明日じゃなく、今日

浅野じゅんぺい

明日じゃなく、今日

「決められないんだよな…」


ぽつりと漏れたその言葉が、静かな部屋の空気を震わせた。


壁の時計はいつも通りカチカチと規則正しく音を刻んでいるのに、俺の世界だけがゆっくりと止まってしまったようだった。机の上に置かれた履歴書は、名前だけが記されて三日間、他は白紙のまま。


「また明日やろう…」


繰り返す言い訳は、自分自身に対する裏切りだと薄々わかっている。


それでも、胸の奥に潜む焦りや恐怖の影には目を背けたままだった。


ひんやりした指先にスマホの振動が伝わる。画面にはLINEの通知。


《久しぶり!今週末、会わない?話したいことがあるんだ》


大学時代の友人、洸平からだった。彼の突然の連絡はいつも予想外だけど、今回はなぜか嫌じゃなかった。



カフェの薄暗い照明の下、二杯目のアイスコーヒーに沈む氷がカランと音を立てる。


洸平が低い声で切り出した。


「正直、今の仕事、辞めたい」


「部署異動したばかりじゃなかった?」


「うん。でも、なんか違うんだよ」


彼はストローを指でくるくる回しながら、言葉を探している。


「好きなことを仕事にするって、想像以上に難しい。向いてないんじゃないかって、ずっと考えてる」


俺は黙って頷くだけ。胸の奥で小さな痛みがじわりと広がった。


「洸平はちゃんと考えて行動してる。俺はまだ動けてない」


「そうかな…俺は全然決められなくてさ」


「でも、“今のままじゃ嫌だ”って気づくのは、すごいことだよ。俺なんて…」


言葉が詰まり、洸平がじっと見つめて優しく尋ねた。


「どうした?」


「なんでもない」と答え、視線をそらした。


本当は俺も、あの場所で立ち止まったままだった。



「迷ってるなら動くべきだ」


「やらなきゃ、何も変わらない」


そんな言葉は、人には簡単に言えるのに、自分には言えなかった。


家に帰っても、志望動機の欄は消しては書き直しの繰り返し。心の絡まりが文字ににじみ出ているようだ。


「怖い…」


小さな声で呟く。


──失敗したらどうしよう。

──間違ったら、笑われたくない。


思考がぐるぐると渦巻き、時間だけが無情に過ぎていく。


「明日やろう」で今日を先送りにするたび、自分の中の何かが少しずつ削り取られていった。


夜、窓を開けて冷たい風を胸いっぱいに吸い込む。


高く澄んだ月が静かに輝いている。変わらぬものがそこにあるからこそ、人はきっと変われるのかもしれない。


わずかに、胸が軽くなった気がした。


震える指で机に戻ったその瞬間、洸平からLINEが届いた。


《あの話、俺もいろいろ考えた。今度、一緒に新しいこと始めてみない?》


その一言に、心が大きく揺れ動いた。


それが、決断の呼び声だった。


震える手でスマホを置き、履歴書の真っ白だった欄にペンを走らせる。


《まずは…名前を書こう》


書きながら、自分に言い聞かせる。


変わってもいいんだ、と。


「明日やろう」で見送った昨日に、はっきりと小さな×印をつけて。


少しだけ、明日が近づいた夜だった。





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明日じゃなく、今日 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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