声優戦記 【第一章 完結】

深海の竹林

第一章   両雄邂逅す【完結】

第1話  売れない声優は異世界に迷いこむ

 ——まず初めに歌があり、歌は神とともにあった。そして歌こそは神への祈りであった。




但馬環たじまたまき

 但馬環はアプリゲームの収録を終え、スタジオから出たところで陽光の眩しさに目を細めた。


 彼はたった今、役名もないようなモブキャラの声を演じたのであった。声優として仕事を始めしばらく経つが、役名があるような役柄に抜擢ばってきされたことは一度としてない。


 男性にしては高く中性的な声——だがそれは、これと言った強い癖があったりや耳に残るというようなものではなく、誰もがどこかで聞いたことがあるような、そして記憶の海の容易に沈んでしまう声であった。


 演じることのできる役柄こそ幅広いが、それぞれの役柄では演技やしゃべりに強い持ち味のある他の声優に二歩も三歩も劣ってしまう。


 駆け出しの環には偶にちょっとした収録の仕事が舞い込んでくる程度の、いわゆる売れない声優なのであった。実力不足は承知の上、それでもいつか主役を張るような演技を夢見ていたのである。


 震えるスマホを慌ててポケットから取り出すと、事務所のマネージャーからの着信であった。

(……オーディション結果かな?)


 先日、とあるアニメの主要キャラのオーディションを受け、そこで強い手ごたえを感じたのである。まれに見る会心の出来は、初めて名前のある役に任されるかも知れないと、彼の胸を高鳴らせていた。


「もしもし、但馬です!」

「ああ、但馬君。この間のオーディションね、ダメだったわ。残念、残念。また何か新しい募集があったら連絡するよ」

 特に残念そうな様子もなく、結果だけを押し付けて通話は切れてしまうのだった。


 環は思わず天をあおぐ。

(……やっぱり俺なんかじゃダメなのかも)






 それは子どもの頃の記憶。

 発表会の朗読劇、そこで環は英雄を演じたのであった。

 誰よりも強く、誰よりも鮮烈せんれつで、誰よりも華々しい。己とは真逆の存在。


 しかし、演劇の中で彼はまさしく英雄であった。

 誰もが環の芝居しばいに拍手の称賛を降らせる中、彼はただただ瞠目どうもくしていたのだ。自身の中に、英雄という形無く不確かではあるが、どうしようもないほど憧憬しょうけいが存在したことに。


 そして、環は再びそれを追い求めるように、上京して声優となったのである。






 しかし、環はかつてのような役柄との一体感を得られずにいた。

 彼の演技にはどこか借り物のような既視感ばかりが残り、結果としてオーディションでは不採用を突き付けられる。


 決心して飛び込んだ業界だが、先行きは決して明るくはない。そして、彼の懐具合はより暗かった。

「はぁ、もっとシフトを増やさないとなぁ……」


 環は声優業——と言ってもほとんど仕事はないのだが——そのかたわらに舞台演劇とアルバイトをしていた。気心の知れた仲間たちとの芝居は楽しくはあるが、そこでも彼の演技の個性の無さが垣間見える。


 男性にしては小柄で、童顔も相まって高校生——ひどい場合は中学生に間違われることもあった。逆を言うと舞台化粧をすれば女性も含めて幅広い年齢を演じられるのである。


 これも声の仕事と同じように、演じられる役柄自体は多いものの、どこか物足りなく感じてしまうようなパンチに欠ける芝居になってしまうのである。


 端的に言ってしまえば、声優としても舞台役者として、彼はどうしようもないくらい三流で、彼にしかない持ち味といったものを見出せないままでいたのであった。


 環は肩口まで伸びた髪を触った。

 指の間からこぼれる自身の髪に、思わずため嘆息してしまう。散髪代すらも渋って大分髪が伸びてしまっていたのであった。

(このままで本当に大丈夫かな?)


