第一章 紅の風、再び

「あなたは、生きなきゃ……」


あの日、ルシアナは静かにそう言った。牢の片隅、鉄格子越しの薄明かりの中で、彼女の手がエレネアの頬をそっと撫でる。


「今夜、外に味方が来る。名前はガルマ。信用して――彼には昔、借りがあるの」


その声に怯えはなかった。むしろ、安堵すら混じっていた。


エレネアは、ただ首を振った。嫌だった。置いていくなんて、できなかった。


ルシアナは微笑んだ。「お願い……あなたは〈紅の風〉。まだ、その意味は知らないでしょうけど……あなたの中には、誰かの願いが流れてる」


そのとき、外で爆発音が上がった。ドンッ――と扉が蹴破られ、黒ずくめの男が駆け込んでくる。


「来い、ちび!」


あまりに荒っぽいその声に、エレネアは目を見開いた。でも、なぜかその背には、懐かしさすら感じた。


ルシアナは何も言わなかった。ただ一歩、彼女を突き出すようにして――微笑んだ。


「ありがとう、ルシアナ……」


扉が閉じる直前、彼女の姿が消えていくのを、涙に霞む目で見つめていた。


それが、エレネアが“番号”で呼ばれる世界から、初めて自分の名前を取り戻した瞬間だった。


──そして五年。


朝霧に包まれたカヤック村。灰色の空の下、村を見下ろす丘の上で、旅支度を終えたエレネアは静かに立っていた。


「……行くのか?」


後ろから、ガルマの低い声がした。彼女は何も答えなかった。ただ、肩が一瞬だけ震えた。


遠くに見えるのは、小さな家々。薪を割る音。釜戸の匂い。あの家で過ごした日々の記憶は、もう二度と戻らない。でも――だからこそ、歩き出さなくてはならない。


「もう……守られてるだけじゃ、いけないから」


静かに告げたその声に、かつての“深紅の光”が宿る。炎と叫びの中、すべてを奪われたあの日。そして、命を賭して手を伸ばしてくれた、あの人のぬくもり。


「あの人の……足跡を、たどりたいんだ」


その言葉に、もう迷いはなかった。


ガルマは少し黙ってから、懐から小さな包みを取り出す。


「……これを渡すのは、まだ早いと思っていたがな」


古びたローブと、くすんだ銀のペンダント。ローブの胸元には、ミノル村の守人にのみ許された〈紅の紋〉が刺繍されていた。


「これは……!」


「お前が“何者だったか”じゃない。お前が“何者になるか”を、見つけてこい」


ガルマは、その場に膝をついた。少女の前で、深く頭を下げる。


「すまなかった、エレネア……俺は、お前に何ひとつ返せなかった」


エレネアは、ゆっくりとその手に自分の手を重ねた。


「ありがとう、ガルマおじいちゃん」


その顔に浮かんだ微笑みには、もはや幼さはなかった。


風が吹き抜ける。ローブの裾が踊り、長く伸びた髪が宙に舞う。彼女の瞳に映るのは、遥か東の地――〈ユタの大風穴〉の方角。


「私、行ってくるね。きっと、何かを見つけて帰ってくるから」


振り返らず、少女は歩き出す。


朝日がその背に射し込む。赤く、眩しく、彼女の名にふさわしい光。


それは、紅(あか)の風が再び吹き始めた、物語の始まりだった。


🜂🜁🜄🜃


カヤック村を出て、すでに二日が経っていた。かかとの擦り傷、肩に食い込む荷物、靴下の中の小さな小石――そのどれもが、いま自分が旅をしているんだという実感をくれる。


「うーん……足は痛いし、お腹もすいてるけど……」


それでも、エレネアの表情は明るかった。頬には汗と土が混じっているけれど、目だけはどこまでも澄んでいた。


丘の上に立って、遠くに見える森と、その向こうに続く霞んだ城壁を見つめる。


「見えた……!あれが、グリーンパレス……!」


かつて王都と呼ばれ、今は冒険者たちの拠点となった緑の都。そこには、自分のまだ知らない世界が、誰かが、自分を待っている気がしていた。


