ヴァーティカル・エバキュエイション
武内明人
ヴァーティカル・エバキュエイション(垂直避難・全編)
地震は水の波紋。地震そのものは恐怖であって命を奪うものではなく、揺れる事から起こる建物の崩壊、津波、土石流、道路損壊等に広がる事によって絶命へと導かれる。
1月1日、新たな年を無事に迎えた四ノ宮瑞生(しのみやみずお)は安堵していた。「2年前を思えば」炬燵に足を突っ込みながら何とも言えない温もりと解放感を味わいながら実家から送られた伊予柑を四分の一ずつ口に頬張った。彼は都内の単身アパート「クラウディアハウス」で暮らしている。一昔前とは違い単身者のアパートも住み心地では一軒家に引けを取らなくなったと感じている。長年同じ住まいに居るとそこが終の棲家になってしまう。
「餅でも焼くか。」去年購入した遠赤外線グリルに実家から伊予柑と共に送られた真空パックの突き立て餅を3個、焼用網に乗せタイマー6分でセットした。「今日のセットは完璧だ。」グリルを使うと必ずと言っていいほど食材を焦がしてしまう四ノ宮は、自分の塩梅で決めるからだと分かっていてもマニュアルを見る気はさらさらない。仕事柄、型にはまる事が無いからだ。テレビに付けられたクロームキャストで映画を大晦日からずっと流し続けているせいか、映画館に向かう事も無くなった。彼はSF映画しか見ない。宇宙という空間は情報化社会では味わえない神秘さがあり、何でも分かってしまう社会生活から解放される唯一無二のものと解釈している。決まりきった社会の常識を持った所で自分のやっている仕事からはかけ離れた事ばかり。勿論、仕事上必要な知識は持っている。其れは、テレビのニュースやネットの情報では知り得ない研究所の情報だ。社会の常を知ったとして何になるのか。最近のニュースや新聞、政治、犯罪、地方の情報、株、もろもろを知ったところで仕事の役には立たない。常識が通じないこの仕事。大震災と言う社会が崩壊する時の為に働くこの仕事に日常はいらないと四ノ宮は思っている。
「おっとそろそろ出掛けよう」午後三時初詣客の引き潮時に神社に参拝するのが毎年恒例である。アパートは主要道路から道一本外れていて騒音は殆んど感じさせない。四ノ宮が向かう神社は乃木神社。明治時代の乃木将軍縁の神社で現代ではアイドルグループの成人式に使われる神社として知名度が高い。安産祈願、七五三などで使われる人気のある神社である。神社は彼の予想通りに閑散としている。人混みを極端に嫌う四ノ宮は新年早々縁起がいいと晴れやかな気分で参拝した。四ノ宮が人混みを嫌う理由、それは語るまでもない。大震災がその場所で起こった時の状況を考えてしまうからだ。
2年前の3月4日午前6時、クラウディアハウス駐車場。「ちょっとコンビニ寄れそうだな。」朝食は何時もコンビニの110円総菜パンと決めている四ノ宮は、Nバンのスターターボタンを押しエンジンを掛けた。
東京ICから東名、首都3号渋谷線、首都5号池袋線、首都埼玉大宮線、首都埼玉新都市線を通り埼玉見沼へ、ここまで来ると職場である日本防災対策センター「ディフェンド」の突き出た白い三角屋根が見える。ディフェンドは来年度、災害対策法案の指定行政機関に組み込まれる予定だ。建物はそのままにスパコンとのシステム連携の高速化、装備も専用ヘリを新たに高性能ヘリへと乗り換える。特例許可を得て救助活動も行えるようになった。ヘリポートには既に配備されている。「7時半か」見沼のコンビニで少し休憩するのも日課だ。店内は5,6人の客が弁当が並んだ棚の前に立っていた。その背中側にパンの棚がある。「すみません」と四ノ宮がパンに向かって進もうとするが弁当に見入っている一人がパン側にいる為、総菜パンが取りにくい。しかも若い女性。すると「あっ、すみません」とその女性が前を塞ぐように立っている会社員風の男性客の列に並んだ。四ノ宮は意外に思った。最近の若い女性ですみませんと言葉を返す人は少ない。しかも中年男の間にに嫌な顔一つせずに並んでくれた。彼女の心中思惟はともかく好感の持てる態度に見えた。四ノ宮は総菜パンを手に彼女に頭を下げ、総菜パンを車中でぱくついた。「美味いないつも、毎日玉子コロッケパンを食べても飽きが来ない。」満足顔で食べ終えた四ノ宮は仕事場へと向かった。「さっきの娘、感じがすごく良かった。生具というか生まれた時から人を朗らかにさせる資質の様に思えた、朝から良い気分だ。」コンビニから10分程でセンターに着いた。何時も笑顔で対応する、シルバー人材から派遣された75歳の守衛に挨拶と登録証を見せ駐車場に車を止めた。
日本防災対策センターディフェンドは災害に伴って発生する2次3次災害の防波堤で主に自治体を跨ぐコミュニティの構築を担う。国、都道府県、市町村に続き指定公共機関の一つに当たる。勿論、緊急事態の権限は内閣総理大臣にある。その為の中央防災会議、市町村防災会議など行政の整備は進んでいるが、住民にとっては責務があるとはいえ、仕事や生活を抱えている以上、防災を専門的に扱うわけにはいかない。毎年災害救護対策などが行われているが現状参加主体は職員が殆んどで国民すべてに行き届いてはいない。避難訓練などはその殆んどが学生、老人である事など中間世代をどう防災対策に取り込むかその手腕を発揮できるかが問題となっている。その為、ディフェンドでは、地域コミュニティに働きかけと情報の交換を目的として活動しているのだ。
「四ノ宮、四国4県のコミュニティ統合資料を作ってくれ。」四ノ宮の所属部署である南海コミュニティ課の信田課長の指示に対して「南海に動きが」と聞いたが南海トラフの異変ではなくシナリオ作りの一環である事が分かった。
南海トラフ地震は約100~150年周期だと予測がある。前回は1944年の昭和東南海地震になる。2、30年の間に巨大災害から命を守る術を見つけ出さなければならない。いや、誤差を考えれば何時来ても人が助かるようにしておかなければならない。「分かりました。」パソコンに向かい四国4県の統合コミュニティ資料と銘打ち住民リーダーを中心とした災害時の連携方法案を入力していく。
「思えば、」南海トラフは住民にとって災害のイメージが強烈にある。然し、南海トラフにはエネルギー資源の乏しい日本にとって宝石より価値の高いものが存在する、クリーンな天然ガス資源「メタンハイドレート」だ。低温で高圧の場所にしか存在しない結晶である。日本にとって電気、ガス、水は生活する上で無くてはならないライフラインであり枯渇するエネルギー資源に一石を投じる発見であった。
「電力供給の面が弱いよなぁ」巨大災害において電力供給のバックアップ機能が日本は手薄である。被災地で供給がストップした場合、自電力の復旧作業、被災地以外からの融通供給、緊急発電による供給の3段構えで挑むが供給量は十分では無い。「然し、現在の姿をコミュニティに報告する事も大事だ。」四ノ宮は日本の現状と研究されている事項の両面で資料をまとめていった。「ここはコミュニティの気になるところだな、計画停電。失った電力の充填策だが施設や病院等停電除外対象があることについて尊厳の問題まで踏み込まないと理解は得られないだろう。」生活にとって電力がライフラインと言うならばそれを止める事は命の危機に値する。そう四ノ宮は考える。電気が無い事へのストレス、冷蔵庫等食品ロスが食糧不足に繋がることへの身体的負担、電車が止まれば仕事にも影響が出て経済的負担にも繋がりかねない。一般の家庭目線で考える事が重要だ。独り身の自分もそうだが家族を抱え食料に困るとなれば戦後の日本に戻ることになる。芋の蔓を食うわけにはいかないのだ。
四ノ宮は決してタイピングが得意ではない。どちらかと言うと苦手でそこを買われたというか外されたというか今のコミュニティ課に在籍している。30歳という年齢は20代以上にパソコン知識が高い。同年代は全て別部署の南海トラフIT課に配属されていた。地方のコミュニティは高齢のリーダーを中心に構成される場合が多い。勿論、現役世代は仕事があり日中も働いているのは致し方ない事ではある。そういうリーダー達との打ち合わせにスーパーコンピューターシステムの話をしたところで聞く耳は持たない。それよりも人による連携を強調する方が効果的なのは四ノ宮の経験値から分かっている。地震の予測は気象に比べてかなり後れを取っている。今はまだスーパーコンピューターによるシナリオ作成が限界だ。「課長、これで如何でしょうか。」出来あがった書類を信田(しのだ)課長の机に置き四ノ宮は出張期日を聞く準備をした。四ノ宮はこの書類と共に四国へ飛びコミュニティ会議を主催しなければならない。四国四県が順番に会議を開くことになっている。今回は香川県だ。「ふっ、相も変わらずパソコン用語、ネット用語が一字も無いな。まぁ、爺さん婆さんにコンピューターによるデータが何て言っても馬耳東風だろうがな。良し、明日行ってくれ、役所には俺から連絡入れておく。」厳しい言葉が多い信田だが四ノ宮には全幅の信頼を置いている。彼ほど人の気持ちに寄り添う事ができる人材はディフェンドには居ないと思っている。羽田から日本航空で香川県高松まで一時間ほどで着く。朝7時40分の便を予約しその日にとんぼ返りを言い渡された。帰りは夜8時50分のジェットスタージャパンで成田までとし、四ノ宮は一旦アパートに戻り身支度を整える事にした。
アパートに戻り下着やスーツの換えを出張用に買ったマットーネ製のボストンバックに詰め終えた時、固定電話が大泣きした。然し、四ノ宮は受話器を取らずに留守電機能に任せる。会社にはスマホの番号しか教えていない。固定を置いたのはコミュニティを考えた時、高齢者との生活習慣の差を無くす為だ。そんな他愛もない事が人の間に歪を作るそう四ノ宮は考えていた。会社でコミュニティとの折衝が上手いと言われるのもこれが一つの要因となっている。仕事の電話でなければ急ぐことも無い。「きっと。」と四ノ宮は、電話の主に見当が付いている。準備を整えながら留守電の電子音をスピーカー機能で聞いていた。「瑞生かい、お母さんだけど。えらいそうたいぶりやな」予期していた人物だ。「元気かい、お金に困っていないかい。今日、猪肉と生活費少し入れて送ったからね。足りなかったらかんまんから、電話ちょうだいや。」四ノ宮は生活に困るような給料では無い事は両親とも認識している。それでも昭和の親と言うものはそういう思いを語るのだ。母の足りなかったらは電話の催促でもあった。「ところで、お父さんの事だけどね。がいな癌が見つかったのよ。」泣き上戸の母の涙声は何時聞いても辛かった。「肝臓がん、お酒が相変わらず多くて何時かと思ってたけどやっぱり。余命宣告はされんかったけんど摘出が必要や先生が言ってたわ。一度もんてお父さんを喜ばせてやって。お母さんも待ってるから。あ、そうそう、いい人出来たんなら一緒に連れてもんてきてええが。」四ノ宮は少しほくそ笑んで「あれだけ、母さんが、止めたのに父さんが酒を辞めないからだ。一度帰らないとな。」四ノ宮の実家は愛媛県宇和島にある。両親ともがみかん農家として現役で働いている。父の棟市(むねいち)は地元で有名な酒豪で最近酒を飲まなくなったと母の諏訪子(すわこ)が喜んでいた。きっと父は飲まなくなったのではなく肝臓がアルコールを受け付けなくなったのだろうと四ノ宮は解釈した「好きな酒で死ねるなら本望だ。」良く聞く言葉ではあるが、父の言葉は深みを覚えた。その言葉は四ノ宮の脳を何時までも反芻している。勿論父の死を受け入れるつもりはない。しかし、自分の人生を本人が決められない社会には違和感を覚える。震災はたくさんの命を自然が勝手に奪う。それこそが悲しい悲劇ではないのか。「後悔のない人生を送る事は親父の権利だ。」心の葛藤とは裏腹に四ノ宮は会議の準備を終え、深い眠りに就いていた。母親に甘える子供の様に。
次の日、四国のコミュニティ会議に飛び立った四ノ宮は早速、行政側との打ち合わせに望んだ。何時も思う事だが踏み込んだ話をコミュニティに伝える項目には異論が出る。南海トラフ地震の起こる周期から危険な状況だと知らせる事に関して、「起こるかどうかわからないものを公にするのはいかがなものか。」「其れを伝えて何も起こらない場合行政の信頼を無くすのでは。」等、命を守る事とはかけ離れた議論を繰り返す。その後行き着くのは決まって「スーパーコンピューターは機械で命あるものではないから信用するに値しない。」と言うのだ。データと言う現実を積み重ねたもので生きている情報である事を理解しようとしない。詰まり博士の理屈は聞くが、コンピューターの言う事は聞きたくないのである。人相手に仕事をする行政側に技術を要する機械の話をする方に無理があるのではないかと四ノ宮は何時も思っていた。結局纏まった案はコミュニティの大切さやリーダーは高齢者から選ぶ事など人的なものだけで南海トラフに関する情報は一般的に起こり得るとだけにとどめられた。スーパーコンピューターによるシナリオは控えるよう注意が入った。然し、四ノ宮はある事を会議の席でやるつもりだ。
