退勤

ʚ傷心なうɞ

退勤

 気乗らぬ仕事を、急ぎ片付けた帰路のこと。

 

 そこはどうにも、異常で歪だったおかしかった


 別に、道路が陥没してるだの空間自体が歪んでるだのという状況を意味するのではない。それは単に比喩であり、コンクリはコンクリとして、酸素は酸素として仕事を全うして居る。

 焦点を絞って言えば、有るべきでない余所者がいたという話だ。具体的には、俺の右斜め前、車道を挟んだ対岸の歩道。

 そこに、奴は有った。

 形で言えば人型、だのに確実に人では無い。脚も、胴も、指も、頭も。どうにもこの世界に不適切だった。

 奴にお似合いな世界は、罪人を違法に処する死亡遊戯デスゲームとかだろう。逃げ惑い、許しを乞う参加者を法律と規則ルールの観点だけで判断し殺す、無慈悲な殺人機械。

 ――この言葉は比喩ではない。

 奴の身体を支える、人間で言う『脚』は『闇』で有った。

 奴の存在の根幹を成す、人間で言う『胴』は『棘』で有った。

 奴の両手先の、人間で言う『指』は『刃』で有った。

 奴の首に支えられた、人間で言う『頭』は『岩』で有った。

 不意に、喉は生唾を飲み込んでいた。

 奴との距離は、徐々に縮まり行く。

 大音量の拍動が足音すらかき消し、視界の端にチラつく岩肌が余計それを強めやがった。深々と満ちる闇夜から伸びる手に、心臓を潰される感覚。ともすれば、幾片かに千切られてしまうかとさえ思える。


 一歩踏み出す。

 度に、意識が彼処あちらに引き込まれる。

 

 一歩踏み出す。

 すれば、視界の右端から死の香が漂い来る。


 一歩踏み出す。

 終ぞ、直線で並んだ。

 もう視界には映らな



 時空でも歪んだか、身体中の筋肉が石に変わったか、とにかく非現実的な程に。

 本能が、怯えていた。恐れていた。

 最早足の感覚さえ消え、時の流れを放心のまま待つだけであった。


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 文字通りのノイズが走った。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 言葉を紡ぐ。

 仕方ないなんて言えば殺されるから。


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 零時の肌寒さも、呼吸の感覚も。

 その時ばかりは分からなかった。

 死の危機は、余計な感覚を切り捨てさせる効能がある。



 であれど予想に反して、嵐は、徐々に過ぎ去って行った。先まで天災の如し喧騒を湛えていた心臓も、見慣れぬ豪雨程度には落ち着いた。

 それでも、平静とはどうにも言い難い。

 家宅の塀より這い出る触腕や、あらゆる死角からこちらを狙う眼光の気配、自らの影も、空の星々も、あれも、彼も、誰もが。

 俺を脅かして、襲ってくるから。

 ――オールフォーワン理想論者の唱える幻想なんてのは、人間社会には当てはまらないものだ。

 今まさに、こうであるように。

 虐待する飼い主に噛み付いた犬が、保健所に送られ殺されるように。

 それでも、まだ職員に通報された訳でもあるまい。野良犬Aとして、社会へ戻る道は丁重に舗装されている、はずである。

 ボロ綱か、ガラスか、木板か、鉄か。

 地面さえ分からずとも、進まねば。


 マンションまでは、凡そ百メートル。

 ほの灯りが闇を除ける玄関は、既に見えている。今少し、異形徒蔓延る帰路を行くのみ。

 もう、数十歩――














      〈鼓膜を抉る騒音〉



























     〈眼球を突き潰す眩光〉














 ――情報の流れ込むにつれ、脳はその環境に適した回路を構築した。

 これは緊急事態なのである。奴が黒黒と歪な牙の並ぶ口をかっ開き、歪んだ棘の四肢で以て地を這いずってこちらに寄る最中ということである。悪食の王とでも呼ぶべきか、無機も有機も厭わず喰らい尽くし、風も光も星空も影も時間も空間も。奴の牙に刻まれ消えゆくのだ。奴は馬鹿にデカいし、動くさえ出来ぬ音圧を放つ。皆壊れる、破れる、消える。誰も彼も俺も死ぬ。だのに筋肉は脊髄からの叱咤をものともせず固まる。奴の闇で創られた身体には光源の二つがあった。和らぎの一つも無い、脱獄犯を周囲の目に晒す監視灯が最も近しいと思うるものである。だがこの現状を見れば石蛇メデューサの眼光と言うべきが正しいかもしれない。なんて妄想を広げその世界に逃げることが出来たなら万事解決なのだが、実際そうも行かない。この怪物からは、どうにも逃げようがない訳だから。だのに脳内には言葉が無数に紡がれる。死を前にした焦りである。脳の言語機能が恐怖と名を冠する菌に破壊され、血液に倣って溢れてしまうのだ。だが、ゾンビにだって死があるように。壊れた挙動の機械も、それ自体が壊れてしまえば止まる。

 数秒の間止めどなく生じた喚きも。

 もう間もなく、その時が近づいていた。


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       〈身を焦がす〉























 あの日の朝は、正常に迎えられた様だった。玄関扉を閉めたことで事切れ、頭をぶつけて僅か出血こそしていたが。ともあれ、太陽は上り月は上り、日のサイクルは回っているのである。

 俺は、化物夜行を生き延びたのである。

 あれからは当然部屋から一歩と踏み出すこともなく、永遠なる華金に耽り謳歌していた。夜行の戦利品とも言えるカードで酒を馬鹿に取り寄せ、天井まで積み上がる箱をツマミに喉へ流すのは至高だった。無敵になって、世界の全てを掌握した心地であった。

 だが、時折聞こえる小さなサイレンが水を刺した。夜行のノイズが未だ残ってるようで不快ではあったが、数秒と経てばいつも消えるためら酒で忘れればさして迷惑でも無かった。

 そんなことも思い返しつつ、ベッドから身体を起こす。ああ、もう何度酒を布団に溢したか。息を吸えば吸うだけアルコールが肺に満ちる。まあよい、とにかく冷蔵庫を――

 床に足の付くのと同じ、インターホンが鳴った。


 爽やかな空色が、一様にくすんだ曇空に変わった心地がした。


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 軽微なノイズ。


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 深まる。


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 蝕む。


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 液晶の先に、居た。

 ノイズを抜けて、言った。


「先日の事件についてなのですが――」


 嘘だ。



退勤 完

※この物語はフィクションです。実在する人物・団体・事件などとは関係ありません。万が一、類似する事象があっても、それは偶然であり、意図したものではありません。

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