 今のままで本当に良いのかと自問するが、答えは見えず。

 この現実が少しでも好転すること願い、祈るように小さく呟く。その声は人々を行きかう都会の喧騒けんそうに溶けて無くなった。


 足取りは重い、それは希望を打ち砕かれた結果であった。


 彼の口から音の羅列が小さく漏れる。

 早口言葉にしては異様に早すぎるそれは、ただの活舌トレーニングではあり得ない。最初こそは練習であったそれは、いつしか彼の身に降りかかるストレスからの逃避手段になっていた。


 この時、環は気づいていないかった。

 自身がつぶやいたフレーズの連なりは歌へと昇華し、それが神に聞き届けられたことを。


 突如としてまたたいた強い閃光が彼の目をくらませた。










 鼻腔びくうに広がる森の息吹が、薄暗い森のただ中に一人倒れていた環の意識を覚醒かくせいさせた。

「えっと、どこ?」


 身を起こして、先ほどまでの記憶を手繰たぐる。

 どう考えても大都会にいたはずであるが、目に入るのは自身を取り巻く鬱蒼うっそうしげる木々ばかり。森の静謐せいひつとした空気は、明らかに都会の喧騒けんそうから隔絶かくぜつしていた。


 一体どうしてこんな場所に、一人ぽつねんといるのか釈然せず、彼は首をかしげるのであった。

誘拐ゆうかい?  いやいや、ウチ全然お金ないから、違うだろうし……じゃあ、夢かな?)


 あれこれ思案することの無意味さを悟り、彼は立ち上がって歩き出した。

 下草を踏みしめながら歩いていると、少しずつ周囲が明るんでくる。木々の葉の隙間から差し込んだ朝日が道程を照らしているのだった。






 どのくらい歩き続けただろうか。

 環は森を貫く街道のように長く開けた場所に出ていた。


 舗装されていない道を時折足を取られながら進んでいくと、次第に何かが街道を強く踏みしめながら近づいてくる音が耳に届く。


 馬のいななきと獣の咆哮ほうこうが大気を震わし、次いでその迫りくる姿が視界に入るのだった。馬を駆る少女を大きな獣の群れが追いかけ、それらはぐんぐんと迫りくるのであった。

(——な、何だ!?)


 現実感の無い光景には環は足を止め、呆けたように見入ってしまう。


 獣の方も環を認識したようで、また一つ恐ろしい唸り声を上げた。

 足をすくませるような恐怖が、彼に自身が窮地きゅうちにあることを否応なく理解させる。


「そこのあなた、逃げてください!」

 馬上からの少女の叫びに、冷汗がどっと噴き出した。


 懸命に走ろうとするが、足は硬直してしまったかのように容易に前に出ない。


 そんな無様な姿を嘲笑あざわらうが如く、獣たちの姿が大きくなる。

 狼のような姿の黒い四足獣。だが。その威容いようは環が知るそれをはるかにしのぐ巨大さであった。


 巨大な獣はあぎとから獰猛な牙をむき出した。

 そのあまりにも鋭利で、容易に人の命に至るであろう凶悪さに目が吸い寄せられてしまう。


 それは彼を死地へと誘うには十分な時間であった。





(——ひぃぃ⁉)

 ふと我に返ると、環は既に自身が凶悪な獣たちの輪の中に絡め取られていることに気づく。


 今にも飛び掛からんとする脅威を押し留めているのは、彼を小さな背にかばった少女が持つ抜き身の刃であった。どうやら彼女は馬を下りて、わざわざ環を救おうとしているらしい。


 少女の背中越しにうかがうと、巨大な狼のような獣が4、5、6頭。それらを相手に彼女の手中の刀で一体どれほどのことができようか。


 聞いた者を戦慄せんりつさせる唸り声を上げ、獣たちは今にもたちに飛び掛からんとにじり寄る。


「あなた、歌術かじゅつは?」

 肩越しにささやかれた少女の言葉に、環は面食らってしまった。


 応じない環に、少女も自身の意図が通じてないことを見てとったようである。

 その端正な顔を引き締め、彼女は眼前の脅威を見据えるのだった。

「わかりました、私がおとりになっている間に逃げてください。なるべく引きつけます」


 環の顔を照らしよぎる剣光。

 素早く風を切る刀の切っ先は近づく獣を牽制けんせいし、同時に彼女は何かを唱えはじめた。


 そこに横合いから、大きな影が牙を剥いて飛び掛かった。






山科千草やましなちぐさ

 らん国の将である山科千草は鬼獣きじゅうの討伐に赴いた一団の一人であった。

 彼女自身が囮となり鬼獣を誘い出すという策の最中、何の因果か人払いしたはずの街道を奇異な装いの女が歩いていたのである。この時は、彼女は環が女であると見てとっていたのである。


 みすみす捨て置くことも出来ず、馬だけを逃がして救おうと試みた。


 千草は後ろにかばったその女の反応に、嘆息たんそくして腹をくくる。

(おそらく歌術を使えないのでしょう。だとしたら私が一人で何とかするしかありません……)


