にホームに出ようとした。

 何人もの人が転び、這って逃げる者もいた。

 乗客が去りスペースが空くと、床には靴の片方だけが4、5足転がっていた。

 少年は素早く動いて飛びかかり、床のカエルを両手で押さえた。

「早く、袋に仕舞え!」

 駅員の1人が怒鳴った。

 少年は慌ててカエルを袋に戻し、急いで口紐を結んだ。

「こっちへ来い!」

 駅員の興奮は頂点に達していた。

 しかし、少年はそれを完全に無視して、平然とホームに降り立った。

 異様な姿の少年に、ホームの人たちは一斉に道を開けた。

「おい、どこへ行く。待て!」

 駅員が叫ぶと少年は突然走り出した。

 たむろするホームの人たちの間を縫って、あっという間に人混みの中に姿を消した。

 残った駅員たちは、黙って制服の埃を払い、身なりを正して、何事もなかったような顔をして無言で引き上げて行った。


 ホームにアナウンスが流れ、電車の再出発を知らせた。

「あ、あの……」

 和也は倒れかかってきた女性に声をかけた。

「あっ、ごめんなさい……」

 女性は脱げた片方のヒールを履き直そうとしたが、またよろけて和也のクラリネットケースに手をついた。

 女性の顔を真近に見ると、目が大きく、きれいな顔をしている。

 とても化粧が濃く、甘い臭いがした。

「ほんとに、ごめんなさい」

「ああ、はい……」

 一旦降りた乗客と新たに乗り込んできた乗客で、電車内は再び混雑した。

 転がっていた靴は端に寄せられ、床に残っていたカエルの粘液は、事情を知らない人たちの靴で踏みつけられていた。

 電車が発車した。

「あの、もしかして佐藤さん?」

「えっ?」

の佐藤和也さんじゃない?」

 和也はもう一度女性の顔を見た。

「はあ……」

「田中です。田中聡美たなかさとみです」

「ああ、あのベートーベンのときの……」

 やっと分った。

 半年前に「次世代若手音楽家による音楽会」と題した演奏会に二人は出演していた。和也はクラリネットパートの一人に過ぎなかったが、聡美はコンサートマスターだった。そこで一緒にベートーベンの交響曲5番を演奏した。

 聡美は和也より5つ歳上。その美貌もあって、若手バイオリニストの中ではとても人気があった。タレント事務所にも所属していて、テレビのCMや音楽番組などにも出演している有名人だった。

 和也もよく知っていたが、近くで見たのは初めてだった。

「今日は演奏会?」

 聡美は落ち着きを取り戻し、大人っぽい口調で聞いた。

 服装を見てそう判断したのだろう。

「ああ、はい……」

 聡美の方は、黒の細身のパンツにハイヒール、羽織ったベージュのコートの下は、白いヒラヒラの襟が付いたブラウスだった。

「田中さんも?」

「うん、今度、映画に出ることになって。今日はに行ってきたの」

「映画ですか?」

「主役は女優だけどね。それがバイオリニストの役だから、演奏の指導も兼ねてね」

「ああ、はい……」

「ここだけの話、主役の子、子供のときバイオリン習ってたって聞いてたから、少しは弾けるのかなって思ったら、全然でね。持ち方から始めなきゃいけなかったから疲れるのね」

「はあ……」

 聡美は聞きもしないのに話を続ける。

「で、監督さんは生で弾いてもらおうと思ってたみたいなんだけど、全然間に合わなくて。結局、演奏シーンは私が演奏して、彼女、恰好だけやるわけよ。じゃあ、役者だからそれくらいはちゃんとやるかなって思ったんだけど、なかなか合わせられなくて。スタッフも陰で、これだったらそのまま私が主役やった方が良いだなんて言いだして。冗談じゃないわよね……」

 聡美は、カエルの一件はすっかり忘れたように、切れ目なく映画の裏話についてしゃべり続けた。途中からは主役の俳優や他の演奏者、果ては監督の悪口まで及んだ。

 早口でうるさいしゃべり方だが、和也にはこの方が心地良かった。

 人と話すのは得意ではないが、決して人が嫌いなわけではない。自分と価値観を共有できる人とは、コミュニケーションを図りたいと思う。しかし、自分から何かを言い出したり、話をすることはできない。だから、聡美のように勝手にしゃべってくれる相手はとても有難い。

 車内アナウンスが流れ、和也が降りる駅を告げた。

「あっ、僕、次で……」

「ああ、そう。電話番号教えてよ。すぐ返信するから……」

 まさか電話で続きを話すのかと思いながらも、断ることはできずに番号を教えた。

 電車が駅に着いた。

「じゃあ、連絡するね」

「はい」

 和也はホームに降り、階段に向かって歩き出した。

 ゆっくりと追い抜いていく電車の中で、笑いながら両手を振る聡美に、軽く会釈をして見送った。

 本当は、今日のオーデションの話を聞いてもらいたかった。

 そして、今後の助言を、いや、あわよくば彼女の顔が利くオーケストラにでも紹介してもらえたらと思ったが、映画の裏話が始まった頃からその希望は消え失せた。

 あの早口に口を挟める技術も勇気も、和也にはない。

「まあ、もう会うこともないか……」

 近くに人がいないことを確認しながら声に出して言った。

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