次の日、四ノ宮は香川県のコミュニティセンターに出向き四国四県の代表市民に説明を始めた。「皆さんの協力が震災から命を救う事になります。」過去のコミュニティの活躍を静止画像、動画を使って強調して現すと、高齢リーダーたちは意気投合し「俺たちが頑張らなんとの。」「孫たちを助けなきゃな。」と四ノ宮の思惑通りに会場全体が纏まった。「香川県の住民の方には、他県に比べ特に注意をして頂きたいのは内陸津波です。」コミュニティリーダーたちの反応に四ノ宮は探りを入れるように慎重に話す。
内陸津波はダムやため池の決壊によって起こる。ため池は、資料で確認できているのは江戸時代までであるが締め固め工法と言う人的な施工で作られている。機械重機が無い時代に人の力だけで大きな水たまりを支え農業に欠かせない水を蓄えたのだ。現在は、主に前刃金式工法を使ったり、コンクリートなどで改修工事をしているが、ため池自体個人所有が多く、昔のままになっているものも多い。ため池によっては持ち主が放棄している個所もある。
四ノ宮が、その情報をリーダーたちに伝えると会場の雰囲気は一変した。パワーポイントを使って地震によってため池が決壊し大量の水が一気に建物などを壊す有様をイラストで分かりやすく表現したつもりだったが、危機感を与えるよりも反感が爆発した。「じゃあ何かの、我々が、災害を齎すとでも言いたいんかの。」現在のハザードマップでは、海からの津波は想定しているが、ため池に関しては正確なデータが公表されていない。今回の画像などは東北地方太平洋沖地震の被災状況から立ち上げたデータだった。「仕舞った、これは見せない方が良かったか。」四ノ宮は、何とかその場を取り繕うと次の説明に進もうとしたが、住民の怒りが次へ進めないほどの緊張感に変えていた。加えて行政側も、四ノ宮の作った決壊画像が確かなものなのか疑い始めた。四ノ宮の横の席に居る司会の行政職員が、取り繕おうと「これは、四ノ宮氏の個人的な研究結果で、皆さんが心配するようなものではありませんのでご容赦ください。」その言葉に、何か言いたそうなコミュニティリーダー達ではあったが、不満を抱えながら引きさがる。場の雰囲気は最悪な状態だ。四ノ宮も、説明責任よりもその場を収め終わらせる事に徹した。「それでは、この画面をご覧ください。」プロジェクターで映し出されたた画面にデータ表やグラフなどで東北太平洋大震災から不足とされたコミュニティのデータ結果を表示すると、反発する不満が爆発した。「字が小さくて分からん。」「数字ばかり並べても命が救えると思えん。」会場の平均年齢は72歳。中年であってもついていけないデジタルデータに高齢者は「大きい紙に書いてくれんか。人が書いた字や絵の方が分かりやすい。」とペーパレスの時代に大きく逸れるような意見ばかりが蓄積する。「確かに自分のPC能力は劣っている。然し、これではどんなに長けた人間が作っても同じだ。」と四ノ宮は何時もの事だと返答に窮した。「そうですね。私もパソコンなどは只分かりにくいものだと思います。ここからは、口頭で説明し、その都度皆さんの意見を聞いていきましょう。」アンサーアンドクエッション式で勧める事にした。治まらない会場の雰囲気を打開しようと、四ノ宮は敢えてため池についての説明をして、その都度質問を受け付ける事にした。「ええ、皆さん気になされているため池の東北地方太平洋沖地震の非常災害状況をまずご説明したいと思います。」ここでいきなり質問者が出た。「聞いた事のない地震だが、何時のどんな地震か。」四ノ宮は、専門用語を使わず、「東日本大震災、つまり3.11です。」この言葉で会場全てが静まり返った。
3.11は日本に限らず全世界に衝撃を与えた大震災だった。巨大地震、津波の恐ろしさをまざまざと見せつけられた大災害だ。「この地震で、藤沼ダムが崩壊し、死者が八名、全壊家屋は20棟に届こうかというほどでした。」四ノ宮の言葉で、反発ばかりのリーダー達の顔色が変わった。「然し、ため池も法整備されていると聞く。」住民側のその質問は、四ノ宮の用意にある。「確かに農林省によってため池台帳が整備され、ある程度の確実なデータが蓄積されてはいます。そこで皆さんリーダーの方々に是非ともこれからいう事を実際の大震災の時に実行していただきたいと思っています。」四ノ宮の言葉に体を乗り出すもの、息を飲むもの様々な表情がある。「逃げる方向を間違えないでほしいのです。」気が抜けるような言葉だった。かすかに笑うものもいた。その中の一人が、「津波が来る方向に逃げるような人間がいるか。いくらパニックと言っても迫ってくれば逃げる、当たり前に反対に走って逃げるだろう。」場内に笑い声が響く。四ノ宮の表情は重く暗い。「そうですね、ごく当たり前に逃げればいい、然し、その逃げ場が無いとしたらどうしますか。」場内の笑いが険悪さに変わる。「逃げ場がない、どういう事ね。」一人の老人が怒鳴った。「正確には逃げる暇がないという事なんです。ため池から住宅までの距離を考えると津波の速度は人間の速さでは逃げる事が不可能だと言う事です。」「それじゃあ、俺たちは犬死するしかないということか。」悲痛な叫びのように四ノ宮には聞こえた。「そうならないように、皆さんが誘導して内陸津波が起こり得る場所、つまり、ダムや、溜池に隣接する場所は垂直非難という方法をとるよう促していただきたいのです。」全員がイメージから、「上に逃げるということか。」と分かった。「頑丈な建物、もしくは、近くの高い場所に避難する事が最善です。近代になりビル群が立ち並ぶようになりました。会社もしくは法人所有の高いコンクリート建築物、他にマンションやアパートなど、3階以上の建物の所有者には是非協力を頂き、また、行政の方々には漂流物の衝突力が少ない円筒形の津波避難タワーの建設の協力を要請します。こちらからも国への働きかけなど全面的に協力いたします。然し、建物の耐震性は、津波に耐えられるかどうか、詳しいデータがありません。建築基準法を満たしていれば安全と言うわけではないという事を理解してください。それと、ダム、溜池が決壊した場合のハザードマップは概略程度のもので、どのくらいの時間でその場所に到達するかは、まだ正確には解明されていません。」住民の動揺は会場を揺らすほどだ。「それじゃぁ、ため池が崩壊したら、わしらはお陀仏だと言うのか。」行政側も動揺の体だ。「四ノ宮さん、そんな大げさな事を。」四ノ宮の言葉は、現在日本が抱えるため池問題の核心だった。然し、ハザードマップは制度を上げつつ、完成に近づいている事は確かだった。「それともう一つの問題があります。」行政職員全員、それにコミュニティリーダー全員がもうやめてくれと騒ぐ中、四ノ宮は、怯まずもう一つの恐ろしいデータを繰り出した。「それは、南海トラフ大震災が起こった後、もう一度地震に見舞われる可能性が出てきたというデータです。」この事は行政会議でも言わなかった。その場で決断した研究結果報告だった。
南海トラフにおいてフィリピン海プレートとユーラシアンプレートの間でモーメントマグネチュードの地震が南海トラフ大震災以降10年から50年の間で起こる可能性ある事がデータ解析されている。「これは仮にですが、仮に南海トラフ大震災直後にこの内陸地震が来た場合、揺れが長期化しこの地域は壊滅する可能性があると言う事です。其れが四国、近畿、東海に起こり得るというシュミレーションデータが現実に有るのです。」四ノ宮の発言は周りを不愉快にしたいだけの愉快犯というレッテルを張ったにすぎなかった。実際、これは膨大な歴史資料から計算された精密なデータだった。続けて四ノ宮は全員の動揺を抑える為こう言い放った。「動揺を押さえてください。今日の説明会の趣旨は、家屋の耐震性の見直し、ため池の危険性、逃げる場合は垂直非難、この事を胸に刻んで、起こり得る災害に対応する為の懸け橋として、コミュニティリーダーの皆さんに頑張っていただきたいと言う事です。あそこまで5分だから助かるとは思わないように促してください。」コミュニティリーダー達は危機迫る恐怖と四ノ宮への不信感とこの会義への怒り顔で沈黙している。四ノ宮は、最後のセリフはこう決めていた。「皆さん、災害はどこでも起こり得る事です。であれば日本全国民で協力し合うそれが必要な事です。災害は南海トラフだけではありません。皆さんにとってのライフライン、電気、ガス、水道。これも共有し合うのが個人個人を守ることにもなります。「分け合う精神、」今はもう死んでいるような言葉ですが、ここに居る年代の方々ならば分かると思います。戦後の日本は全員の協力で乗り切れたのです。協力は困った人への又困った時への日常として受け入れていただきたい。」最後の言葉は蟠ったこの会場を包み込むように一瞬浄化した。信田が信頼しているのは、四ノ宮のどんな状況も覆す人の気持ちを包み込む弁術でもある。
コミュニティ会議は情報の共有という要件を達成し、四ノ宮にとっては意義のある会であった。会議後、反省会と称して、行政との打ち上げがあった。遠路から訪ねてきた四ノ宮へのお礼だとした会だ。妙に舌に堪える酒だった。四ノ宮の胸中には、「自分は、ただ、周りを慌てさせ、追い込んだだけ」の人の様に思えて仕方がなかったが情報の開示が叫ばれる昨今、今回ほどの見える化は無いだろうとも思った。
その夜、ジェットスターで四国から成田へ戻った四ノ宮は、眠りに落ちる事無く、今回の四国コミュニティ会議の報告書を自宅で作り終えた。既に、夜は明け、出勤時刻になっている。四ノ宮は疲れも感情も無く、そのまま、ディフェンドへとNバンを走らせた。
「四ノ宮、四国コミュニティ会議の報告書出来あがったか。」信田課長の声に渋い表情で「出来ています。」と立ちあがったその足は、マラソンランナーが疲労の限界で感じる鉛を結わえたような重い足どりだ。「これです。」昨夜作り上げた報告書を提出すると、信田の口から、「ちぇ。」と批判する言葉を詰め込んだ音が聞こえた。一瞥した信田はこめかみに薄っすら血管を浮き上がらせている。怒りをぶつける事が明らかな表情だ。其れは単に書類のせいだけではない。四国コミュニティ会議の終了と同時に行政側からの苦情電話が信田に掛っていた。打ち上げの時、職員たちはおくびにも出さなかった。四ノ宮もいつもと違う怒り方の信田に何かは感じていた。「何だこれは。経費使って道後温泉にでも入ったか。」畳みかけるように「おまえはやっぱり落ちこぼれだ」吐き捨てられた四ノ宮は、「何も結果を残せなかったんだしょうがない。」と自虐する事しかできなかった。信田が求めていたのは、情報開示ではない。地域コミュニティとの深いつながりを持つ事だ。深々と頭を下げその場を取り繕った。
翌日、「瀬戸内コミュニティ等による津波を考える会」と言う説明会を市民団体が主催し、ディフェンドにも招待状が届いた。信田は四ノ宮に敢えて出席する指示をした。会場は、岡山県岡山市。
岡山県は、干拓地が多く、液状化現象を受けやすい。おまけに海抜ゼロメートルで津波に脆い土地と言われている。臨海部から内陸に伸びる網状用水路が、津波被害をさらに増幅するとも思われている。
四ノ宮は、今回岡山まで高速バスを使う事になった。四国コミュニティ会議の失態により経費を削減された。「約10時間の長旅だ。景色を眺めながら観光気分で乗り切ろう。」ブルートゥースのイヤホンを耳に入れ、周りの音をシャットアウトしSF映画のテーマを聴いていると流れる景色が映画のワンシーンとなって四ノ宮のもやもやを消してくれる。「世界に必要な人間だけが生き残ればいい。」映画のセリフが、起こる災害の結末の様に思えてくる。しばらく思いにふけっているといつの間にか会議の事で頭がいっぱいになってしまう。
「岡山に最も津波の影響を齎すのは、紀伊水道、他にも明石海峡、鳴門海峡、豊後水道と、津波を招待するような地形だ。用水路の説明で、香川のため池の様な事にならないよう気をつけなければ。」四ノ宮は、余り詳しいデータの説明を今回は止め、避難経路や身体弱者などのヒューマンセオリーな説明に終始する事に決めている。聞いてる音楽よりも考え事の方に意識が移っているとバスの照明が消えた。「消灯か。眠れるかなぁ。」四ノ宮の脳細胞は活発な動き止めようとしなかったが、暗い中で目を閉じているといつの間にか眠りに落ちた。