 置かれている状況は逼迫ひっぱくしており、もはや危機的である。

 二人を取り囲む距影えいきょと呼ばれる鬼獣は難敵である——その膂力りょりょくは人馬が及ぶところではなく、硬質な黒い毛皮は鋼の刃ですら傷つけるのが難しい。


 対して、距影の爪牙そうがは鉄のよろいすら容易に貫いてしまうのである。およそ人の力では拮抗きっこうすることすら叶わない。


 噴き出した冷汗が頬を伝うが、ふぅと息を吐いて少女は乱れた心を鎮めようとする。

 千草は自らの剣術のみで、この場を切り抜けられるとは考えていなかった。


 なぜならば彼女は歌術師かじゅつし——万物に宿る神に歌を以て語り掛け、その力を借りる者。詠まれる和歌は神へ祈りであり、歌は神世と地平を結ぶ紐帯ちゅうたいであった。

 千草は刀で獣の動きを制しつつ神へ呼びかけの歌を唱える。


 一言一句の誤りも許されず、抑揚や語調、語勢の乱れが失敗へと帰する。

 だからこそ、はやる心で言葉を口にするより、冷静かつ正確に唱えることが重要なのである。


「——————風刃!」


 牙をいて疾駆しっくする一頭が、術理によって顕現した暴風に巻き取られた。そして鋭利な風の刃に総身を切り裂かれながら、あらぬ方向に投げ出される。


 そのまま地に叩きつけられた影距は苦悶くもんうめくが、すぐに起き上がった。体の所々に裂傷が走り毛皮を血に染めているが、明らかに深手には至っていない。想定以上の難物さに千草は歯噛はがみした。


 一対一であれば、間違いなく勝てる。二対一でも、まだ何とかなるだろう。しかし、自身と背後の女を取り囲む複数の鬼獣を見渡し、旗色がすこぶる悪いことを覚してしまう。


 ふとその時。

 後ろから自身とよく似た声が聞こえてきた。


 その声色、抑揚、語調、語勢、全てが瓜二つ。

 目を向けると、庇いだてていた女が歌を詠んでいるのである。


「——————風刃!」

 女が唱えると、千草が刀を向けていた影距が、荒れ狂う風に巻き取られ、傷だらけで地に放り出される。だが、やはり浅く傷付けただけで鬼獣はすぐに臨戦態勢に戻ってしまう。


 後ろ女は敵足りうると、影距が狙いを移したことを千草は瞬時に悟った。

 一頭が千草をかえりみずに女に踊り掛かったのである。

 その詰め寄る速さを千草は見誤っていた。


(———っ⁉ 間に合わないませんっ⁉)

 自身の歌ではとてもではないが追い縋れない。そして先ほど詠唱を終えたばかりの女も再度の詠唱も間に合うはずがない。


 女がその悪辣あくらつな牙に無惨にも噛み殺される光景が脳裏をよぎる。

 そして、今まさに野生の暴力が女の痩身に牙を掛けんとした。


 時間が引き延ばされる感覚の中、千草の耳はまたも自身とよく似た声を拾った。


 女が詠唱してるのである。それも異常なほどの高速、慮外の速度で。


(無茶です! そんな唱え方では、神々に言葉は届くはずがありません!)