「ふふっ……なんてね、誰も待ってないかもだけどっ」


ひとりごとのように笑いながら、エレネアは胸の前で小さく拳を握る。


風に煽られた赤いフードを押さえながら、草原の坂道を転がるように駆け下りていく。


「ギルドに登録して、冒険者になって、一攫千金!じゃなくて、運命の出会いがあって……じゃなくて、運命を……えーっと……とにかく負けないんだから!!」


ちょっと噛みながらも元気よく叫ぶその姿は、いかにも“旅の始まり”といった風情だった。


荷車は途中で壊れ、村を出てすぐは泣きそうになるくらい寂しかった。けれど、時間とともに景色は変わり、見えるものも匂いもすべてが“知らない世界”。


胸の奥にある、ルシアナとの記憶や、あの日の涙は、まだ心のどこかに残っている。けれど、それでも――彼女は前を向いていた。


「だって、私……!」


一瞬だけ、立ち止まって空を見上げる。雲の切れ間から、柔らかい光が差し込んできた。


「私、ちゃんと生きてるもん。ちゃんと、自分で歩いてる……!」


再び走り出す。


今度は転がるようじゃない。足元を確かめながら、でも心は軽やかに。


そして、少しずつ、彼女の視界の中に“街の匂い”が近づいてきていた――


エレネアはフードの端を指先でつまみながら、坂道を下り切ったところでふと立ち止まった。目の前には、緩やかな曲線を描く石畳の街道と、緑の葉が風に揺れる並木道。遠くにそびえる高い城壁の内側には、大小さまざまな建物が折り重なるように見える。


「ここが……グリーンパレス」


思わずつぶやいた声が、風に乗って遠くへと流れていく。


門の前には、旅人や商人たちが列を作っていた。馬車の轍が重なり合い、警備兵が通行証を確認しながら、軽く言葉を交わしている。


列に並びながら、エレネアは周囲の人々をちらちらと見回した。背負った荷物の量、武器の種類、顔立ちの険しさ……どれも彼女とはまるで違う。


(あはは……なんか場違いな気もするけど……)


不安よりも、胸がドキドキする。きっと、ここで何かが始まる。そう思うだけで、足元の疲れもふっと軽くなった。


ようやく順番が来て、門番に軽く会釈しながら、荷物の中身を簡単に見せる。


「……新人さんか?」


「あっ、はい!冒険者になりたくて!ギルドに登録に!」


門番は軽く目を丸くし、そして苦笑いを浮かべた。


「最近は若いのが増えたな……気をつけろよ、ここは夢ばっかり見てると痛い目見る街だ」


「わ、わかってます! でも……夢、見なきゃ始まらないし!」


そう答えると、門番の表情が一瞬だけ和らいだ。


「よし、通れ」


エレネアはぺこりと頭を下げ、勢いよく門をくぐる。


街の中は、想像以上に賑やかだった。


木造のバルコニーが張り出したカフェ、冒険者向けの武具店、行き交う魔導具売りの小さな屋台。人々の声が四方から飛び交い、香辛料の香りと、鍛冶場の鉄の匂いと、子どもたちの笑い声とが入り混じっている。


「わ……これが、冒険者の街……!」


その眩しさに目を細めながら、エレネアは歩を進めた。


途中、地図の看板を見つけ、指で“冒険者ギルド”の文字をなぞる。


「こっちか……よーし、行こっ!」


彼女が向かった先、石畳を抜けた先の広場に、木造の立派な建物が鎮座していた。二階建ての建物の上には、剣と盾を模したギルドの紋章が風にはためいている。


「おおー……本で読んだより、でっかいかも……!」


だが、その感動もつかの間。ギルドの正面玄関に近づいた瞬間、中から出てきた誰かと正面からぶつかってしまった。


「わっ!? ご、ごめんなさ――」


「うおっと、大丈夫?」


軽くよろけたエレネアの前に、すっと手が差し出された。その手の主――淡い金髪を額でラフに流し、肩にかかる紺碧のマントを気だるげに羽織った青年は、ちょっと困ったように笑っていた。