目覚めたときには、岡山駅のバスターミナルに着いていた。岡山に着くとすぐに市民団体の代表浅貫康一郎(あさぬきこういちろう)に会う為、タクシーで自宅のある岡山市内へと向かった。到着すると浅貫の家に少し驚いた。ごく普通の借家で、平屋の上に外見からかなり狭い家という印象を受けたからだ。いくらボランティア団体とはいえ、大体は、そこそこの家に住んでいる代表が多い。どこかの会社の社長だったり、中には元大臣経験者の代表もいた。「ほんとに市民の為に働いているお方の様だ。」四ノ宮は余計な詮索を打ち消すように、手作りらしき呼び鈴を鳴らした。「おはようございます。浅貫さん。」ノブ付きの簡易なドアの前で、聞こえるよう大きな声で呼んでみるが、しばらくたっても人の気配を感じない。何度か繰り返したが、矢張り、気配が感じられず、「おかしいな、予定通りの時間だが、どこかへ出かけたかな。」四ノ宮は家の周りを散歩するかのように歩きながら粗末な住まいを眺めた。大きな窓は一つも無く顔だけが見えるような小さな窓が東と西にあるだけで家というよりも倉庫に近い建物だ。家を一周し、諦めてホテルへ行こうかと思っていると、「あの、家に何かご用ですか。」若い事務の制服を着た女性に声を掛けられた。「あ、いえ、浅貫さんにちょっと用事があって。」四ノ宮が言葉を言い終えて顔を正面から見たとき、「あれ、どこかで会ったような。」と言う疑問を感じ、若い女性も、目が驚いているように思えた。「あなた、確かコンビニで会いましたよね。」女性が先に疑問を解いた。「コンビニ、」四ノ宮はその人物を思い出すのに時間がかかった。「あ、高速下のコンビニのあの時の。」四ノ宮は、日本語が少しおかしく思えたが、あの「すみません」の女性だと思い出した。人を包み込む優しさを感じたあの女性だ。彼女の名前は、浅貫緋香里(ひかり)、岡山市役所職員だという。「なんであなたがここに居るのか驚きました。」四ノ宮は、自分が彼女に思った感情は隠して言った。「私も驚きました。埼玉で有った人に地元で会えるなんて、偶然というものはほんとに人を驚かせますね。」彼女の言葉で二人はお互い身近な存在に思った。緋香里の話では埼玉へは短期の出張だったらしい。四ノ宮は、公務員もあちこち飛ばされて大変だと思った。今は、近所にいる叔母のところへ父の昼食を頼んでいたと言う。母親は、2年前に乳癌で亡くなったと言った。ふと父の事が浮かんで不摂生な父とは違うと打ち消した。「それはそうとお父さんの所在はどちらに。」四ノ宮は取ってつけたように肝心な事を聞いた。くすりと緋香里は笑い、朝の散歩です。浅貫は、常日頃から、この近くを周回する散歩を行いながら町の様子の変化や、危険予知などを現地で行うという。四ノ宮は、自分よりも詳しい事は間違いないと思った。「もうすぐ帰ってくると思いますから、家に入ってお待ちください。」という彼女に対して出勤時だと思い丁重に断りを入れ四ノ宮は玄関前で待つ事にした。緋香里には仕事に行くようお願いをした。
待つ間、家の前の灌漑用水を確認してみた。「これだと、農家が困難無く仕事が出来る。良い農作物がとれるだろう。しかし、」この用水路が津波に襲われれば住民はこれが鬼門となる。臨海地の住宅は、用水路に沿って建てられる、内陸津波を回避するには、住み慣れた自分の家を捨てる形になる。避難する方向は、用水路から離れる方向でなければならないからだ。簡単にはいかないのは、住民たちは常日頃用水路に沿って歩き、車を走らせる。生活とは真逆な行動がパニック状態の時に可能なのかどうか。考えながら煙草を吸おうと携帯灰皿とラッキーストライクをポケットから出した時、「どちらさんですか。」顔を見合わせた四ノ宮に強烈な印象があったのは、綺麗にそりあがった頭だ。「あ、私は四ノ宮と申しますが、ここの浅貫さんに用事があって。」言葉の終りを待たずに四ノ宮という名前で自分に用だと分かった浅貫は、「四ノ宮さんでしたか、どうぞ入ってください。茶でも。」と四ノ宮を招き入れた。「然し、驚きました。あんたの様な東京の偉いお方が、私個人に会いたいと言われて。」四ノ宮は、今回の岡山での災害会議には、前回の香川での失態を踏まえ、根回しと言うわけではないが、代表にある程度、詳しい確信を突いた説明をしておくのが上手くいくような気がした。浅貫は、岡山のコミュニティの代表であると同時に、行政に頼るよりも住民からの信頼が厚いという情報を岡山市の同僚に聞いていた。この男を何とか納得させればと思ったのだ。「さあ、お茶が入りました。岡山名物、桃のお茶と、大手饅頭です。摘まんでください。ちょっと癖が強いんじゃが。」四ノ宮は恐縮しながらも、初めての桃のお茶の甘味に心を奪われた。「桃の香りが鼻をくすぐって懐かしいというか、母親を思い出します。」
母親という存在は人によって異なる。父親ならば形が有るのかもしれないが、自分の体内から生れ出る人間に対して、愛情という形では表せない慈愛の情と言う感情が溢れる。体が切り裂かれるような痛みを何故母親は絶えて忍ぶ事が出来るのか。妊娠の知識以外の本質と言うものを女性は男性では経験できない方法で知る。アウストラロピテクスの時代からずっと営まれているのはもしかしたら、出産なのではないだろうか。四ノ宮はしばらく桃茶の香りに酔っていた。
「四ノ宮さん、四ノ宮さん、口に合いませんでしたか。」浅貫が心配そうに四ノ宮の顔を覗きこむ。「え、あ、いや、余りにも香りが心をくすぐるものですから。」四ノ宮は、母の電話の事を思い出していた。「それでわしに何のご用ですか。会の時ではいけないような話じゃろうか。」浅貫は、どちらかと言うと興味を示しているように思えた。「いえ、会の時に説明する話をあらかじめ知っていただく事でより充実した説明が出来ると思いまして。」四ノ宮の言葉にウソは無い。然し、思惑は確かにあった。浅貫が納得していれば他のコミュニティから反発が出ても自分の主張を押し通す事が出来るのではないか。然し、それは自己満足なのかもしれないとも四ノ宮は思っていた。「それではこの図形をご覧ください。」食卓テーブルに広げた3枚のA4紙に、用水路と住宅、臨界区域の色分け、海洋を現している。「今回の瀬戸内コミュニティ等による津波を考える会に提示しようと思っている被害が及ぶ区域と避難経路です。」浅貫は図を食い入るように見てうなった。「んんっ。これは岡山市の全体図ですな、この赤い色つまり内陸からの津波が海からの津波よりももんげえ早く町を覆っていますね。然し、海側より山側の方が早いとなっているのはおかしいと思うんじゃが。」浅貫は、四ノ宮の作成書類に間違いを指摘していた。四ノ宮は、「よく見ていください。この内陸側の津波の出所を。」「でどころ?」四ノ宮の指す個所を見た浅貫は、言葉を無くす。「これは。水路に沿ってあふれた水が津波よりも先に町を覆い尽くしている。」生活用水とも言える用水路が住民を飲み込む。四ノ宮が見せたこのデータは現在研究所などで予測されている開示前のデータだ。特に海に近い臨海地域では、海からよりも用水路からの内陸津波の方が住宅地を覆うのが早い。「そんな馬鹿な事があるか。」浅貫は冷静さを失っている。「でかい海から津波が来るんじゃが。其れがこんな狭い水路が先に家を覆うなんて有りえん。こんなもん、皆がきょうてえでみらん。てえれえ申し訳なんじゃがいんでくれ」そのまま黙りこんだ浅貫に、四ノ宮は説得を断念するしかなかった。「このデータが自分のものであれば説明できただろう。然し、私の役目は、南海トラフ大震災への情報提供にしか役目がない。」
その日の午後、瀬戸内コミュニティ等による津波を考える会は開催された。四ノ宮に勝算は無い。浅貫にも否定的な考えを持たれた以上、住民の理解を得る事は至難の業だ。「以上が南海トラフ大震災時に予想される津波の経路です。」四ノ宮は当然反対意見が出るだろうと思った。然し、予想外に参加者全員がこの話に納得している。「それじゃぁ、わしら用水路沿いの家のもんはどう逃げればいいんじゃ。」正しく四ノ宮が待っていた質問だ。よく見ると浅貫を中心に全員が確かめあう姿が見える。「浅貫さん。」そうかどうかは分からないが浅貫が住民に何かしら働きかけてくれたと四ノ宮は感じた。「水流から身を守るには、ヴァーティカルエヴァキュエイション。」住民たちは言葉の認識が出来なかった。「日本語で垂直避難です。これしかありません。」日本語のニュアンスから全ての人がイメージできていた。「つまり、家の二階や、近くの高い建物の屋上などに避難するしかありません。水流から人が走って逃げる事はできません。」ここで一つ、不満が上がった。「わしらの家の周りはせいぜい二階建て。その高さで水から逃れられるのじゃろうか。」その質問は四ノ宮も承知している。「臨海地域は殆んどが住宅地で平地、高い所と言われても困りますよね。それで行政側に提案しているのですが、津波避難用の高い建築物を各地域に一棟ずつ建ててもらいます。俗に津波避難タワーと呼ばれています。それともう一つ、手動式の用水路ゲートを作る事を提案します。」当然の様に四ノ宮の言葉に住民側から質問が出た。「今もゲートはちゃんとある。それも遠隔操作で開閉する立派なもんじゃが。」四ノ宮は、この言葉を待っていたかのように、「確かに、立派なゲートがある事は知っています。然し、311の例から行くと、津波の時にはゲートは動かないんです。」この言葉は住民に衝撃を与えた。「動かないも何も今までもちゃんと機能しているぞ。故障なんて聞いたことも無い。」四ノ宮は続ける。「ゲート本体には津波に持ちこたえるだけの対荷重は有ります。然し、東北地方太平洋沖地震津波では、動力、制御装置類が全滅しました。電力室が浸かってしまったんです。相手は水であると言う事が電気系統の装置の弱さなんです。」この時点で住民側は手動の意味を把握した。それでも反論が出た。「そんな事が出来るのか。今ある物を手導に切り替える工事が南海トラフの発生までに出来あがるのか。」四ノ宮は、こう返事した。「新たに作るのです。」当然の如く住民は「どこに其れを。」誰もが不可能であると考えたが四ノ宮は怯まない。「河口の水門、可動堰の後ろです。つまり、3重の構造で津波の侵入を少なくします。」反発が出なくなった会場の中で四ノ宮は締めに入った。「この地域にも農業放棄地が有ります。そこに皆さんの税金を充て津波避難タワーと、用水路ゲートを建設するのです。県庁庁舎、市役所、其れから、ところどころにあるビルもしくは4階以上の建物を避難場所にしても収まりきれない人が出てきます。人の命に優劣は有りません。全ての人が助かるようこの案を県に提出しています。」四ノ宮の考えは参加者全員の一致意見となり、県、市が動き始めるのである。四ノ宮は一抹の不安がある。岡山市に瀬戸内海から押し寄せる津波の高さは2メートル級だと計算されている。その場合、住宅はほぼ沈む事になり、逃げ切れない人々はどれだけの人数になるのか、それは、どこに居ようと同じなのかもしれないと311の教訓から思っている。
人間にとっては、周りの空間は自然だと認識している。そこにある物は有体物であり、非有体物ではない。然し、自然は人間が作った空間であり、津波は人間にとっての有体物でしかない。つまり人間主観で考えられている。一方通行の考えでそのものは語れない。そのものにとっての概念は人間には分かる事は無いのである。津波は人間を襲っているわけではなく溢れた水を広げているだけなのだ。。
岡山から戻った四ノ宮は、信田に報告を入れると今回の会がいい結果になった事でお誉めの言葉を頂いた。機嫌がいい信田をよそに四ノ宮は南海に関する会議のたびに気持ちが重く張りつめるようになって行った。「自分の役目は何だ。防災対策情報を説明して、ほんとに住民が守れるのか。データを収集してその通りに災害が起こるのか。」彼の心の中には救えない命の存在が大きかった。四ノ宮は、今回の仕事で結果を出した事で信田にわがままを聞いてもらう決心をした。「父が癌なんです。実家に帰省したいのですが。」信田は一つ返事で四ノ宮を送り出した。
