第2章「遥という女」

桐谷遥。28歳。職業不詳。身元不明。

美咲の隣室に越してきたのは1週間前。

不動産屋によれば「前職は外資系企業勤務」とのことだったが、勤務先の名前を調べても、どこにも該当がない。


──彼女には、履歴がない。


***


数年前、ある小さな街で“奇妙な連続事件”があった。


始まりは、1人の女性が職場で孤立し、うつ病を発症して退職したこと。

次にその女性の親友が交通事故で死亡。

そして、その女性の恋人が浮気を疑われ、職場をクビになった。


関係者が口を揃えて言っていた。


「すべて、あの女が現れてからおかしくなった」

「やさしくて、きれいで、人の懐に入るのが上手い女だった」

「最初は誰も気づかなかった。彼女が“壊している”ことに」


だが、事件とされる証拠はなにもなかった。

彼女はその街を去った。名を変えて。


──“桐谷遥”は、おそらくそのときの偽名のひとつ。


彼女はいつも、同じ手を使っていた。

他人の弱さや不安に静かに寄り添い、信頼を得て、心の隙間に入り込む。

そして少しずつ周囲の人間関係を歪ませる。

無自覚に、あるいは意図的に──その人の居場所を、根こそぎ奪う。


理由は、ただひとつ。


「他人の“居場所”を壊すのが、楽しいから」


桐谷遥は、依存型の人格破壊者(ディストロイヤー)だった。

感情の起伏が乏しく、共感性も乏しい。

けれど、人の心を読むことに長けている。


その静かな破壊衝動の奥には、彼女自身の“過去”があった。


***


遥がまだ16歳だったころ、実母が精神を病み、家族を破壊した。

「いい子」でいようとした遥は、やがて誰からも必要とされなくなった。


孤独のなかで彼女が覚えた唯一の快感。

それは──


「自分が誰かの“特別”になること。そして、その人を壊してしまうこと」


遥は知っていた。

このゲームは、誰にも証明されない。

証拠を残さず、誰かの人生を歪める。

自分という存在を“静かに痕跡として刻む”ことでしか、生を実感できなかった。


そして今、次のターゲットは決まっていた。


藤咲美咲。

“普通の人生”を歩み、“普通の人間関係”を持ち、“普通に幸せになろうとしていた女”。


遥の視線が、またカーテン越しに美咲の部屋を見つめる。


「壊すには、ちょうどいい距離」

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