「わりぃわりぃ、前見てなかった。君、大丈夫? ひねったりしてない?」


「だ、大丈夫……です! 私の方こそ……っ!」


「あはは、そっか。そりゃ良かった」


青年は散らばった荷物を拾いながら、ころがったリンゴをひょいと掴む。


「おっと、こいつは……ダメそうだな。無念の戦死ってやつだ」


「うぅ……それ、今日のお昼ごはんだったのに……」


「……マジか。それはちょっと、俺にも責任あるな。あとで補填するよ。……にしても、初日から衝突イベントとは、幸先いいな」


「イベント……?」


「冒険者の道ってのは、だいたいこういう出会いから始まるって相場が決まってんだよ。ほら、よくあるじゃん。運命の出会い的な」


冗談を言っているようで、どこか本気で楽しそう。その軽口には、不思議と相手を警戒させない空気があった。


「俺はリュカ。ここのギルドに出入りしてる、まあフツーの冒険者ってとこかな」


「あ、私はエレネア・フィオフェレス。今日、冒険者になりに来たんです!」


「お、初登録か。じゃあ、なおさら緊張してんだな?」


「えへへ、ちょっとだけ……でも、楽しみの方が大きいです!」


「うんうん、そういうの、いいね。……あ、でも中入る前にちょっとだけ注意」


「え?」


リュカは指を一本立てて、目を細める。


「受付のノア嬢、見た目は可愛いけど、地雷踏むとわりと厄介だから気をつけて。最初の挨拶、丁寧にな?」


「……こ、こわっ!」


「ははっ、大丈夫。慣れればツンデレってだけだから」


そう言って、リュカはエレネアの手からいくつかの荷物をひょいと受け取った。


「ほら、せっかくだし、案内ついでに中まで一緒に行こうか?」


「え、いいんですか!?」


「もちろん。初日でいきなりリンゴを犠牲にしてまで俺とぶつかった運命だしね?」


エレネアは笑いながら小さく頷いた。


二人は並んで扉の前に立ち、リュカが軽く押すと、ギルドの中からにぎやかな声と木の香りが流れ出した。


フードを押さえて気合を入れるエレネア。その目は、光と興奮に満ちていた。


いよいよ――彼女の物語が、始まろうとしていた。


ギィ……と重い扉が開かれる。


その瞬間、エレネアの目に飛び込んできたのは、陽の光にきらめく木材の床と、天井までそびえる梁。そして何より、笑い声と怒鳴り声と、金属の音が渾然一体となったにぎやかな空間だった。


「ようこそ、《翠光の大樹亭(すいこうのたいじゅてい)》へ」


そう言ってリュカは、ひときわ大きな円柱の根元にある看板を指差した。それが、この地方最大のギルド《翠光の大樹亭》だった。


「ギルドって……こんなに人がいるの!?」


エレネアは思わず口を開けて立ち尽くす。


中は広く、二階建ての吹き抜けになっている。柱には武器や剣の破片が埋め込まれていて、それぞれに名前や称号が刻まれている。天井から吊るされたシャンデリアは手作りのようで、ガラスではなく、透明な魔石が用いられているのか、淡い光を放っていた。