愛媛県宇和島市。海と山に囲まれたこの地に足を再び着けるのはかれこれ15年ぶりになる。フェリーを降りると正面にはじゃこ天の旗が立ち並ぶ。宇和島名物じゃこ天は、ハランボを使ったてんぷらが始まりと言われ、ハランボとはホタルジャコである。宇和島藩伊達秀宗により起こったこの食べ物は今や全国区である。15年ぶりとはいえ、タクシーを拾う事は避けた。実家に帰るのに他人の案内で帰る気にはならなかった。バスで帰る事にした。東京では電車、バスは当たり前になっているが、この地では殆んどの人がマイカーだ。昼日中の乗客は少ない。労働時間と言う時空が四ノ宮の人混みと言うストレスを洗い流す。海から内陸に入ると田舎の町らしい情景が広がる。そんな中でも、全国チェーン店などを見掛けると情景に合わない気がして四ノ宮の懐かしさを壊してしまう。時代はまだ15年前にあるのだ。バスは、町並みから山道に移り変わり、其れを超えると再び海沿いに戻る。堤防沿いに集落が現われバスの中が海の香りに包まれる。何とも言えない匂いが四ノ宮の鼻腔を擽る。「この匂いだ。これが嫌で俺はこの町を出たんだ。」魚と海草が混ざったような臭い。其れは港町独特の空気だ。バス停を降りるとすぐに立ち並んだ家の一角にある細道に入っていく。又海から山へ進む。短い距離だが景色は反転する。見上げた山に夏みかん畑が広がる。今度は、酸っぱいにおいで胃液が溢れ出る。実家は海側と山側の境にポツンと建っている。平屋でぜいたくな感じが一切しない。然し、座敷には、父が自治の会長として功績を称える県知事や団体からの表彰上が所狭しと並んでいた。この町の住人にはちょっとした有名人だった。鍵の掛かって無い玄関を開け、何も言わず中に入っていく。座敷の方から人の話声が聞こえるのでその方向へと入っていくと、母と近所のおばさま連中が世間話に花を咲かせている。見回したが父はいない。「ただいま。」おばさま連中全てが肩をびくっとさせ、こちらを振り向いた。母が、「瑞生。あんたびっくりさせなはんなや。」四ノ宮は、自分の家だから遠慮はいらないだろうと言い訳したが、矢張り、チャイムは鳴らすべきだったかと頭をかいた。「お父さんに会いにもんてきたんね。」隣の家の子供の頃、「おっきいおばちゃん」と呼んでいた斎藤千草(ちぐさ)にそう言われ、四ノ宮としてはそうではないと言いたかったが、上手く理由が言えずそういう事に呑み込まれてしまった。母が、「そう、有難う、井上病院に入院してるから、早速行ってきなさいや。私も後で行く事になってるから。」実家でゆっくり思い出にふけってから父の所へ行こうと思っていた瑞生だが、しぶしぶ父の入院先の井上病院に出かける事にした。井上病院までは、歩いて15分程だ。このあたりの住民は殆んどがこの病院に通う。総合病院の為入院もできる。個人病院でも規模はかなり大きい。理事長の井上浪介(いのうえなみすけ)は、この地宇和島で生まれ中学、高校とトップの成績で卒業、大学は、アメリカ留学し、有名大学博士号まで取っている。家族もそれにふさわしい妻、2人の息子、娘に恵まれている。「昔よりもさらに拡大したみたいだな。」瑞生が知る井上病院像からは比べ物にならないほど病院は様変わりしている。自動ドアを入ってすぐに瑞生は路頭に迷った。余りにも広いロビー、案内板に説明書きはあるが、受け付け案内がどこにあるのかさっぱり分からないのだ。うろうろしていると一人の医師が瑞生に声をかけた。「四ノ宮じゃないか。」瑞生はその顔に見覚えが無い。「失礼ですけど、どうして私の名を。」男は、薄笑いを浮かべ、「俺だ。俺だ。井上だよ。」瑞生は、病院の名前から連想して確信した。「浪次か。」井上浪次(なみつぐ)、その名の通り井上理事長の息子だ。二人が同時に「いやぁ、懐かしいなぁ。」と漏らした。「おまえ、今何やってんだ。」浪次は、自分は見ればわかるだろうとでも言いたげだ。「俺の仕事か、まぁ、防災の仕事とでもいうかな。」「防災。」浪次は、瑞生の言う意味が掴めなかった。世の中で、我々の仕事を知ってる人間はほとんどいないだろう。実際、ディフェンドの社員は、レスキュウや、警察組織、他の団体から選抜された人間に限られている。公に出来ないわけではないが、メディアも取り上げた事のない仕事である為、一般には知られていないのだ。
「防災か、暇そうな仕事だな。消火器とか点検して磨いていればいいってやつか。」浪次はそう吐き捨てるように言ったが、瑞生は、「まぁ、そんなようなもんだ。」とうそぶき、笑いでごまかした。ここで、ディフェンドを説明する理由が無いのだ。「それより、お前、どの立場なんだ。」院長になっているとは思ったが、聞いてみた。「CEOだよ。院長は弟がやってる。」浪次の言葉に驚きを隠せなかった。病院の家系で息子と言えば父が理事長である以上息子は院長だと決めつけていたのだ。「父親より上か。」瑞生の言葉を打ち消すように、「上、下の問題じゃない。この病院を世界的に有数な病院にしたくて、直訴したんだ。四国宇和島にこれほどのシステムを持つ病院があると思うか。それだけでこの地のいや、日本の医療に貢献していると自負しているんだ。」浪次の言葉に瑞生は苦い思いをするばかりだ。「俺には、人に見せるような壮大な結果は無い。」そう口に出さずに思っていると、「今日はどうした、どこが悪いんだ。」瑞生は、返す言葉に困り、「この病院の評判を聞いてちょっと見学しに来たんだ。」と嘘ぶいた。「そうか、そんなに知れ渡ってるか。まぁゆっくり見ていってくれ。」父の病室を案内してもらおうと思っていたが、「まさか、CEOにとはいかないか。」と馴れない病院を手探り状態で病室を捜し歩いた。やっとの思いで病室を見つけ、父の顔を拝む事になったが、父は眠りに落ちていた。起こす事も憚り、そのまま、椅子に座り、ベットの周りを眺めながら、しばらく時間が過ぎた。「お前か。もんてきたんか。」父が目を覚ました。気配は感じていたらしい。「ああ、ちょっと来てみたんだ。」照れくさそうに答えた。「母さんから聞いたんか。」「ああ。」それ以上二人の間に会話は無かった。母親が来るまではここに居る事にしていた瑞生だったが、沈黙に耐えきれず家の方へ帰った。
母が帰宅したのは、夜8時を回っていた。「あんた何よ、見舞いに行ってすぐいんだっていうじゃない。少しは、体の事とか、いない間の家の事とか聞いてやってや。」がみがみ言っている割に顔は何故か嬉しそうだった。久しぶりに子供と二人で過ごす夜は彼女にとっては至福の時間と言える。「別にお父さんは自分の好きな人生を歩んだんだ。俺に何も言う事は無いよ。」そのままだった。父親の人生を変える権利は自分にはないのだ。「だったら何でいんだん。」瑞生は母さんがと言いたかったが、その言葉を飲み込み自分の部屋へ戻った。15年ぶりに帰還した部屋は、東京に旅立った時のまま、止まっているようだ。勉強机に椅子、本棚にはかつて読みふけった地震関連の専門書が並んでいる。「関東大震災は起こるべき時に起こった。か。」この本は、瑞生が地震に興味を持つきっかけになった本だ。あらすじはこうだ。巨大地震はある一定の周期で起こる事が分かっている。関東大震災は、地震の規模もさることながら戦争という社会情勢の被害も多く、人的被害が最も大きかった災害となった。というものだ。瑞生は戦争には全く興味を示さず地震の規模や倒壊した家屋などに強烈な印象を受けた。この本は、父が小学生の自分に買い与えたものだ。その父が癌になり、死と隣り合わせにある。然し、自分の心には、それを受け入れられない気持ちが覆っている。「何時もの調子だ、死にはしない。」自分を只納得させたかった。病は気からと言う。弱気になれば病気に食い殺されてしまう。弱い気持ちにならないよう父も歯を食いしばっているのかもしれない。
本を眺めるうちに母が呼んでいるのに気付かなかった。「何してるの、夕飯食べや。」母は、腕によりをかけて大皿三枚のごちそうを作っていた。「鯛のお頭なんて食べきれるわけないだろう。」宇和島の鯛は絶品だ。瑞生は、あちこち箸でつまみながら愚痴にならない愚痴をもらした。「もったいないから全部食べてや。」笑いながら瑞生を眺める母は、矢張り嬉しそうだ。
日本人は何故もったいないと言うのか。物が惜しい、ものが無くなると困る。戦後戦争被害で建物が破壊され、たくさんの人が亡くなりさらに関東大震災で追い打ちをかけられた日本は、他国に比べ無くす物が多かった。其れは、食べ物でだけではない。日本は社会を無くしたのであり、日本人を無くしたのだ。戦争は世界に共通な被害を与えたが、日本は地震大国であるが故にもっと大きな怖さを知ったのだ。日本人は立て直す気力さえも奪われながら復興した世界一の覆国である。
その夜、母は、久しぶりに同じ部屋で寝ようかと言ったが、瑞生は気恥ずかしさで「一人がいい」と拒否した。いくら親子とはいえ、大人の女性と男性が隣で寝る事に瑞生は納得がいかなかった。
愛媛から東京へ戻ったのは、その次の日だ。仕事の褒美とはいえ、何時までも感傷に浸るわけにはいかない。ディフェンドはさらに踏み込んだデータを起こしていた。「南海トラフの移動時期がシュミレーションされたぞ。」信田の弾んだ声が響き渡る。スーパーコンピューターのデータの更新は1秒ごとにされる。膨大なデータ処理を休むことも無く無機質に行う。そのシナリオが我々人間を守るのだ。「南海トラフ巨大地震が起こった時の津波の高さは、東北地方太平洋沖地震の27メートルを上回る32メートルの津波が高知県を襲う。しかも、瀬戸内海周辺のため池、用水路の内陸津波は、数分で町を飲み込むというデータが上がって来た。四ノ宮、その防災対策案を、今日中に修正しろ。」信田は、有無を言わさない口調で、指示を出した。データの更新と共に対策事項も更新しなければリアルな情報提供が出来ない。周辺もあわただしく動き出し、ディフェンドITも巻き込みデータの処理工程を行う。然し、四ノ宮はAIが弾き出したデータを熟知して行けばいくほど防災が遠のいていくという矛盾を感じていた。「防ぎようがない。」岡山の用水路、香川のため池、この二つがある以上津波を防波堤で抑え込んだとしても潮力によって内側から水に覆われてしまう。住民はどうやって逃げればいいのか、ポンポン建物を作れるわけではない。「南海トラフの正確な動きが分かるならば、地震の予知も正確に分かるのか。」四ノ宮の希少な希望も跡形もなく消えた。「おまえは馬鹿か、南海トラフが動くからって何時でも巨大地震が起こる訳も無いことぐらい分かるだろう。」信田の罵声は周囲の笑いを誘った。四ノ宮も自分の浅はかさに恥を覚えずにはいられない。
然し、天才と言うものは人に笑われる考えを持っている。そのおかしな考えが世の中を大きく動かす事になることも事実である。地震の予知、かつてノストラダムスの大予言と言う世界中が信じた言葉があった。其れは事実には至らなかった。その後、予言は当たらないものとして信用を無くした。現代は、事実のデータに基づいて予知する努力が行われている。ハザードマップを信じる人間はこの世には少ないのかもしれない。目で見、音を聞き、肌で感じないものは信用に値しないのである。いや、肌で感じていても地球が無くなる事を信じている者はほとんど皆無だ。地球温暖化のニュースを見、異常気象を目の当たりにしても、今いるこの地球が無くなることを誰が信じるだろう。四ノ宮は、地震が定刻に起き定刻に治まる事を望んでいた。其れであれば、予知が正確に分かる事で全ての人間を救えるチャンスが訪れるということでもある。些細なきっかけが大きな要因になると言う事はたくさんの天才たちが証明して来た事だ。信田も決して単に馬鹿にしたわけではなかった。四ノ宮ほどの男がそんな事を言うとはと焦るなとも言っているのだ。ディフェンド全体の中で四ノ宮を一番買っているのは信田だ。
四ノ宮の南海トラフ大震災に対する具体的な策は遠のくばかりだった。6月12日、東海地方で、震度4の地震が起こった。ディフェンドは、南海プレートの移動を確認した。「くそ、データが何故ここまでしか無いんだ。」四ノ宮が取り寄せた今回の地震データでは、南海プレートが移動し始めた時間、地震の発生までに何分の時間がかかったのかが、示されていない。そうはいっても、南海トラフ大震災では、モーメントマグネチュードの地震が起こる。東北地方太平洋沖地震は日本で初めてマグネチュード9.0のモーメントマグネチュードが起こった。その際には最大で27メートルと言う大津波が観測データに残っている。起きる前の予測とは大きくかけ離れた地震、津波であった。データから詳細なシナリオを描くのは難しいと言える。南海トラフ大震災の周期が詳細さを増す一方、何時、どの地域と言うピンポイントの予測データは皆無に等しい。「防潮堤が、津波の抑制に貢献する事は分かっている。然し、予測がはっきりしなければ強度をどの場所にどの程度高めればいいのかが分からない。」四ノ宮は、東北太平洋沖地震の被害状況の精査をやり直す事にした。「ハード面では、避難棟の建設、ソフト面は、コミュニティリーダーによる正確な避難誘導路を押さえる。」ディフェンドのファイルから、東北地方太平洋沖地震の、詳細を調べる。「巨大地震を想定し、さらに大規模な避難対策を見つける。」資料をストイックに見直していると有る仮説が目にとまった。
