明日じゃなく、今日
浅野じゅんぺい
明日じゃなく、今日
「決められないんだよな…」
ぽつりと漏れたその言葉が、静かな部屋の空気を震わせた。
壁の時計はいつも通りカチカチと規則正しく音を刻んでいるのに、俺の世界だけがゆっくりと止まってしまったようだった。机の上に置かれた履歴書は、名前だけが記されて三日間、他は白紙のまま。
「また明日やろう…」
繰り返す言い訳は、自分自身に対する裏切りだと薄々わかっている。
それでも、胸の奥に潜む焦りや恐怖の影には目を背けたままだった。
ひんやりした指先にスマホの振動が伝わる。画面にはLINEの通知。
《久しぶり!今週末、会わない?話したいことがあるんだ》
大学時代の友人、洸平からだった。彼の突然の連絡はいつも予想外だけど、今回はなぜか嫌じゃなかった。
*
カフェの薄暗い照明の下、二杯目のアイスコーヒーに沈む氷がカランと音を立てる。
洸平が低い声で切り出した。
「正直、今の仕事、辞めたい」
「部署異動したばかりじゃなかった?」
「うん。でも、なんか違うんだよ」
彼はストローを指でくるくる回しながら、言葉を探している。
「好きなことを仕事にするって、想像以上に難しい。向いてないんじゃないかって、ずっと考えてる」
俺は黙って頷くだけ。胸の奥で小さな痛みがじわりと広がった。
「洸平はちゃんと考えて行動してる。俺はまだ動けてない」
「そうかな…俺は全然決められなくてさ」
「でも、“今のままじゃ嫌だ”って気づくのは、すごいことだよ。俺なんて…」
言葉が詰まり、洸平がじっと見つめて優しく尋ねた。
「どうした?」
「なんでもない」と答え、視線をそらした。
本当は俺も、あの場所で立ち止まったままだった。
*
「迷ってるなら動くべきだ」
「やらなきゃ、何も変わらない」
そんな言葉は、人には簡単に言えるのに、自分には言えなかった。
家に帰っても、志望動機の欄は消しては書き直しの繰り返し。心の絡まりが文字ににじみ出ているようだ。
「怖い…」
小さな声で呟く。
──失敗したらどうしよう。
──間違ったら、笑われたくない。
思考がぐるぐると渦巻き、時間だけが無情に過ぎていく。
「明日やろう」で今日を先送りにするたび、自分の中の何かが少しずつ削り取られていった。
夜、窓を開けて冷たい風を胸いっぱいに吸い込む。
高く澄んだ月が静かに輝いている。変わらぬものがそこにあるからこそ、人はきっと変われるのかもしれない。
わずかに、胸が軽くなった気がした。
震える指で机に戻ったその瞬間、洸平からLINEが届いた。
《あの話、俺もいろいろ考えた。今度、一緒に新しいこと始めてみない?》
その一言に、心が大きく揺れ動いた。
それが、決断の呼び声だった。
震える手でスマホを置き、履歴書の真っ白だった欄にペンを走らせる。
《まずは…名前を書こう》
書きながら、自分に言い聞かせる。
変わってもいいんだ、と。
「明日やろう」で見送った昨日に、はっきりと小さな×印をつけて。
少しだけ、明日が近づいた夜だった。
明日じゃなく、今日 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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