第2話  売れない声優は勘違いされる

山科千草やましなちぐさ

地に伏した女を抱き起した千草は、その獣の血に汚れた顔をぬぐってやりながら先の出来事を思い起こしていた。この時、千草はまだ環のことを女と見てとっていたのである。


(さっきのは一体……まあ、それはこの人が目を覚ませば聞きましょう。それにしても、触れを出していたにも関わらず、どうしてこの街道にいたのでしょう? おかげで影距えいきょ退治が失敗してしまいました)


二週間ほど前のことになる。

獰猛な肉食獣による被害が発生しているという嘆願がらん国北西部に位置する村から寄せられたのである。そのため千草は、直属の上司でもある藤原萌葱もえぎ率いる兵の一団と共に討伐に訪れていた。


数日前から影距らしき影が出没する街道を避ける触れを出し、村人が誤って入り込まないようにしていた。今回、千草が単騎で兵士たちの待ち構える地点まで標的を誘う手筈だったのである。


本来、鬼獣相手に単独で姿をさらすのは危険であるが、それは彼女が持つ実力への信頼であった。まだ幼さの抜けない少女と見えるが、流麗な剣のえと歌術の応用力から千草はその実力を見込まれて藍国の一将に任じられていた。


策が上手く運べば一網打尽にできたはずだが、彼女らの腹積もりは街道にひとりぽつねんといた女の存在によって崩れ去ったのである。


取り逃がした影距はしばらく寄り付かないため、再度時間をおいてまた出向く必要に小さな将はため息を吐く。

(人の苦労も知らずに、寝ちゃって。ほっぺでも突っついてやりましょうか)


頬に伸ばされた千草の指が寸前で止まる。

血が落とされた女の顔を見て、彼女は内心飛び上がらんばかりに仰天したのである。なぜなら、それは己が敬愛してやまない主人、藍国の国主である藤原白群びゃくぐんのものと瓜二つだった。


(なぜここに、白群様が⁉  一体全体どうなっているんですか⁉)

あまりの事態の不可解さに目を疑ってしまう。


(白群様は青藍にいらっしゃるはず。この辺境にお見かけするのはおかしい。それにこの奇妙な服装もに落ちません……と言うことは、この女人は似ているが別人ということなのでしょうか?)


眼前の女と己が主人をとりあえず別人と結論付けたものの、まるで生き写しのような姿に千草の自信は揺らぎ、はてさてどうしたものかとうなってしまうのであった。


ただの行きずりの通行人であれば礼を出して分かれれば良いが、この女人の場合はどうであろうか?


彼女が振るった卓越した歌術。

複数の影距離を相手取る胆力も並々の人物ではあるまい。その腕を買って主に推挙するのが当然と思える。


しかし、とそこで少女は躊躇ためらいを覚えてしまうのだった。

白群様に向かい白群様の登用を自身が進言するという奇怪な構図、千草は思い浮かんだそれをかぶりを振って追い出した。


(——とりあえず萌葱様のもとへ連れ、判断を仰ぎましょう)

小さな将は結論を先送りに、上司のもとへ未だ目覚め女を連れていくことにしたのであった。


指笛の鋭いを音に戻ってきた騎馬、千草は件の女を抱えながらその馬にまたがったのであった。



【藤原萌葱もえぎ

藤原萌葱は数日前から、兵たちと共に青藍せいらんからうつしへと森を貫く街道の出口に陣を張っていた。この必殺を期した布陣は鬼獣どもの墓標になる予定であった。


しばらく森を縦断する街道に人通りがないと、腹をすかせた化生けしょうたちは、次に縄張りに踏み込んだ人間を獲物と定めるだろう。


森中での戦いを避けた結果、猛獣どもを釣り出すために囮として己の右腕たる少女、山科千草を遣わせたのであった。


地を駆けるひづめの音が、萌葱に部下の帰投をさとらせた。

それは同時に、今回の策の成果の空振りをも告げていたのである。


(そろそろと思ったが、影距もことのほか我慢強い……やれやれ千草には負担をかけてしまうな)


陣に入り、馬上から降りた部下に萌葱は労いの言葉をかける。

「千草よ、ご苦労であったな」

「いえ、大丈夫です」


そして萌葱は、馬の背の見知らぬ女に目を留めた。

「ん?  それはどうしたのだ?」

「それが——」





千草の述べるところは武をほこる萌葱をしても、にわかには信じ難い。

それは女が並々ならぬ歌術師であり、その詠唱を以って千草の窮地を救ったということであった。


「うぅん、あれ? ここは……」

不意に横たえていた女から声が上がった。目覚めたらしく、体を起こした女の黒髪が艶やかに揺れる。


「女よ、大事ないか——」

言いさして萌葱は、その時初めて女人の顔をまじまじと見たのである。

彼女は瞠目どうもくし、絶句して、そしてすぐに大きな驚愕がその総身に走り抜けたのであった。







但馬環たじまたまき

目に移り込んだ景色は、そこが既に森の中ではない事を物語っていた。

「うぅん、あれ? ここは……」


どうやら気絶していた間に、テントのような場所に運ばれたようだと推し図る。周囲の天幕てんまくは時代劇で見るような幕舎ばくしゃにも環には思えるのだった。


そして環は自身を見つめる二人の女と目が合った。

呆然と自身を見つめる二人、片や肉食獣の襲撃から環をかばった少女である。もう片方は無骨なよろいを着込んだ武人然とした麗人れいじんであった。


彼女は驚きに大きく見開かれた目で、環を凝視していた。

「も、申し訳ございません! このような場所に!」

そして、あろうことか環に向かって女は平伏し、となりの少女も慌ててそれにならう。


「えっ、えええっ⁉」

理解が及ばない事態に慌てた環に、女は労わるような声で問うのだった。

白群びゃくぐん様、なぜこちらに。青藍にいらっしゃるはずでは?。それにそのそのお召し物は一体……」


「いや、その、誰ですか?」

環としてはその白群様とは誰ですか、とただす意図であったが、眼前の二人は表情を凍りつかせた。


「……まさか記憶が⁉」

「へ?」

「覚えてらっしゃらないのですか?  アタシです!! 白群様の臣、藤原萌葱もえぎでございます!!」


「えっと、藤原さん?」

「なんて他人行儀な呼び方を!!! 私のことは萌葱と呼んで下さい!!!」


(これは絶対に人違いでしょー⁉)