「地震の後に津波が来るならば、揺れに反応する大きな壁を建設すればどうだろうか。」設計図が添えられたこのページを見て四ノ宮は思った。「普段何もない所に下から壁が上がってくる。面白そうだ。」早速この建設を考えている海洋土木建設に連絡を入れた。「お世話になっております。私、四ノ宮と申します。」電話の相手は海洋土建の部長財前巌美(ざいぜんいわみ)、かなりのやり手だと聞く。「それで私どもの計画にお乗りになりたいと。」饒舌なしゃべりで頭が切れる事がありありと分かった。「ええ、揺れによる振動で、動作するモーターに非常に興味がわきまして。」四ノ宮は、南海トラフを見越して津波に掛る地域全体を壁で覆う為、地中に壁を設置し、振動感知モーターで津波を防ぐ案を財前にぶつけてみた。「なるほど面白いですね。ただ、それほど大規模な工事になるとモーターの性能をもう二段階程上げなくてはいけないですね。」四ノ宮は期待で胸が膨らんだ。「それはそうと四ノ宮さん、この事業にいくら投資するんですか。」財前の言葉に四ノ宮は膨らんだ胸が萎んでいくのが分かった。「それは、これから国と交渉して決めたいと思っています。」二人の会話はそこまでだった。財前は、「いくら出すのかがこちらとしては重要です。」と国との折衝次第だと言い放った。四ノ宮に相手を納得させるような金額の提示は出来ない。思いつきで電話した、計画性のない考えだった。「国が命を守る為に即座には大金をはたくはずもないか。お国の為でなければ。」諦めきれない思いを打ち消すように財務省の同級生に電話をかけたが、返事はノーだった。「何もかもが甘いよな。」四ノ宮は自分の無力さに自分を投げ出すほどに追い詰めた。国民が震災により犠牲になる。其れは自然の姿であり、起源から起こって来た日常である。そう言われているようにも思えた。人を救うのに金額があるのかという考えは子供の考えの様に扱われる。命はお金では買えないという言葉は過去に何人の人間が問いただしてきたことか。それでも、法や政策にばかり目線があり、肝心な人を守ると言う事に意識が向かない社会の在り方に問題があるのだ。食えなければ食事がとれるよう国が支援し、働かざる者食うべからずなどと言う本末転倒な考えを正す事も出来ず、たくさんの大切な命を無駄に殺してきた国全体が変る筈も無い事は誰しもが思う事でもあった。自然の猛威になすすべなく、何百年たっても同じ死を繰り返す全世界に四ノ宮は絶望さえも感じるのである。「理想は全世界が協力して地球全体の災害対策をすれば人間と言う生物が永遠に生き残る事が出来るのだが。現実として一人一人の命の為に大金をはたくような人間はいない。貧困、病気の為ならボランティアするが。災害に貧富の差や体質は関係ないのだ。被災で失った命はどうやっても戻る事は無い。事後行動ではだめなのだ。大震災は人間を根っこから殺いでいく事が分かるはずもない。」
具体案が探し出せないまま、四ノ宮はディフェンドに戻った。信田もいら立っている様子で防災施設が防災の具体案が出せないでいる事自体、職務怠慢であると上からも叱責されたところだ。「四ノ宮、期日は明日までだ。南海トラフの防災措置に関する書類をそろえるんだ。」反する事の出来ない絶対指令だ。「分かりました。」どう対応すればいいのか分からないまま返事をする以外なかった。
津波、内陸津波、土石流、建物倒壊、どれをとっても満足のいく答えは導き出せない。311等、巨大地震経験により建築基準法はマグネチュード7までの耐震構造に関してはデータがそろっている。然し、弾き出した数値を現実化するまでには相当な時間を要する。当然まだまだ耐震基準を満たしている建物ばかりとは言えない。空き家や耐震偽装など予期せぬ出来事などで停滞しているのだ。かといって国は推進程度の進め方で即効性は無い。次の基準が発行されるまでと鷹を括っているのが現状だ。海津波の防波堤は計画性を持って進んでいるが、その基準を上回る高波が押し寄せる可能性はゼロではない。ましてや内陸津波に関しては手の施しようがないのが現状だ。東北地方太平洋沖地震の経験からすれば次に起こる巨大地震はそれ以上のものが襲ってもおかしくない。過去に例の見ない現象が起こる事などは現実問題として十二分に検討しなければならない。日本列島全体を高い壁で覆う以外に策は無いのかもしれない。四ノ宮は想像の世界から逃れられないでいた。
そして。震度4の地震後10日が経過して4月2日に南海が牙をむいた。高知県沖を震源とするM・10の地震が遂に起こる。その揺れは四国のみならず九州、瀬戸内、東海ほか関東の一部まで体に感じる地震が届いた。四国が、M・8、九州M・7、瀬戸内M・7、東海はM・6、5。
「地震だぞ。」高知県庁4階の会議室で、四国コミュニティの集まる定期報告会に出席した職員が恐怖に感じ声をあげた。「今度は弱そうだ。」誰かがそう言い終わらないうちにバリバリと大きな亀裂の入るような音がすると同時に、立つ事も出来ない揺れが襲った。口を開ける事も出来ないほど、奥歯を強く噛み、必死でテーブルや椅子、手当たり次第に支えとなる物品を必死で掴む。庁舎の窓が大きく波打つ。其れが恐怖を助長し、誰もがガラスの砕ける事を自覚するが、足を踏み出せずその場から離れる事が出来ない。遂に大型の窓ガラスが砕け散る。「うう、いてぇ。」痛みに耐えきれないほど、男の職員の背中に砕けたガラス片が垂直に突き刺さる。誰もが助けたいが自分の体を保つために力を費やすしかなかった。揺れは益々大きくなり壁に大きな亀裂が走る。見る間に亀裂は裂け、特殊コンクリートの壁の中から耐震補強の鉄骨が露わになった。外から消防車の鐘とサイレンが聞こえたかと思うと突然消えた。ガラスが砕け散り外が露わになっている先に消防車が大量の水に流されているのが分かった。既に津波が発生し内陸津波が始まっている。制御不能の大型車は消防隊員もろともあても無く流れていく。揺れに慣れてきた職員が、時差を作りながら悲鳴を上げる。「きゃぁ。」「助けてぇ。」「誰かぁ。」女性職員に職員然としたものは感じられずただひたすらに叫び続ける。その女性の頭上では今まさに天井が崩れ落ちようとしていたが、揺れに気を取られ上に眼を向けるものはいない。すると揺れが今まで何も無かったかのように止まる。全員が安堵したその瞬間、宙に放り出されるかのような縦揺れが起こりぎりぎりで絶えていた鉄骨が折れ曲がり頭上から天井が降ってきた。一階、二階、三階とプレス機の様に潰れていく県庁舎。倒壊した建物から血液が滲み出るほど数多くの職員が粉と砂、砂利、水の塊に呑み込まれた。町のどこからかサイレンが響き渡る。スマホに緊急避難メールが一斉配信された。「津波が発生しました。すぐに高台へ避難してください。」既に幾件もの住宅が水流に呑み込まれている。東日本大震災の再現の様に海岸沿いの捨て石被覆で固めた防波堤の新型ケーソンは滑落し、抵抗を無くした海は陸を次々に呑み込んでいく。継ぎ足した高い防潮堤は継いだ部分から崩れていき、住宅を飲み込んでいく。
香川県では、コミュニティリーダー達が、何とか頑丈な家屋に住民を避難させようとするが、311の教訓からか丘を目指すもので溢れ殆んどが水平非難を辞めない。非難している脇で又ため池が決壊した。「ため池から水が来るぞう。」近隣住民はコミュニティリーダーがあらかじめ指定した通りにそれぞれが家屋の二階に垂直非難を行う。然し、無情にもその家屋は耐震力を無くし、水流は家をごっそりと削る。傾くとともに海の方角に流されていく。内陸津波は、香川県全土を水の底に沈めていく。人類を巻き込みながら。其れは、ノアの箱舟が天地創造の時に流されながら行き先も無くただただ浮かんでいたそんな光景だ。
ディフェンドでは、大震災の報告が瞬時に報告されていた。四ノ宮は急いで現場へ向かおうとするが交通手段は既に途絶えている。「良し。」決心を固めた四ノ宮は、信田課長のデスクへ向かうと「課長、ディフェンドⅡの使用許可を下さい。」ディフェンドⅡは自社専用特殊ヘリコプターの事だ。米国のS-97レイダーを凌ぐ時速400キロを超えるスピードで、軽量だが、収容人員は、12人と世界にはない高性能のヘリだ。開発したのは日本のIT企業で操縦は全てAIによる。然し、人間の操縦は必要不可欠。緊急時の対応はまだまだ、人の手にゆだねられている。
四ノ宮は、専業用操縦士、定期運送用操縦士の二つのキャリアだ。信田が四ノ宮を買ってる要因はそこでもある。信田は、頷いたが、一言言い添えた。「ヘリの使用を国が承認するのは来年度からだ。しかし、この状況は来期の目標に値する事例となる。俺の責任で許可してやる。Ⅰの様にはしてくれるな。お前のお陰でうちは赤字だからな。」前回の東北地方関東沖地震の際に、無許可で人命救助をした際、無茶な離陸を繰り返しヘリを二度と使えない状態にしたのだ。「今回は慎重にやりますから。」四ノ宮の熱い言葉にも「お前のその言葉信じてないから。」信田は冷たく言い放った。四ノ宮はヘリに乗り込み、四国へと向かった。
香川県上空に達したディフェンドⅡは、いたるところから灰色の煙が上がっているのを確認した。地上が見えにくく、着陸は困難を極める事が予測できる。「相当に火災が発生しているな。」四ノ宮は、旋回をしながら、香川県庁に有るヘリポートを探した。然し、周辺地域全体が海のようになっており、海底火山が噴火したかのように水の中から煙だけが上がっている。建物が建っていた形跡も無いほどだ。「おかしい、レーダー上ではここが県庁のはず。」灰色の煙の隙間から薄っすら水に覆われた赤い円が見える。県庁屋上のヘリポートが沈んでいるのだ。「倒壊か。県庁や市役所の耐震構造はこの地でどこよりも優秀な作りだ。簡単には倒壊しないとどの学者も語っていたのに。」それが見るも無残に潰れている。「これが百年に一度の恐ろしさか。」四ノ宮は鳥肌が立つのも気付かずにヘリの操縦に恐怖心を感じた。「これじゃぁ降りられない。」と驚愕を押さえる事が出来ず「他を探す以外にない。」諦めて県庁から山沿いを探す。津波の第2波3波が来た場合を考えて高台に切り替えたのだ。
ディフェンドⅡはハイブリットで燃料タンクのほかにもソーラーと回転翼でバッテリー燃料を使う事も出来る優れものだ。四ノ宮は一か所に的を絞った。「あそこならいける。」的は、携帯会社が建てた鉄塔横。多数の人間が作業できるように整地されている個所があった。がしかし、そこは、山を削って有る個所のため、土石流の心配がある。「運が悪ければ海まで流れていくかもな。」彼のヘリ操作は自衛隊のヘリ操縦士よりも数段上だ。地上に降りるのにもエレベーターが下がるくらいぶれのないダウンだ。
鉄塔の周りは上から見るよりも広く下界が見下ろせた。「このあたりには、津波は到達しなかったか。」ため池周り以外は、燻されているようにまっ黒に焦げた家屋家屋家屋。「こんな田舎では、IHを使う家庭が少なかったのだろう。着陸はここでも可能だったか。」然し、下に降りる整備されている道は無い。鉄塔を建てる工事がどうやるのか四ノ宮は知らないが、降りる道を探さなければならない。ここでも彼のスキルは飛びぬけている。登山のキャリア15年。しかも彼は山道を歩くような登山ではなく、道なき道を歩くサバイバル登山経験者だ。周囲を見渡すと萱草がわずかに開いて土が剥き出しになっている個所を見つけた。「自然の事は、自然に近い生き物に聞くべし。」所謂けもの道である。「これほど安全な道は無い。」人間が慣れない手つきで作った道よりも自然そのものを使うけもの道は地面の底から安全が保障される。四ノ宮は、軽く足を上げ歩幅を小さく、ちょこちょこと降りていく。山道にストライドはいらないのだ。フルマラソンを走るランナーの様に上下動が殆んどない。
