今でもわからない

由ナゴト

今でもわからない

もはや蝉すら鳴くのを止めてしまうほどの猛暑を記録したあの日、俺は目の前に広がる真っ白な計算ドリルに辟易としていた。


夏休みの旅行と母の帰省を兼ねて、東北にある祖母の家に来ている。都会にはない景色、空気、遊びに最初は心躍らせたものだが、三日も経てばもう日常と化す。毎年のことだが、俺は既にこの何もない田舎の退屈さに飽き始めていた。


扇風機の前で生暖かい風を浴びながら、少しでもこの暑さから逃れようとぬるくなった麦茶を一気飲みしたと同時に襖が開き、母がひょっこりと顔を出す。

「午後からアキちゃんたち来るから、ちょっとおばあちゃんと買い物に行ってくるね。一人で留守番するの大丈夫?」

「大丈夫だよ。いつも留守番してるじゃん」

「玄関は開けておくけど、それ以外は閉めておくね。近所の人が誰か来るかもしれないけど、あんた出なくていいからね」

そう言い残すと、母はスーッと襖を閉じて行ってしまった。母と祖母のバタバタした足音と騒がしい会話が遠のいていき、砂利の上を車が走る音が聞こえた。


健全な小学生男児である俺が一人家のなか、素直に宿題を進めるわけがない。大きく背伸びをしたまま畳の上に倒れこむ。連日の蒸し暑さと慣れない場所での生活で疲れがたまっていたのか、俺はそのまま眠ってしまっていたのだった。


「ごめんくださあい」


そんな声に反応して目が覚めた。時計を見ると、三十分ほど眠ってしまっていたらしい。


「ごめんくださあい」


玄関に誰かが来ているようだった。先ほどと同じ調子で声が聞こえてきたが、母から「出なくていい」と言われていたため、そのうち帰るだろうと思い、気配を殺して無視することにした。


「ごめんくださあい」

「ごめんくださあい」

「ごめんくださあい」


一定間隔で聞こえてくる声がなんだか不快だし、一向に帰る気配がない。ただでさえ蒸し暑い上に宿題が進まないイライラ(これは俺が悪いのだが)も相まって、俺はついに玄関で応対することにした。


「どなたですか」


声をかけた瞬間、しまったと思った。


きっとご近所さんの誰かだろうと思っていた。だが、ご近所さんなら俺が声をかけるまでもなく入ってくるし、律儀に開けてもらうまで待つなんてことはしない。


であれば宅配便や郵便局の人かとも思ったのだが、そういう雰囲気も感じない。ごく一般的な服装で、すりガラスの向こうに立っているように見えた。


それに、なぜだか――あまりにも静かで、目の前にいるのに、誰もいない。そんな感じがした。


「よしのです。開けてください。」

「ごめんなさい。今おばーちゃんもおかーさんも居ないので、後にしてもらえますか」

「よしのです。開けてください」


その無機質な声に思わず鍵を掛けたい衝動に駆られたが、そんなことをしたら余計に相手を刺激してしまうだろう。かといって背中を見せるとその瞬間に入ってきそうで恐ろしくて、俺はその場で固まってしまった。


そうしてしばらく声も出せずに固まっていると、その様子を見透かしたかのように“よしの”は玄関のすりガラスの引き戸に手を掛けた。


見てはいけない。


咄嗟ににそう思った俺はギュッと目をつぶった。今思えば不審者を目の前にして目を瞑る方が怖いのだが、あの時の俺は目の前の恐怖からとにかく逃げたい一心だった。


ガラララ…と音がして、ズッ、ズッと布のようなものを引きずる音とともに誰かが入ってくる気配がする。俺は恐怖に包まれながらも体を動かそうともがき、玄関に背を向けて部屋のなかへ走りだそうとした。


その瞬間、腕が何か冷たいものにグイとつかまれて床に頭を打ち付けた。衝撃でつい目を開けてしまった俺の眼前に広がるのは――


黒い着物を着た、髪の長い、目が真っ黒な女。


恐怖で歯がガチガチと震え、見たくないのに目を逸らせない。そうして震えているうちに女の顔はどんどん近づいてくる。いよいよ髪の毛が俺の顔にかかるところまで接近したとき、女は耳元でこう囁いた。


「ただいま」


その瞬間から、俺は気を失っていたらしい。





「よしのって言ったの?」

「うん」

祖母と母が買ってきた桃を食べながら、先刻あった出来事を話した。玄関で居眠りしていると勘違いした母親に叩き起こされ、宿題を進めていなかったことに大目玉を食らったところだった。


「佳乃って言ったらおばあちゃんの妹だねえ。小さいころに溺れ死んじゃったけど、桃が好きな子だったからこうして毎年供えているんだよ」


なーんだ。じゃあ帰ってきたってことか。怖いは怖いけど、正体が分かればまあ哀しい話というか、良い話だね。


そんなことを言ってホッとして次の桃に手を付けたのもつかの間。おばあちゃんの次の一言で、俺はまた恐怖の奥底へと引きずり込まれることとなる。


「佳乃はいつも綺麗な赤いスカートを履いていてね。目がまんまるで髪も綺麗に切り揃えて活発で……とても良い子だったんだよ」


そう言って目を潤ませながら手を合わせる祖母を横目に、俺は体が脳髄から冷え行くのを感じた。


じゃあ、あの着物に身を包んだ髪の長い女は一体――

思わず玄関に続く廊下へ顔を向けると、光が届かない奥の部屋からパタン、と襖を締める音がした。

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