Episode.3...Bossとの会話.
ある氷床が砕け、水となって流れ出す時、その雫のひとつひとつは、
崩壊とは決して一瞬の出来事ではない。小さな亀裂が走り、やがて陽の光を受けてじわじわと融け出し、冷たい水滴となって大地に落ちる。その滴が積もり重なれば、やがて川となり、都市をも押し流してしまう。人の世も同じだ。表向きは静かに秩序を保っているように見えても、深層には必ず微細な裂け目がある。それが歴史の奔流に繋がることを、人はいつになっても学ばない。
闘争はモチベーションを高め互いを鼓舞し合う、一種の友情として美化されているが、その実は搾取し合うために互いを蹴落とすためだけに、互いが互いを噛みつきあう、一番弱い鎖を生み出すためだけに、全体の鎖を破壊し合うためだけに行う醜い争いだった。止めるためだけに鎖ごとBossは破壊し人類と言う鎖を断絶しないと先に進まないと進言する。
正しさとは、客観性を帯びた意見であり、正しいとは弱い鎖を淘汰させることかもしれない。では悪とは強い鎖を破壊することなのだろうか?
どちらも正しさとは利権の強弱だけでは決められない。全てが鎖で出来ているだろう。
均衡を破壊しようと企むBossの思想は、すなわち人類の滅亡と減衰と破壊と創造。
神ではない。
正しさのためだけに正しくあるために壊れず生きていけるように、邪悪な鎖を破壊するのみ。
「―――陽朗君」
不意に声をかけられた。重低音を含んだ、耳に残る響き。目の前に現れたのはBossだった。背広の襟を正し、整った銀髪に氷のような眼光を宿している。彼の存在感は、単なる上司のそれではなく、まるで舞台上の支配者のような支配的圧力を帯びていた。
「今日、君に預けるのは、吸血鬼に関する協和的事項だ」
「仕事とは何でしょうね、Boss」陽朗は、わざと皮肉を混ぜて口を開いた。「人の生き死にまで操ったら、それはまるで戦争だ」
「違うんだ」Bossは短く言い切った。灰色の瞳が、まるで冷え切った湖面のように揺れもせず彼を見つめている。
「秩序を整えるための仕事なんだ。秩序が乱れたらエントロピーが上がってしまう。これが起きると何が起こると思う」
「人が死ななくなるから、世界平和が起きると思う」陽朗は、わざと反対の答えを返した。
「逆だ」Bossは唇を歪め、わずかに笑った。「地球を破壊して、人間が地球を崩壊させようとして仕事そのものを放棄して争いごとに巻き込まれるんだ。人類の足並みを整えるために、中間項を乱して、人口を減らす。すると距離が生まれ、エネルギー使用に効率的な社会が生まれ、人類は過疎化し、争わなくなる。一時的冷戦的静かな環境の中で孤独が生まれ、社会を平等にしようとする圧力に流され、エントロピーは最小となる。これが私の理想の社会なんだ」
陽朗は肩をすくめた。Bossの語る理想は、数学的な正確さと冷徹さを帯びている。だがその冷徹さは、人間らしい温度を欠いていた。
「吸血鬼が人を殺したら良いのではないのですか?」
「人とは違う種との共存はしなくてはならないとする君の主張は、大いに否定しかねる」Bossは机の上に片手を置き、指先でゆっくりとリズムを刻んだ。「しかし、エントロピーを増やさない種の存続を願うために、私は種の変更を行う」
「吸血鬼は神か何かと勘違いしている―――?我々を害悪として忌み嫌っている?」
「違う」Bossの声は硬質であった。「世界の秩序を乱す可能性のある種を探り当て、混沌とさせ、chaos化させてしまう害人だから除籍し、一時的に中間項を乱さなくてはならない」
「なるほど」陽朗は深く頷いた。「ヘーゲルの定義ですね。正と反の相補的な人類の拡張を阻止し、新たな人生を歩ませるための処罰による平和への統合という止揚なのですね」
「そうだ」Bossは満足げに頷き、笑みを浮かべた。「君たちにしかできない仕事だ。頼むよ―――クックック。報酬は大いに弾むからさ。期待していてくれ」
「報酬のためにやるわけではない、勘違いしないでくれ」陽朗は言った。
「資本主義として必要な額の金額だ。君の仕事の価値を金に換えただけの話だ。勘違いしないでくれ。大した額じゃない」
「そうか、分かった―――」
陽朗は、まるで自らの存在を否定するかのように、透明なペンキを自分に向かって吐いた。冷たい液体が頬を伝い、衣服を濡らす。その透明さはまるで虚無の具現であり、彼自身が世界から消えゆく存在であることを暗示していた。
―――だが、彼の胸中には別の炎が灯っていた。
「Boss」陽朗は心中で呟く。「あなたが言う秩序も、あなたが語る平和も、結局は数字の上での均衡にすぎない。本当の人間の息遣いは、もっと雑然としていて、混沌としていて、曖昧だ。氷床が砕ける音の中に、人類の未来を決めつけることなどできはしない」
透明なペンキに覆われながら、陽朗の視界は揺らめいた。街の灯火が遠く霞み、Bossの姿がぼやけていく。その中で彼は確信した。―――この仕事はただの契約ではない。人類そのものを賭けた審判なのだ。
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