脈打つ肉

雨光

数値の味

私にとって、食べ物とは、ただの「数値」の集合体であった。


病院の白い廊下をトレーを押しながら歩く。

患者たちの、その、食べ残しの皿の上には、愚かな欲望の残骸が、無残に、横たわっていた。

脂質、糖質、過剰な塩分。


私は、それらを冷たい、無機質な数字へと変換しカルテのその小さなマス目の中にただ記録していく。

彼らの、その、卑しい食欲を、心のどこかで、静かに、軽蔑しながら。


その日からだ。

私の、その、完璧に秩序立てられた世界が、狂い始めたのは。


最初は、些細な、違和感であった。


スーパーマーケットの明るい照明の下で私が、手に取った真っ赤な瑞々しい林檎。

その、美しい断面に一瞬苦悶の表情を浮かべた人間の顔が映ったような気がした。


やがて、その、悍ましい幻覚は、私の日常をじわりと侵食していった。


精肉コーナーに並ぶ鶏肉のその薄桃色の清らかな筋がまるで切り取られたばかりの人間の血管のようにとくんとくんと微かに脈打っている。


サラダの、みずみずしい、レタスの葉脈が無数の青黒い血管網のように私の目に映る。


私は、もうすべての食べ物を栄養素のその構成単位としてしか見られなくなってしまった。


食卓に並んだ、真っ白な炊き立ての米は、おびただしい数の白い炭水化物の虫の集合体にしか見えない。


グラスに注がれた冷たい牛乳は、カルシウムと脂質のどろりとした生々しい白い体液にしか思えないのだ。


私は、固形の食べ物を一切口にすることができなくなった。


すべてが、かつて生きていた生命のそのグロテスクな断片に見えてしまうのだ。


私は、栄養補助の味のないゼリーや無機質な錠剤だけでかろうじてその命を繋いでいた。


やせ衰えた、私を見かねて、ある日、同僚が、職員食堂の完璧な「健康食」を私の前に、差し出した。


焼き魚、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁、お粥。


それは、栄養学的に一点の非の打ちどころもない理想的な食事のはずだった。


しかし、私の目にはそれが地獄のフルコースにしか見えなかった。


皿の上の焼き魚のその白く濁った大きな目玉が恨めしげに私をじっと睨んでいる。


茹でられた、ほうれん草のその緑の葉は、まるで、水死者の顔、顔、顔。


無数の苦しむ小さな顔となって私に助けを求めている。


味噌汁の湯気の向こうで白い豆腐が生まれたばかりの赤ん坊のようにか細く泣いている。


そして、茶碗に盛られたお粥のその一粒一粒がすべて人間の黄色い歯の形をしていた。


「食べなさい。栄養を、ちゃんと、取らないと、本当に、死んでしまうわよ」


同僚のその優しい気遣いの言葉が、悪魔の甘い囁きに聞こえた。


私は、悲鳴を上げ食堂を飛び出した。


そして、無意識に病院のそのひやりと冷たい地下の巨大な食品庫へと逃げ込んでいた。


そこには、これから、調理されるであろう、おびただしい数の「食材」が、静かに、眠っている。


しかし、私の目には、それらが、すべて、まだ、生きているように、見えた。

木箱の中の、野菜たちは、すすり泣き、氷の上の魚の群れがその無数の丸い目で無言で私を責め立てる。


私はその声なき声と無数の視線に耐えられなくなり巨大な業務用の冷凍庫のその重い重い鉄の扉を内側から固く閉ざしてしまった。


翌日、職員がその冷凍庫の中でカチカチに凍りついた私を発見した。


発見した職員が恐怖に震え上がったのはその死に顔であったという。


彼女はその青黒く凍りついた唇にまるでこの世の全ての美味しいものを独り占めにしたかのような満ち足りた恍惚の笑みを浮かべていた。


そして、後日、行われた検死の結果、彼女のその空っぽになった胃の腑からは消化されかかったおびただしい量の彼女自身の「髪の毛」だけが見つかったのだ。


彼女は、栄養を求める最後の狂気の中で自らを「食料」として喰らいそして至福の内に、死んでいったのである。

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脈打つ肉 雨光 @yuko718

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