 しかし、そう断じた千草はその後の光景に裏切られることになった。


 空気がごううなりをあげる。

 飛び掛かった影距は血煙を上げながら、木の葉が突風にもてあそばれるように高々と吹きあげられた。そして僅かな間を置いて、鈍い音を響かせて地に落ちたのである。


 影距は伏したまま立ち上がらなかった。いや、立ち上がれないのだ——なぜならば既に絶命しているから。


「……は?」

 千草は女が為した埒外らちがいの奇跡に眼を剥いてしまう。

 それは正しく把握したからこその驚きであった。詠唱自体が素早いというだけならまだ理解の範疇はんちゅうであるが、彼女の歌はより強く神の権能を引き出すものだった。


 つまりは高速の詠唱下においてさえ、歌の抑揚、語調、語勢、全てが完璧以上としか考えられない。それは果たしてそれは人間のなせる業なのであろうか——


 仲間の死を目にした獣たちは、低く唸り声を上げながら警戒の色をあらわにした。

 そして、三頭が後ろの女に狙いを定めて、同時に疾走したのである。


 一呼吸の内に鬼獣らの巨躯は、千草の眼前に肉薄していた。

 そのあまりに絶望的な状況に小さな将は身構えることしかできない。


 しかし、少女を迎えたのは更なる驚愕きょうがくであった。


 彼女が捉えることが出来たのは結果のみ。


 荒れ狂う風の暴虐ぼうぎゃくが過ぎ去った後には、なますときざまれ肉片と化した獣たち。流れ出た鮮血が大地を赤く染め上げている。


 それは紛れもなく歌術が為した帰結。

 即ち、女の歌は千草さえも知覚できない速さで詠まれ、しかもその速さで確実に複数の影距の先手を取っていたとしか考えられないのであった。


「……どうなっているのですか?」

 茫然ぼうぜんと呟いた声は獣たちの心境をも代弁していたのかも知れない。


 黒い猛獣たちは顔を見合わせると、劣勢を悟ったのか唸り声のみを残して森の奥へと消えていく。その後姿を見送り、千草は安堵の息を吐く。


(ふぅ、今回は、あの女性に助けられました……しかし、任務は失敗ですね)

 振り返って千草が目にしたものは、女が崩れ落ちる姿であった。






【但馬環】

 自身を猛獣から庇い立てする名も知らぬ少女。

 その勇敢さに従い、環には彼女を置いて逃げるという手もあった。


 だが、眼前の少女を犠牲にして、一人助かろうとするなど果たして許されるのか。煩悶する間に訪れた死地は、彼の足をこの場に縫い留めてしまったのである。


 巨大な獣が少女に獰猛な牙をいた光景に環はきもをつぶす。

 しかし、その恐ろしい凶器が少女を捉えることはなかった。黒い影は耳をつんざく突風に押し流されたからである。


 眼前の少女が朗々と詠み上げた歌と顕現した荒れ狂う風の刃。

 その未知なる物理法則は環を驚愕きょうがくとともに戦慄せんりつさせた。原理は不明ながら因果は明らかだった。


 ここに声優として磨き上げた技術の結実が彼を生かすのだった。


 強豪ひしめく声優業界でも、彼には負けないものがあった。

 その一つが早口言葉。

 声優という職業は活舌よく話すことを生業としているが、環はその中でもずば抜けていた——同業者曰く、但馬環の早口言葉は聞き取れないため、本当に言えているのか分からない。実際に録音とスロー再生を経て、やっと聞き取ることができるのである。


 そしてもう一つは声真似。

 環は自身の声域に近い物であれば、ほかの声優の声質や発音の仕方などをトレースするように正確に真似られるのであった。しかし、演技力までも模倣できるというものでは無く、これらの特技は正直なところ物珍しい宴会芸にしかならず、声優という役者の仕事として活かせたことはなかった。


 環は再現する。


 少女の歌を。


 少女の声を——抑揚を、語調を、語勢を。

 正確無比に再現する。


「——————風の刃!」

 その歌が祈りとなって、神に届けられた。少女が見せた超常を今度は自身が起こしたのであった。


(やった! 俺でも出来る!)

 喜んだのもつかの間、獣たちは環への警戒をむき出しにした。

 殺意のこもった視線に射竦いすくめられ、環の全身に冷汗がにじむ。


 そして、一頭が目をみはるような速さで飛び掛かかってきたのである。


 環はどこか他人事のようにその光景を見入ってしまう。

 刹那の後には、自身は獣の鋭い牙のさびへと変えられてしまうだろう。その危機感ですら、彼は体の自由を取り戻せないでいた。


 しかしその口だけは滑るように動き出す。


 なか茫洋ぼうようとしながらも、彼の口唇こうしんは歌を素早く紡ぎ出したのであった。

「——————風の刃!」

 早口で瞬時に全てを正確に再現したのだった。


 獣がまき散らした鮮血が下草を濡らし、巨体が横たわる場所には血溜まり広がっている。


(うわぁ……血が)

 その命と共に流れ出る真紅に、環の心臓が早鐘を打った。死の生々しさ、あまりに濃厚な血の臭気に彼は眩暈めまいを覚えたのだった。


 現実感の無さに呆ける環、彼に今度は三方から獣の影が接近していた。

 そして、彼の口だけがまたしても反射的に応じたのである。


 その動き、言の葉を紡ぐ口腔の音響は人間が知覚可能なの速度を超え、詠唱は尋常ならざるものになっていた。刹那の内に歌を三度ねじ込み、口唇より高速で漏れ出た言葉は意味をなさない音の塊に収束する。


 彼の歌を誰一人聞き取れる者などいない。

 神々を除いて。


 鮮血が環の顔を赤く染めた。

 それは術理になぶられた獣から飛散したものであったが、彼には定かでなかった。自身の生存か、はたまた猛獣の餌食となった死か、赤く染まった視界の中で意識を手放してしまったのである。


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