麓に近づくとあちこちから炎が出ていた。煙で分からなかったが、小さながけ崩れが発生していた。正面に土を被った赤い屋根が見える。壁は既に潰れている。「何て光景だ、土の下から火が出ている。ガス管かもしれない。」その周りから道路に沿って呻いている人、倒れ息が無い人、黒い塊と化した死体。「そこかしこに遺体と生体が混在している。」さらにコンクリートの塊が石ころの様に散らばっている光景は戦争が起こった跡の様にも思える。「誰か助けて。」傾いた家屋の壁に挟まれた60代くらいの女性が叫んでいるのが聞こえた。「すぐに行きますから頑張ってください。」四ノ宮はがれきを飛び越えながら女性の元に辿り着いた。女性は壁に挟まれそれを両腕で跳ねのけようとしているが耐えきれず肘が曲がっている様子だ。「壁を何とかできないか。」アドレナリンで脳が活性化されているがどう思考しても壁を人の力でどける事は不可能に思えた、然し、諦めるわけにはいかない。「腕を何とかこちらへ出して下さい。」女性は無理だと首を振る。四ノ宮は仕方なく強引に腕を掴み引っ張り出そうとしたその瞬間両側の壁が合わさるように女性を完全に挟んでしまった。「ぎゃあああ。」悲鳴が響き渡り、体の骨という骨が潰れるような音が静かに流れた。壁から掴んだ腕だけが覗く形になり、四ノ宮は慄きながらも強引に腕を引っ張った。「抜けた。」と思った瞬間自分が掴んでいるのは体から離れた腕だと気付いた。あまりのショックに尻もちを突いた体がその場から立ち上がれない。「腕で壁を支えた時から関節は外れて肉だけになっていたのか。怖い、ここに居たくない。」四ノ宮の精神は崩壊状態だ。それでも何とか踏みとどまり、何とか立ちあがり、何とか周囲に注意を向けただ歩いた。今いる場所さえも脳は認知しない。ふと前方に家屋の下敷きになっている子供らしき足が見える。「生きていてくれ。」願う心で、家屋を少しずつ壊し、引き出せるくらいになったところで覆いかぶさった屋根の一部を手力で持ち上げる。体全体が見えた瞬間、力が抜けた。「つ、潰れている。」小学校高学年くらいの子供の頭が完全に真横に捻じれ、その周りは吐き出した血の海で埋まっている。「こんな小さな命を。戦争じゃないんだぞ。」やり場のない湧きあがる怒りで足元の地面を何度も何度も踏みつける。人は恐怖の次には怒りが湧いてくるのだ。四ノ宮は冷静さを完全に無くしその理性も無に帰った。戦争を知らない世代は幸せばかりだと思っていた。然し、理不尽に人が死に町が壊滅していく様は第三次世界大戦を彷彿させた。何がそうさせるのか、人間には分からない自然の怒りが破壊という形で起こっている。自然の中で生き、自然と共に歩んできた人間の人生の終末が一瞬のうちに訪れたのだ。「これが地球の終わりか。」四ノ宮の体は足元からガタガタと震え、全身に力が入らずその場に崩れ落ちそうな程だ。すると背後から何発もの爆発音が鳴り響く。「ガスの匂いが。逃げなくては。」必死に山の上に向かいディフェンドⅡの降りた場所へと引き返した。最悪のシナリオが現実となった。香川は壊滅状態である。それだけではない。四国全体が破壊され多くの犠牲者を生んだ。岡山でも同様の事が起きているのは言うまでも無い。四ノ宮の予測と言うより学会データのとおりにため池からの内陸津波は発生している。
へりに一旦戻った四ノ宮だったが、メーンスイッチを入れ翼が回る音で正気に戻った。「俺は何をしているんだ。犠牲者をほっぽって逃げるつもりか。」スイッチをオフにし、再びけもの道を下る。「きっとおれと言う人間は人を守ることのできない哀れな人間だな。」山道を下りながら自分の行動を戒め続ける。
麓ではさらに爆発音が鳴り響く。人の叫びも聞こえまさにこの世の終わりを感じさせている。「日本壊滅だ。」男の叫び声に振り向くと平地の果てから大量の水が押し寄せてくる。「第2波津波か。」四ノ宮は、今いるところの生存者に大声で声をかける。「山の上に登れ。」津波のスピードは速く、逃げ惑う生存者を次々に巻き込みながら山に向かって襲ってくる。片足を引きずりやっとの事で走っているのか歩いているのか分からないほどのスピードで逃げる20代くらいの女性の左腕を右腕で巻き引っ張って山をかけのぼる。四ノ宮と女性は膝まで津波に巻き込まれたが、命を何とか確保できた。津波は山にぶつかるとその反動で今度は逆流の津波を起こし、この町全体を壊滅させた。四ノ宮が助けたのは、この地区のたった3人だった。
自衛隊の大型ヘリが次々に上空に現れたところで一旦、被害の少ない病院の有る場所まで3人をヘリで連れて行きそのまま、岡山へと再びディフェンドⅡを飛ばした。目指したのは岡山赤十字病院へリポート。岡山市内の上空に差し掛かり、四ノ宮は又躊躇しなければならなかった。「既に沈んでいたか。」ヘリポートのマークは水の中だ。「岡山も香川と変らないくらい酷い被害だ。然し、排煙は上がっていない。火災件数は少ないようだ。」視界がある岡山では着陸地点を探すのは容易だ。周回していると広い公園の一角にヘリポートになっている個所を見つけた。「あそこだな。単純着陸できるようだ。」芝の上に降り立ったすぐ横に沖本公園南グランドの看板が立ってある。「ここならヘリが集団でいけるな。」
岡山屈指のヘリポートである沖本公園は実際に8機のヘリが着陸できる。「降りたはいいがここからどうやって町に行こうか。」余りにも高台すぎて麓までに時間がかかりすぎる。四ノ宮は計画性の無さに自分にうんざりしながらも模索し続けていると下から一台のジープが昇ってくる。「生存者か。」生きている住民がいた事に安堵をおぼえここまで来るの待つ。後50メートルのところで運転手の顔が認識出来た。「浅貫さん。隣は緋香里さんか。驚いたな。」意外な登場人物に面喰った。車は四ノ宮の2メートルほど前で停車し、浅貫親子が同時に降りて来た。二人共驚いている。先に声をあげたのは緋香里だ。「四ノ宮さん、どうしてここにおるん。」顔に埃を被っている。被害を受けた証拠だ。「お二人共無事でよかった。」安堵と同時に何故か目が潤む。香川では狂気な絶望しか感じなかった。岡山でやっと血と血の温度を体に感じたのだ。緋香里も顔を見るなり泣きじゃくり、恐怖で慄く自分を必死で耐えていたようだ。浅貫もつられて泣き顔になったが、四ノ宮に聞く事があった。「四ノ宮さん、このヘリを目がけて私達はここへ。其れがあんたのヘリとはただただ驚きじゃあ。」安心したのか二人とも同時にその場に座り込んでしまった。四ノ宮は被害状況を聞くつもりでいたが安心顔の二人に恐怖を思い出させてはいけないと言葉を飲み込んだ。「これに乗ってください。とりあえず、お二人を安全な場所へ送ります。」三人同時にヘリに乗り込みスターターボタンを入れるとヘリは、岡山を離れた。
ヘリの中で三人は無言でしかなかった。上空から岡山の様子を見れば見るほど自分たちがずるいようで気が気でなかった。沈黙を破ったのは、緋香里だった。「うちらこのままここを離れていいんでしょうか。」浅貫も静かに頷いた。四ノ宮は、「言いも悪いも被害を受けて命からがら避難しているんです。当然です。」と強い調子で言った。浅貫が、「私は今下にいる住民を見捨てる事になるんじゃが。」と歯がゆい顔で呟いた。其れに答えて四ノ宮は、「もうすぐ自衛隊が到着するはずです。香川はもう救助が始まっています。他の方もきっと救われると思います。」と願う気持ちを露わに言った。数分の沈黙があり浅貫親子が揃って四ノ宮に言った。「四ノ宮さん、引き返せるかの。」四ノ宮は操縦を忘れ後ろを振り返ろうとした。「何をおっしゃるんです。降りれば又被害を受けるんですよ。」浅貫親子は動じずに「災害を受けて九死に一生を得ました。それは、四ノ宮さんの説明通りに垂直避難をしたおかげです。助かった事に感謝すると同時に、地域の方々も助けたい。わしの生きる場所はここ以外にないんじゃ。何が出来るか分からんがすみません、降ろしてくれんかの。」緋香里の目もそれを訴えている。浅貫は続ける。「実は説明会の時、私自身、四ノ宮さんを疑っちょった。」「えっ。」四ノ宮は浅貫が住民たちを纏めたものと思っていた。「この緋香里が私を説得しなければ今の私達の命も。」そこまで言うと、浅貫は大粒の涙を流して絶句した。緋香里の顔を見た四ノ宮にも被災者をなんとかしなければという責任感が沸点を迎えていた。「分かりました。戻ります。」ヘリは沖本南公園へと引き返した。
戻ってみると山のふもとまで冠水しヘリポートから町に車で戻る事は出来ない状態だ。上空でそれを確認した3人はヘリで町のどこかに降りる事を同意した。「非常に危険な着陸となります。それでもいいのですね。」四ノ宮は二人の決心が固い事を確認し、ヘリを町に向けた。
岡山市街を旋回しながら着陸地点を探していると、有る一角が周囲の水をせき止めるようにアスファルトを剥き出しにしていた。「ここなら。」周囲にはコンクリート壁がありそれが津波を防いでいる。そこには数十人の避難者が確認できる。全員がヘリに向かって手を振っていた。「助けてくれ。」ハーモニーのように声が聞こえてきた。「四ノ宮さん、あそこに着陸しましょう。」緋香里が心を躍らせるように言い放った。「了解。」四ノ宮は即座に着陸体勢から、通常着陸で着地した。難民が物資に飛びつくようにヘリに向かって全力疾走してきた。「大丈夫ですか。」決まり文句しか出なかったが四ノ宮は本心で気遣っている。「ここは何の施設ですか。」四ノ宮が聞くと浅貫がぼそっと呟いた。「新しい刑務所になる予定でした。」浅貫始め四ノ宮以外の全員が暗くくぐもった表情になった。今日は、新しい刑務所を一般公開する日だったらしい。四ノ宮は壁の上を確認したが有刺鉄線はなかった。浅貫の話では、現在の刑務所は規模が小さい為、囚人の収容が追いつかなくなり第二岡山刑務所として建設予定だったと話した。
犯罪者が多発しているこの日本は治安の良い国という名札を付けた時代は既に消滅しているように思えた。さらに言えば治安が良かった時代がほんとに有ったのかも分からない程である。然し、その結果こうして住民の命が救えた現実は結果良しと考えるべきなのだと四ノ宮は強く思った。「助かった。これで安心だ。」安心した住民の一人がそう言ったが、ヘリにこの人数は無理だ。42人ほどいるのだ。仮に全員を乗せればヘリはバランスを崩し水の中に沈んでしまう。四ノ宮は思考を巡らし最善策を考えるが名案は出てこない。浅貫が「私はこのヘリには乗らず、自衛隊機を待ちます。」断腸の思いで呟いた。そして「緋香里は何とか乗せてください。」と懇願の表情で言った。娘は父親にとっての心臓とも言える。自分の死よりも娘の命を貴く思う親心だ。しかし、緋香里も血筋からか、四ノ宮のヘリには乗らないと言った。「とにかく全員を私がピストンで安全なところに運びますから、乗る乗らないは無いようにお願いします。幸いコンクリートが防潮堤の役目をしています。必ず全員避難できます。」四ノ宮は命を粗末に仕舞いと言い切った。
バシャーンバシャーンと荒れた海の様だがここ内陸に波音がする。コンクリート壁に津波が何度も打ちつけられるうちに少しずつ基礎の部分が浮き上がる。当然壁と言うものは波を想定して作られてはいない。ところどころ土の部分が露わになって来た。人差し指で巨大な鉄球を動かすかのように小さな力が何度も何度も同じ地点を押す事により重量物のコンクリートを動かしているのだ。四ノ宮をはじめそこにいる住民たち全員がそれに気付いていない。ヘリの最大荷重の7人を乗せ、第一陣をまず運ぶ。「6ピストンで全員救出か。」素早くヘリ操作を行い安全な離陸を見せる。ヘリがその場を離れると、コンクリート壁の上に津波が上がるようになった。建物を破壊し、抵抗が無くなった津波は力を増幅したのだ。「水が中に入ってきているぞ。」中年の住民が水の反対側に全員下がるように指示する。「怖い、 助けて。」女子高生二人が声をそろえて叫んだ。猿団子のように全員が固まってヘリの帰りを待っている。
コンクリートは内側からは何も変化を感じないが、徐々に斜めに倒れて来ていた。5分掛らずにヘリは戻ってきた。着陸すると四ノ宮が「あの公園は救助を待つのに最適です。」浅貫親子に伝えると、二人は明るい顔をした。
第2陣3陣と続け、5陣目の離陸時にコンクリート壁が見える形で傾いた。津波は長く止めた息を思いっきり吐き出すように勢いよく内部に流れ出した。「うわぁ、」残りの7人がそのまま、渦を描くように流れる津波の中に呑み込まれ沈んだ。ヘリは危機一髪で上昇した。浅貫親子も津波の中に消えてしまった。「くそ、そこまでして人間を食いたいか。」四ノ宮は、あてども無い悔しさを只言葉で吐き出すしかなかった。「俺がもっと早く運んでいたら浅貫親子は助かったのだ。」と言いかけたが他の住民の手前個人的な感情は出さないよう打ち消した。乗っている住民たちも複雑な表情で、助かった事をそれぞれが隠す様に安心した。
公園へ住民を残し再び岡山の市街地に飛び立った四ノ宮は上空から生存者の確認を行った。「水に浮いたまま必死でヘリの方向に手を振っている人達を見捨ててはおけない。がしかし、降りるところがない。」臨海地の弱点を証明した状況である。それでも全面に広がる水の中に何隻かのヨットを確認した。牛窓ヨットハーバーに止まっていたヨットらしい。幾人もの被災者を水の中から救いあげている。「ヘリなんかより船の方が役に立ったな。」四ノ宮は航海海技士の資格をも取得済みだ。航海図も作る事が出来、何時でもフェリーの船長になれる。