大きな掲示板には、紙が何十枚も貼り出されている。討伐依頼、護衛依頼、薬草採取……エレネアが冒険者の話として聞いてきたものが、現実としてそこにあった。


「こっちが受付カウンター。登録するにはまずここで身分証と簡単な審査がある。……まあ、特別な出自じゃない限り、大体通るよ」


リュカは肩越しにそう言いながら、受付の方へと歩き出す。カウンターの奥では、事務員風の女性たちが手際よく帳簿を処理しつつ、冒険者たちとテキパキ会話していた。


「うわぁ……すごい。まるで、本当に別世界みたい……」


「それが“冒険者の世界”さ。ようこそ、エレネア。今日から君も、その一員ってわけだ」


リュカの口元に、少年のような笑みが浮かぶ。それが不思議と、エレネアを安心させた。


草原を渡ってきた風は、いつの間にか木の香りに変わっていた。彼女の旅路は、今この瞬間から、確かに“始まっていた”。


「……え、登録料って、五万ゼニー?」


ギルドの受付で固まるエレネア。対する受付嬢はにっこり笑って言い放った。


「そうよ? それと身分証、写真、推薦状か試験。どれもなければ“仮登録”になるけど、報酬は半額になるから気をつけてね」


「…………半額!? というかそもそも五万なんて、持ってないんだけど……」


彼女の財布には、銀貨が二枚と、謎の干からびたトカゲのしっぽが一本。完全なる予算オーバーだった。


「ふむ……だとすると、仮登録でクエスト助力だけ受けるのが妥当かな。リスクも報酬も低いけど、初手としては悪くない」


「おおっ、先輩! ってことは、仮登録の私でも、一緒に行けばクエストできるってこと?」


「理屈の上では、な」


「よーし決めた! 組もう! 仮パーティーで! 一回きりでも十分! あ、もちろん私、赤魔道士だから戦力にはなるよ! たぶん! ……たぶんね?」


「たぶんが二回も出たぞ……」


「まっすぐな言葉って信用できないって、私のおじいちゃんが言ってた! 私は慎重派なの! でも決断は早いの!」 呆れながらも、リュカはなぜかその言葉を拒まなかった。どこか、懐かしさを感じる“無鉄砲さ”だった。「……ま…いいか。じゃあ、“森林クルーク”の初級任務。ゴブリン討伐だ。報酬は折半」 「えっ、折半? やった、ありがとう! 私、いい相棒になるよ! 顔もまあまあだし!」「顔?? んん? なるほどねえ……」


リュカはにやりと笑って、ふいにエレネアの顔をじっと覗き込んだ。その距離、三十センチもない。


「っ……な、なによ?」


エレネアは思わず一歩下がって、頬を赤らめた。リュカはわざとらしく顎に手を当ててうーんと唸る。


「うん、悪くはない。……が、こう……どことなく“こどもっぽい”っていうか?」


「こ、こども!? はあ!? これでも村ではちょっとはモテ……いや、その、えっと、とにかく私はもう大人だもん!」


「言い訳がすでに子供なんだよなぁ」


リュカが肩をすくめると、エレネアはぷくーっと頬を膨らませた。


「いいもんねっ、どうせ私は中身で勝負だからっ!」


「……“たぶん”ってまた付けそうだったな、今」


「う、うるさいなー!」


ふんす!と鼻を鳴らし、勢いよく胸を張るエレネア。しかしその動きのせいで、肩にかけていた布袋がぶるんと回って落ちかける。


「あっ」


「おっと」


リュカが反射的に手を伸ばして、ひょいと布袋の端をつまんだ。間一髪のタイミングだったが――


「……軽っ。中身、空っぽか?」


「失礼なっ! ちゃんと“干からびたトカゲのしっぽ”が入ってるもん!」


「いやそれ、むしろ何で持ってるのか聞きたい……」


二人のやりとりに、受付の女性がくすっと笑った。


「ふふ。お似合いのパートナーね。はい、仮登録完了。こちらが冒険者証よ」


「おおおっ! きた、これぇー!」


エレネアはぴょんと跳ねるようにして小さな木札を受け取る。そこには、彼女の名前と“仮登録・第六級”の文字が刻まれていた。


「仮だけど、これで私も冒険者かぁ……!」


その目が、子どものようにきらきらと輝いているのを見て、リュカは小さく笑った。


「よし、じゃあ支度が済んだら表に集合。目的地は“森林クルーク”。武器と装備は……って、何持ってる?」


「え、えーっと……練習用に使っていた魔導杖(割れてる)と、薬草(期限切れ)と……あと、トカゲのしっぽ?」


「……君、どっから見ても“初任者講習すら受けてないレベル”だぞ……」


「だ、大丈夫! 気合いと根性でなんとかするから!」


「いまの時代、気合いと根性で勝てるの、スライムまでだぞ……」


呆れ顔のリュカと、むくれ顔のエレネア。だがその足取りは、まっすぐにギルドの扉へと向かっていた。


“仮”でも“初級”でも、“一歩目”は誰もが同じだ。


エレネアの冒険が、ついに幕を開ける。


🜂🜁🜄🜃

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