環としては、人違いであると分かって欲しいだけなのである。

しかし藤原萌葱と名乗った女は、目を悲哀ひあいうるませ、その頬を滔々とうとうと流れる涙にらす。


「あの、萌葱様。もしかするとですが、人違いではないでしょうか?  白群様と似ているだけのただの別人ということも……」

「千草よ、アタシは己が主人を他人と取り違えたりすることなどない! 耳を叩く優しく美しいお声。そして見ろ、この神秘的なご尊顔、肩口で揺れる艶やかな御髪おぐし、控えめではあるがしっかりとある御胸おむね……がない?」


部下の指摘を一蹴しようとするも萌葱は言いよどみ、きょとんとした様子で環の胸元を見つめる。


そこにあるはずのものが無いのは当然であった。なぜならば環は生物学的に男なのだから、乳房が膨らむはずはないのである。


「あの、萌葱さん。俺はその白群様という人じゃないですよ」

「なん……だと?」

萌葱が浮かべた驚愕の表情に、環はやっと真実を告げられたと安堵した。


だがしかし、彼女の方は突き付けられた現実にわなわなと口元を振るわせながら怒号を上げる。

「貴様ぁ!  白群様のお姿を真似てこの藤原萌葱をたばかるとは何者だ⁉ しかも、馴れ馴れしくもアタシを名前で呼ぶとは無礼千万! 今ここで叩き切ってやるわぁ!」


怒髪どはつ天をく勢いで萌葱は柱に立て掛けてあった大きな剣を取る。

鈍い反射光で環を照らす鉄塊は正しく大剣と呼ぶに相応しく、それを構える萌葱の背丈程もある巨大なものであった。


「ひぃぃぃぃぃぃぃ!?」

憤怒形相で振り上げられた大剣の鈍い光に環は絶叫する。


またも環を救ったのは、割って入った千草である。

「ちょっとちょっと。待ってくださいよ、萌葱様。流石にそれはよろしくありません。仮にも彼女は私の恩人。それに彼女にしてみれば私たちが勝手に……一方的に害そうとしているように思えるはずです。白群様もその所業を知ったら、大層お怒りになりますよ」


「む……確かにそうだな」

「普通は褒美の一つでも与えるところです」

萌葱は大剣を下ろし、眼光鋭く環を値踏みするように見つめた。


「とはいえ、白群様にここまで似ている者に褒美だけ与えて野に放ったまま、というのは不味い気がする。かといって、白群様に推挙するというのは……一体どうなるんだ?」

萌葱も先ほどの千草と同じ戸惑いにぶつかったらしく、主に主を紹介している珍奇な光景に頭を抱えるのだった。


唸っている上官をよそに、千草が環に微笑みかける。

「私は山科千草と申します。あなたのお名前を伺っても?」

「俺は但馬環です。助けてくれてありがとう」

「いえいえ、助けて頂いたのは私の方です。さきほどはありがとうございました」


「それで、但馬さんはどこにお住まいに? 近くの里ですか?」

環にとっては何とも答えにくい質問である。ここはどうやら歌術というものが存在している世界であり、会話こそ成立しているがどう考えても現代日本であろうはずがなかった。


「えぇと、東京という場所にいたんだけど、気が付いたらなぜか森の中に……」

「聞いたことないですね、どこか山奥にある小さな里でしょうか?」

少女との問答に、否応なく環は自身が異世界に置かれていることを自覚させられてしまう。一千万人以上の人口を抱える大都市東京が山奥の小さな里のわけがない。


「いや、どこでしょう……ね……」

「えぇと、それは行くあてが今のところないということでしょうか? 」

「……そうなるかな」

「それなら、私たちと一緒に来ませんか? お礼もしたいですし、しばらくは衣食住も保障できると思います」


少女の提案は異世界で寄る辺の無い環には渡りに舟であった。

食料や安全な寝床、現代日本ではないこの世界ではそれらは当然のように確約されるものではない。そういった心配があることに思い至り、環は千草の提案に飛びついた。


「それは助かるよ」

〝じゃあ、そういうことでお願いしますね〟と千草は請け合ったのだった。


少女は、未だ頭を抱えながらり言をつぶやくく上官を振り返り、その肩を揺すって呼びかける。

「萌葱様、萌葱様、戻ってきて下さいよ」

「——はっ⁉ お、おう、千草か。どうしたのだ?」


「とりあえず、但馬さんを青藍までお連れして、浅葱あさぎ様のお考えを伺ってみてはどうでしょうか?」

「……なるほど、それがいい! 姉上は私よりずっと賢いから、何とかしてくれるだろう!」


その手があったかと、手を叩いて萌葱が浮かべた明るい笑み。

先ほどまでとは打って変わって、途端に心配事がなくなった様子の萌葱に、環は何とはなしに藤原萌葱のパーソナリティーを理解してきたのであった。

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