旋回を続けるうちにヘリ一機が着陸できそうなビルの屋上がある。そこにも助けを求めている住民が数人いるのが分かった。「Rか。」四ノ宮は厄介だと思った。ヘリが着陸できる個所にはHのマークがあり、ドクターヘリなどの緊急離着陸場のマークだ。然し、そこにあるのはRつまりレスキューマーク。建物の構造上ヘリの重さに耐えきれないという事はホバリングしたまま救助者を上空へ引き上げる事でしか救えない。四ノ宮一人では救命梯子を降ろせない。「然し、ここはビルが三分の二倒壊し、階の空間が潰れている状態、理論上ここはコンクリートの台と同じだ。」屋上が駐車場の為か厚みがあり、津波も届かない高さだ。「みんな、ちょっと脇に逃げてくれ。」ヘリの窓越しに中心から脇へ払う仕草で知らせると避難者たちは理解できたようだ。烏合の衆の中心にスターが現れたかのごとくヘリ一機分のスペースが出来あがった。コンクリートは倒壊の時に生じたひび割れはあるがヘリをものともせずに受け取めた。ホバリングしながら、Rの中心に慎重に降りた四ノ宮は、走って近づいてきた住民たちにへりに乗るよう指示した。浅貫親子の事で後悔をしている四ノ宮は長居はせずすぐに離陸した。
「そろそろ一度給油を考えなければ。」燃料はかなり前から空っぽ、ソーラーと回転翼によるバッテリーのみで飛行している状態だった。
四ノ宮は、被害の少なかった福岡航空自衛隊築城基地に緊急着陸し、国指定許可証で燃料チャージを行った。被害が少ないとはいえ福岡も交通機関はマヒしている有様である。福岡の震度はM6にとどまったが、それでも大地震に違いない。半数の家屋が倒壊したと航空自衛隊員が説明した。給油が終わり、今いる場所の救助も必要だと考えたが、浅貫親子の消息を確かめたくて岡山へもう一度離陸した。
向かう経路として四国全体を確認する事にした。「親父とおふくろも気になる。」豊後水道から、太平洋へ回りながら被害の様子を確認する。見れば見るほど四ノ宮の手にふるえが起こった。「PTSDにでもなったかな。」精神力の弱さに自分に辟易するが被害者の姿を思い出すと耐えきれないほどの恐怖が走った。ディフェンドⅡは、福岡を出て、大分を過ぎると下を覗きこむように操縦する。宇和島上空に差し掛かり、実家の真上をホバリングしながら確認すると土石流が発生し家は土と木々の下敷きになっていた。「母さん。」四ノ宮はその場に着陸し無事かどうかを確かめたかったがディフェンドⅡは公的装備品。任務以外には使えないと自衛隊の救助活動を見守る。「祈るしかない。」そこから横に目を向けると井上病院が土台を残して津波に流されていた。「井上は大丈夫だろうか?助かっていれば被災者の治療に当たっているかもしれない。」後ろ髪を引かれる気持ちでその場を離れ
高知、徳島、そして香川と上空を経由して岡山に機体を下した。
津波の水は引き始めている。水が引いた後には建物の残骸が散乱し、遺体を収容している自衛隊の姿が多くみられた。自衛隊医療班がテントを張り、治療を行っている。そこここに息絶えた人々が眠っている。四ノ宮は、自衛隊隊長を探し出し、ヘリを使って負傷者の運搬を手伝う事を伝えた。自衛隊長の若桜守孝(わかざくらもりたか)は軽傷の負傷者を中心にお願いしたいとの事だった。若桜とは、東日本の時にも会っている。幸い、日本海側の病院は大きな被害は少ないらしく、鳥取中央病院に搬送する事にした。浅貫親子の生存確認をしたかったが、身内でもない知人と呼べる立場でもない自分に、聞くような権利は無いような気がした。それほど、自衛隊員の懸命な姿が四ノ宮に協力を要請しているように感じるのだ。鳥取に向かう途中、岡山全体で本格的な救助活動が始まっているのを確認し、自責の念にかられた。「俺が出しゃばらずに自衛隊に任せていれば浅貫親子が津波に巻き込まれずに済んだのかもしれない。」そう思うと自分の出しゃばりの性格を強く恨んだ。揺れも収まり津波も完全に引いてしまうと、「兵どもが夢の跡」と言う芭蕉の句が脳裏にはっきり浮かぶ。俳句など興味も無かった四ノ宮には、偉人の句の存在感を十二分に思い知らされる事になった。然し、この巨大震災はこれだけでは終わらなかった。10年から50年の間に起こり得るとされていたモーメントマグネチュードの内陸地震が始まっだのだ。既に南海トラフ大震災により犠牲者は10万人を超えている。この内陸では復興する間もなく次なる被害を齎した。もっとも震度の大きい地域は近畿だった。関西大震災が再び起こった。四国、瀬戸内地域もマグネチュード6の地震により崩壊寸前だった建物も数多くあり全壊へと導かれた。
然し、人間は問題を解決する能力に長けている。内陸地震が起こり得るという情報発信により、軽傷の人以外の犠牲者は出なかった。自衛隊は、総動員で空路、陸路、海上から地震ハザードのデータにより被害を受けると思われる地域の全国民を関東以北に避難させた。其れは日本の自衛隊が総力を結集した神業だった。
四ノ宮はディフェンドに一旦帰社し、地域住民コミュニティリーダーに携帯連絡を取り続け自衛隊に従って避難するように働きかけた。「四ノ宮、犠牲者の数はどうだ。」信田は南海トラフ大震災の住民避難データを取り続けていた。「はい、四国四県は第一波の犠牲者のみ、九州、近畿、東海も同じです。」ほっとした顔で四ノ宮が答えると、信田も、「そうか、それじゃぁ、建物、建築物のデータ収集に当たれ。それと厄介な奴も頼むぞ。」一瞬二人の間に張りつめたものがあった。厄介なものそれは国民にとっては欠かせないものであり、災害時の最大の問題点、原発だ。
今回、東北沖太平洋大震災の教訓から、さまざまな防災工事をおこなったおかげで臨界事故、放射能の漏れなどは無かった。いや、まだ無いと言うべきか。今後見えない部分の損傷があるかもしれない。安心は出来ない。「分かりました。」信田は、自分がコミュニティ会議で発言したため池や用水路、そしてダムの様子観察にディフェンドⅡを飛ばした。
「この地震で巨大地震に関するデータが積みあがる。これを持ってすれば地震ハザードがより正確に地震情報を伝えるだろう。其れを防災対策に繋げなければ我々の存在価値は無い。」国の防災対策は常に起こる地震の一歩後を追いかける形になっている。東北沖太平洋巨大地震でも予測以上の震災だった。「今度こそこちらが災害を飲み込む番だ。」四ノ宮はこの時を逃がさず全霊を尽くす覚悟でいた。
被災者が避難している金沢の民宿静養館。「お父さん、お茶をどうぞ。」浅貫緋香里は、津波に呑み込まれながらも、コンクリート壁の間に挟まったおかげで一命を取り留めた。父の剛像も緋香里が必死に腕を掴んでいたおかげで、水を飲み込む程度で助かったのだ。然し、二人のショックは計り知れないものだった。迫ってくる大波が自分たちにのしかかって来た時、死と言う恐怖を経験した。これから起こるであろう幸せという経験を無くしたくはない。命は永遠ならいい。然し、現実に人間には寿命と言う期限がある。その限られた期間の中で人は幸せを持つ事で生きる事に意味を持っていくのだ。「有難う。」浅貫の貫禄の有る人を包み込むような雰囲気は消沈し、恐怖に慄いた表情でお茶を啜った。
四ノ宮は、ヘリからまず原子力発電所の被害状況を確認する事にした。原子力災害対策特別措置法により事故関連も災害として認められるようになった。賛成反対の議論は永久に決着はつかないだろうと四ノ宮は考えていた。この日本にもし原子力発電所が無かったなら、電力の供給は滞っていただろう。「クリスマスにイルミネーションの無い国が日本だけという疎外感を感じる場所に国民は賛同できただろうか。伝統を重んじる日本人が過去を簡単に消し去ることができただろうか。負の遺産。其れは日本人の考えから出来ていくものではないだろうか。」と四ノ宮は自問自答を繰り返した。「決して古いものが悪いわけではない。この世の中の不条理は、物作りの根幹をも揺るがしてきたのだ。」
伊方原子力発電所の近く、四国電力のビジターハウスの隣のヘリポートに許可を得て着陸した。ヘリを降りると信田から一報が入っていた事で、伊方原発管理課長の末高公一(すえたかこういち)が、車で出迎えた。「四ノ宮さんですか。ディフェンドの。」そうですと頭を下げると早速、原発事務所に案内された。「被害の方はどうですか。」大まかな情報は入手済みの四ノ宮だが、隠れた湖沼などのデータは持ち合わせていなかった。「まあ、住民が大騒ぎするほどの事故等は無いですね。」末高は脱原発が叫ばれる昨今、立場的にも安心である事を証明しなければならない。四ノ宮は内心、国の委託会社の立場では中心は見せてはもらえない事は分かっている。それでも防災対策を作成するのに、故郷を守りたいと願う住民を無視できなかった。其れは、まだ起きていないもう一つの大震災、首都直下地震の存在がある。「富士山噴火は人間がそこを離れる以外どうする事も出来ない、が、首都直下は防災対策の立てようはある。」そう自分に言い聞かせるように観察できるところを入念に頭に叩きこんでいった。「今回は、燃料棒は大丈夫でしたか。」四ノ宮の言葉に、嫌味をふくんだつもりはなかったが、末高は少し不機嫌そうに、「我々も、馬鹿では無いのでね。そこは改良を加えていますよ。」四ノ宮の言いたい事は福島の事例だと言いたげだ。「伊方原発は不動の要塞です、住民が困らない最善の設備を備えています。安心していただければいいのです。我々もこの原発の中で仕事をしていますが、要は信頼する事なんですよ。」末高の言葉は安易で民意を考えない発言のように感じたが、彼らもそのそばで働いている。信じることを辞めるわけにはいかないのだ。東日本大震災で発生した福島原発の全交流電源喪失による冷却装置の喪失は放射能汚染という形でダメージを与えた。県民が故郷を後にする以外方法がないという経験はチェルノブイリ以来の経験となった。放出された放射性セシウムは土壌に取り込まれたのか植物に取り込まれたのか研究は続いているが見当たらずいまだに不明である。国は安心安全と言う言葉を発信し、国を治めようと躍起になった。
「どうもありがとうございました。今回の大震災にもびくともしない伊方原発は安全な原子力発電だと確認できました。今後も住民の皆さんに電力の供給をお願いいたします。」四ノ宮は、詳しい確認は出来ず、そのまま、香川へとヘリを飛ばした。
香川上空に着くとまだ風景は同じだった。復興どころか、被災者救助がまだまだ終わりも無く続けられている。国全体で津波レベル1、レベル2とランクを付け防災対策を行ったがこの結果に終わった。「人間は楽観的に考えるような生物なのかもしれない。」四ノ宮は自分も同じ人間である以上ここまでやればと言う線引きを辞めなければ解決しないと思った。「自然を人間の思い通りにすることは不可能なことなのかもしれない。現在の自然環境は、人間によって強引に捩じ曲げられている。ゴムを捩じれば弾性により元に戻ろうと高速な抵抗が始まり、元の体に戻る。何世紀もの間捩じられてきた地球の自然環境が大津波や大地震によって元の自然に戻ろうとしているのかも知れない。」そう思うと今自分のやっている事は全て無駄な事の様な気がした。
香川ヘリポートに着陸し、早速、周辺から被災状況をタブレットに打ち込んでいく。ディフェンドのソフトで作られている為、データは会社にリアルタイムで送信される。GPS機能からそこはため池のあった場所だ。堰の半分が流されている。作りから簡易な人力によりせき止められていた事が分かる。行政の手は入っていないようだった。「放棄地か。この土の流れ方からすると津波の方向は。」四ノ宮が見た方向には病院があったはずだ。タブレットの地図をみると嵩月延命(こうげつえんめい)病院と分かった。建物の基礎だけはある。「第二波の地震で倒壊したのだろうな。」コンクリートの破片を確かめてみるとプレキャストコンクリートの様だった。「強固なコンクリートが抉られている。水流の恐ろしさは計り知れない。」四ノ宮は家屋や、ビル、倉庫、等の壊れ方や材質などを調査してまわった。被災地で思う事は自衛隊、消防、警察の姿がこんなにも居るのかというくらい多い。「壊滅したこの土地に犯罪と言うものが希少なほど少ないということだろうか。それとも、この姿が本当の人命を守る仕事と言うことなのだろうか。」然し、彼らが運んでいるのは殆んどが遺体だ。それでもその家族の為に懸命に土やがれきの中から掘り出していく。そこに何の欲も無く。
四ノ宮はある事を考えていた。遺体と我々は言っているが、それが遺体となった人の認識なのだろうかと。生あるものから考える死体とは、脳機能が完全に停止し、組成不可能な肉体。それを我々は自らの為に火葬する。衛生上や、生あるものの配慮で。然し、死体はほんとに死体なのか。脳機能は本当に止まっているのか。其れを生あるものに証明するだけでいいのだろうか。組成不可能な肉体なのだろうか。ウジが湧き、食いつくされた後に残った骨は、只の物体なのだろうか。今ある気持ちや感情がもしかしたらその骨の中にまだあるのではないだろうか。焼かれる事を恐れていたのではないだろうか。死んだ者にしか分からない幸せが待っていたのではないだろうか。四ノ宮は自分の屁理屈として考えを仕舞った。
「これは。」四ノ宮の足元に亀裂の入っている部分があった。そこから蒸気の様なものが噴出していた。「硫黄の匂いか。もしかすると今回の地震は地底マグマの噴出が要因の一つになったのかもしれない。」厄介だと思った。プレートのずれに眼を奪われていた自分たちの考えは一部分の解決にしかならない事になる。タブレットで画像を会社に送信する。「信田課長、残業会議すみません。」送った画像によりディフェンドでは会議が行われるだろうと予測したのだ。「もし、これがマグマによる亀裂だとすると、津波の中で水蒸気爆発が起きていたのかもしれない。もし、そうであれば南海トラフ大震災は史上最悪の災害となるだろう。」四ノ宮には得も知れぬ恐怖心が足の力を奪っていくのが分かった。
ディフェンドに戻ると矢張り緊急会議が行われていた。四ノ宮は報告書の作成に追われた。最後のエンターキーを打ち終えたころ会議も終了した。深夜2時を回っている。信田が仏頂面で四ノ宮に報告書の提出を求めてきた。「お前のおかげで娘の誕生日プレゼントを買い損ねた。」表情を変えずに喋る信田を初めて見る人はそれが本当に怒っていると勘違いするだろう。然し、四ノ宮は、信田が残業が長引くと毎回同じ事を言うと知っている。「課長、矢張りマグマの件は。」そこまで言うと信田は頷いた。「地底三百のところでマグマの活動変化が確認された。」二人は、途方に暮れた顔を隠せなかった。瀬戸内火山帯と言う言葉が二人の脳裏に薄っすらと浮かび上がる。同時に「有りえない。」と言う言葉が口の先まで伝わった。愛知県から近畿、四国、九州に掛る瀬戸内火山帯、一千万年前に活動していた火山帯でそれ以降の活動を認める研究は無い。今では火山帯としては認められてもいない。然し、あくまでも理論、調査、研究結果である。それがそのものを現しているのではない。つまり、大昔であろうとその辺りでは、火山活動があり、マグマが流れ出ていた事実があるのみなのである。非常に稀な大きい環境の変化で大災害が起こり得る事を完全には否定できないであろう。「日本は終わるのでしょうか。」四ノ宮の問いは放たれた風船のようにどこかへ消えていった。
ディフェンドでは今回の南海トラフに付随して地殻変動についてのデータ収集も合わせて行われた。人間の足元に650~1300度のマグマが眠っている。その不気味な流体が浮き上がれば人類に残された手立ては死しかない。然し、四国、中国、近畿の活火山分布を調べなおしてもこの地域でマグマが噴き出すはずはない。可能性としては九州にある活火山によって齎されたものか、三瓶山、阿武火山群によるものか、データではここまでしか分からなかった。海底火山も関東、九州に流れ着くように縦列している事しか分からない。翌週、四ノ宮の見たものは只のガスの噴出だったとの結論が出た。「まあ、有りえんわな。」信田も四ノ宮の持ちこんだ画像データに渋面するしかなかった。「申し訳ありませんでした。」四ノ宮自身もパニック状態の自分の見誤りだと思うしかなかった。
今回の大災害は南海トラフ大震災と命名され、国も対策室を設置。復興政策が始まる。「四ノ宮、今回の津波の最高潮位はいくらだ。」「はい、太平洋岸では前回の東北地方関東沖地震を上回る42メートルの津波でした。瀬戸内海周辺では11メートルが観測されています。」信田は頭の中で高さを想像したが、「ディザスタームービーの世界だな。」と現実とのリンクは出来なかった。四ノ宮はこの時、ふと一つの仮説を自分の意思にそぐわぬ形で立てていた。「今回の津波は南海トラフの影響だけではなく、新たな海底火山の出現にも影響されたとしたら。」この仮説は現実となって現れた。愛媛県と大分県の間に海底火山が形成されていたのだ。其れは一隻の漁船が座礁した事件から始まった。航路を誤ったと報道されたが船長以下船員も頑なに何時ものコースだと意見を誇示した。地質検査をしてみると有りえないところに陸がある事が分かった。しかもその陸上は玄武岩や火成岩から出来ていると判断された。其れは新たに噴出した火山である事が地質調査から確認され、ディフェンドは再度会議を開いた結果、四ノ宮が言った地震による津波発生に続いて新たな海底火山によって津波が誘発されたと結論付けた。信田は津波の潮位が11メートルになった事がやっと腑に落ちた。「豊後水道から瀬戸内に押し寄せた4メートルほどの津波を新火山の噴火が水蒸気爆発を起こし、潮位を倍以上の大津波に変えたということか。」自然と言うものは人間では計り知れない。世界の知を結集しようと全解明は永久に不可能だと言う事なのかも知れない。いや、この広い地球で、陸の上にしか生きられない生命体がいくらもがいても星の中のほんの1粒ほどの存在なのだ。地球を理解しようなどと言う事が無謀としか思われない。四ノ宮は、自分の存在の無さを経験を持って知った。その時、信田の怒声が飛んだ。「四ノ宮、防災対策立て直せ。」面喰った四ノ宮は、「はい。」と憲兵に従うように逆らう事が出来なかった。
四ノ宮が提出する防災対策案は悉く没になった。一つをクリアーしようとすると、二つ目がアウトになる。其れが3つ、4つと考えられ、全体を平均的にクリアーしようとすると当たり前な防災対策となってしまう。これはと言うものが出来ないまま、国の防災対策会議で発令された基準は、現行の上乗せ案に終わってしまった。その防災対策基準法では、防潮堤の底上げ、建築基準法の改正により、震度9までの耐震性が盛り込まれたが、新たな火山噴出に関しては、稀な事例により今回は避難経路の立案だけとなった。ディフェンドも今回の改正は不満であったが、最適案を提出できない今、言える事は無かった。四ノ宮は、資料作成が不振に終わったため、降格、減給を言い渡された。何の不満も言いようの無い内辞である。信田は、四ノ宮の降格により、現状維持となった。
四ノ宮に変って信田に一番近い立場になったのは、野羅庄次(のらしょうじ)だ。防災設備工事士の全ての資格を取得済みで、救急救命士、消防士、等防災に関してのプロだ。一つ、四ノ宮が敵うとすればヘリの操縦技術だけだった。信田は、野羅を猫っかわいがりし、特に目を掛けた。四ノ宮は、補助として彼の考えに従う事しかできなかった。「四ノ宮さん、東京直下の防災対策案を提出してください。私の方に。」野羅は嫌味を言うような性格ではない。其れは四ノ宮も分かっているが、そう言われた時、信田との間に、遠い空間を感じた。其れを頭から振り払いながら、四ノ宮は業務を全うすべく、「分かりました。」と快く返事をした。
大災害から全ての人間を守る事は不可能のようにも思える。全体主義の行政に倣っているようでは、ディフェンドの存在価値がない。ここ日本を含め戦争の爪後の残る国々では犠牲は付き物だと考える多くの人々がいる事は確かである。然し、一人一人同等な命を犠牲になど出来る筈もない。高貴なお方だろうが貧困にあえぐ人々だろうが人の犠牲になる人など存在しないのだ。人はお互いが支え合う事で人となる。一人が犠牲では、人が存在しない事になってしまう。四ノ宮は、脳内の知識全てを出し切った後に現れる考えを必死でひねり出していた。
東京、高層マンション、スカイツリー、大都会。
「あそこだな。」日本道路公団職員柊渉(ひいらぎわたる)、金森常幸(かなもりつねゆき)の二人は首都高上でがけ崩れの情報提供があり、駆け付けた。「こりゃ大変だな、2車線潰れてるよ。」金森は徹夜を覚悟した。「工事車両要請します。」柊は先輩金森に気を使いながら車の無線で本部に応援を頼んだ。「とりあえず反対車線を一車線開けよう。」金森はベテランらしくとっさに対応する。「私が車の誘導をします。」柊は、崩れた土砂をふさぐ位置に立ち金森が中央分離帯を開け終わるまで、車を止めた。その時だ、山に張り付くように通っている高速道が柊の足元から震え始め遂にはひびが入り体が痙攣しているような大きな地震で崩壊した。「柊。」金森は反対車線に足を踏み入れていた為、回避できたが、柊は、止まっていた車と道路と共に平地へと落ちていった。然し、この地震はここだけではなかった。東京直下地震の始まりであった。東京23区の建物が次々に崩落していく。建築物が大きい為、そこに人がいるのかどうかも分からないほど、コンクリートの下敷きなる人々。国会議事堂も半分が喪失。その日、国会の最終日であったため、多くの議員が犠牲となった。国が国として機能しないという最悪の状態になった。
一報を受けたディフェンドは四ノ宮操縦のデフェンドⅡを現地に送った。今回は、野羅も同乗した。避難梯子をおろせるよう配慮したものだ。ディフェンドがヘリを導入したのは、被災地の状況把握の為であった。然し、現場に入った者全てが、何時しか救助をするようになった。助けたいという人間の本能が仕事に勝ったのだ。其れは、四ノ宮の先輩たちが積み上げて来たものだ。「四ノ宮さん、あそこ。」野羅の言葉に左前方を確認する東京で最も高いマンションが傾いている。「都民は避難しているようですね。」前回の南海トラフの教訓から地震に対する避難が強化され、プレートの移動変動が起きるとスマホに緊急メールが発信されるようになり避難準備が用意できるようになった。「津波の発生です。」ディフェンドⅡの無線に緊急指令が飛んだ。スマホよりも数秒早く入って来た。ヘリの緊急無線は解析装置から直通である為だ。東京湾から押し寄せてくる潮位は、雲海の様だ。「震源地のマグネチュード8.2」解析されるデータが次々に無線を通じて入ってくる。「東京都民9割シェルターへ避難。」今回、津波を防波壁でと考えられたが、コストが少ないカプセル型のシェルターを大量に地下へ投入した。たとへ流されても船の様に浮かびあがる。耐震性では建築物よりも強固なのだ。「野羅さん、あそこ。」四ノ宮の声に野羅が右を見ると、津波避難タワーの屋上で手を大きく振っている人達が見える。4人ほどだ。「救助しましよう。」野羅の指示で四ノ宮は、タワー屋上のHマークへ着陸準備をした。「さあ、乗ってください。」回転翼を回したまま、避難者に腰を屈める様指示し、ヘリに招き入れた。ディフェンドⅡは日本海側へと飛び立った。今回の地震は東京、茨城、千葉、神奈川、群馬そして埼玉にも大きな被害を齎した。潤沢な財源のある東京ではシェルターを使い被災者を少なくできたが、他県では、プレート移動の段階で隣の県に避難する道を選び功を奏した。勿論、ディフェンド本社も三角屋根は崩落し、壊滅状態であるが、地下にシェルターを備えていた為人的被害は無かった。今回の大震災は、一つの経験智として後世に繋げる事が出来る可能性を示した。戦争被害を避けるべく作られた核シェルターが自然の猛威をも防ぐ事が分かり、各自治体は、地下シェルターの確立へと歩みを進めた。四ノ宮は思う。人間は、自らの過ちを改める事で成長する。シェルターは人間の最大の過ち戦争から作られた。それによって自然と共生する道標を創造した。この地球で人間が生きる為には、人間を絶滅させる術を打ち砕く考えが必要だったのだと。被災し犠牲となった人々。全ての人間の命を救う事それこそが人が求める何かなのだと。
壊滅した日本は、世界から差し伸べられた支援と強靭な復興精神により、様々な仕事を新たに生み出し、また来るであろう巨大災害に対応する為、大規模な自動式防潮堤を建設する事となった。
2024年1月 「さあ、今年も仕事を頑張ろう。」乃木神社の参拝を終えた四ノ宮は、明日から始まるディフェンドでの仕事に意欲を見せた。Nバンに乗り込みスマホで電話を掛ける。「はい。緋香里です。明けましておめでとうございます。」「緋香里さん、明けましておめでとうございます。」浅貫緋香里と再会したのは首都直下地震の二日後だった。緋香里は役所を退職し、被災者支援のNPO団体を立ち上げていた。本部は岡山。ボランティア代表としてディフェンドを訪れた緋香里を案内する様、四ノ宮に指示を出した。関東全体にボランティアを振り分けるのにヘリで移動させることで早く活動が出来る。自衛隊は救助活動があり使うわけにはいかないない。それを岡山市が協力し信田に連絡、ディフェンドⅡを借りたい旨を打診した。信田は四ノ宮と緋香里が知り合いだとは聞かされていない。四ノ宮は彼女が生きていた事、そして剛三も元気だと聞かされ、津波に呑み込まれてしまったことを詫びた。その四ノ宮に彼女は「あの時の四ノ宮さんとの経験が強い自分を作ってくれました。私も四ノ宮さんの様に人の命を救いたいと思いました。そして今の自分があるのです」と感謝した。案内した後も連絡を取り合うようになり何時しか付き合うようになった。そして昨年のクリスマスイブの日、四ノ宮は彼女にプロポーズし結婚する事になった。式はこの乃木神社で今年行われる予定だ。
ヴァーティカル・エバキュエイション 武内明人 @kagakujyoutatu
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